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夏草は 茂りにけりな たまぼこの 道行き人も むすぶばかりに
『夏草はかなり茂ってきたことでしょう。旅行く人が道中の無事を祈って、草を結ぶくらいに』
「……煩いな」
街の喧騒は、溜息すらも飲み込んで、耳朶を狂わせる。
月の聲。大地の唄。太陽の吐息。
世界の果てを、誰も知らない。
誰も気づかない焦燥。
小さな呟きはタクシーのエンジン音にまぎれて、すぐ隣に座るマネージャーの倉橋ですら、怪訝そうな顔を向けてきた。
「はい? 何かおっしゃいました?」
「いいえ、何も」
一瞬、浮かんだ冷笑を綺麗に押し隠し、口元に体温を乗せる。その器用さを疑いもせず、彼は黒い手帳をぺらぺらとめくる手に視線を再び落とした。
「今日のバーは芸能人がよく行くようなところですから、オーナーもいろいろと勝手がわかっているでしょうが、あまり飲みすぎないでくださいね」
明朝のスケジュール。九時に女性雑誌の取材から始まって、似たような文字が延々と続く手帳だ。
足枷にするために、時間は細かく区切られるのだろうか。
「この前みたいに忘れてましたなんて言い訳では済まされないんですよ、この世界。今回はちゃんと、それ覚えておいてくださいね」
「ええ、本当にすみませんでした」
殊勝な言葉とは裏腹に、頭を下げることすらしない彼を、倉橋は手帳に目を向けていて気づかなかったようだ。
「まったく、君くらいですよ。新人のはずなのにまるで大物のような顔をして」
「そうですか?」
冗談のつもりなのか、倉橋は苦笑を返しただけだった。
タクシーは滑るように路肩に寄せられ、停車する。
「―――維月くん」
四十歳手前の倉橋の、子供に諭すような優しい声が、自動で開いていく扉の音と重なった。
たしかに彼からしてみたら、その半分程度しか生きていない自分は子供なのかもしれない。生きた年数だけでただ、大人と子供を相対的に線引きできるのであれば。
「なんですか」
邪気のない仮面で、彼は振り返る。感情なく、笑うのはたぶん昔から得意だった。けれどいっそ倣岸な微笑みのほうが、美しいと誰もが讃えることを知っている。
「楽しんで、行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
降りたらすぐに、タクシーは走り出し、ほかの車にまぎれて消えた。どれも同じで見分けがつかない。
それを見送ってから少しだけ視線を空に向けた。星が一つも見えないほど、明るい街だった。たくさんのビルに囲まれていて、あるはずの月も見えない。不安そうな色が、その双眸を一瞬だけ横切ったのを、いったい誰が知るだろうか。
そのとき背中の扉がかたんと開き、中から大音量で流行の曲が漏れてきた。振り返ると、見知った顔が扉に手をかけていた。
「ああ、絳牙か! 遅かったな、どうした?」
呼んでもいないのに、タクシーに気づいてわざわざ外に出てきた男。名前はもう忘れてしまった。だが、このバーで開かれる小さな集まりに呼んでくれたのは、たしか彼だった気がする。絳牙にとっては些細なことだった。
「撮影が長引いてしまったんです。今日はお誘いありがとうございます」
笑顔過ぎるこの男の、八方美人な態度が気に入らなかったが、それをおくびにも出さないだけの理性はあるつもりだった。悪態は胸中だけに留め、殊勝な笑顔を返す。
(……ったく、俺のどこが『大物のような顔』だ? これだけ媚びへつらってやってるだろうが)
招かれてバーの中に足を踏み入れると、そこにはすでに十人以上の男女がグラスを傾けていた。たしかに全員、絳牙よりも年上で、この世界での経験も桁違いに長い。
「特に藍香なんてねぇ、ずっと君はいつ来るんだーってうるさくて」
「あはは、光栄です」
シャンパンを受け取って、絳牙はすぐにその女を見つけた。三十歳でありながら、子供のような幼い顔をしている。背が低いからよけいにそう思うのかもしれない。
「あぁ、絳牙っ。やぁーっと来たんだねぇ」
「まだ撮影あるんですよ、俺たち」
「知ってるよぉ。あたしもねえ、もっと絳牙と出たかったなぁー?」
酔っ払っているわけでもなさそうなのに、その声は舌足らずで不快に語尾が伸びる。それでも彼女の隣でグラスを傾けた。
「ね? 監督にゆってあたしをも一回出さしてよぉ?」
「俺、新人だからそんな権限ありませんよ。それに藍香さん、ストーリーではもう死んじゃってるじゃないですか」
「そぉだけどー、絳牙は主役じゃん」
主役がストーリーを作るわけでもないし変更することもできない。そんな正当でつまらない言い訳を口にする前に、もう十年以上を女優として費やしている藍香は、絳牙の冷静な対応に少し機嫌を損ねたような顔を向けた。それに微笑みを返してやると、諦めたように持っていたワイングラスを一気に飲み干した。
「もうっ。絳牙にゆわれるとしょうがないなって気になっちゃうよねー」
「―――それより、藍香さん?」
案外に敏い彼女は、少し声を低くしただけで、空のグラスをカウンターに置いた。騒々しい音楽のおかげで、自分たちの声すら拾うのが精一杯の店内では、誰も彼らの会話を聞き取ることはできなかった。
「今日ですよね?」
「いくら?」
「十五万」
藍香は笑った。妖艶に、それでいてどこか幼げな唇はそのままに。
くるりと上を向いた付け睫毛と、きらきらと輝くアイシャドー。そんな派手なメイクがよく似合っているのに、今の彼女はどこまでも純真無垢な少女に見えた。
「あそこの棚だよ」
顔を向けず、指も指さず。
視線だけをわずかにトイレのほうに向けて。
一つ頷いて立ち上がる。
「同じワイン、頼んでもらっておいていいですか?」
「了解でえーす」
大げさなリアクションで、藍香は手を振った。
席をはずして、そのトイレのほうに歩く。壁の棚に鉢植えが飾られていて、その奥に茶封筒が見えた。絳牙はそれを自分が持っている同じ大きさの茶封筒と交換し、ジャケットの内ポケットにしまった。
そのままトイレに入り、茶封筒を開ける。
中には、小麦粉のような白い粉。
(―――違う、これじゃないな。だが、同じものから出来ている……いったいどうやって作ったんだか)
手の中のそれを、しばらくもてあましながら逡巡する。持っていてもいいが、維月絳牙として見つかったら厄介なことにしかならないだろう。
絳牙は粉を迷わず流し、少し長く息を吐いた。
(綾姫……どこにいる……)