1
『木の暗の 夕闇なるに 霍公鳥 いづくを家と 鳴き渡るらむ』
(木の下の闇の中、月のない闇夜だというのにホトトギスはどこが棲家と知って鳴き渡っているのか)
「そんなことがあったのですか、琥珀も災難でしたね」
そう言うわりには、御簾の向こう側の簀子に座る崚王の語調には、彼に同情する様子の欠片も見られなかった。楽しんでいるようにさえ思える。彼の災難はこの崚王が発端に違いない。
「崚さんの指示通り、あたしのこと正直に言ったらすっごい驚いてたし」
「彼にはいずれ知れることですよ」
常世から来たこと、そして月夜媛と呼ばれていること。
まだなんの自覚もなかったが、紗夜は自分の意思でこの耀月珠穂宮に滞在することを決めた。
紗夜たちがたどり着いた耀京は、まさに思い描いていた平安京そのままという雰囲気で、この耀月珠穂宮は螢国の行宮などとは比べものにならないほど大きかった。
ここには十二の舎があるらしく、紗夜はそのうち東の六合舎という部屋を与えられた。東は春、そして調和をつかさどる木神だからという陰陽道の理由を説明してくれたが、紗夜にはさっぱりだった。
「ただ、ほかの者には知られぬよう、気を付けてくださいね」
彼は、紗夜たちから遅れること三日、多くの女房や下人たちとともに華やかに耀京に到着し、庶人たちがその行列を見ようと大勢集まったおかげで、今でもちょっとした話題になるほど華麗で豪奢だったと、女房たちが誇らしげに話していた。彼女らの誇張はあるだろうが、崚王がド派手に入京したことはたしかである。
「わかってます」
絳牙が赫映としての力を封じている今、紗夜が月夜媛だと公表するのは好ましくないらしい。世間に知られたら赫映との婚姻が待っていると脅されては、紗夜としても確実に秘密にしておきたい事実であり、そのためでなくても自分が姫などと呼ばれる立場だと言いふらすのは恥ずかしすぎる。
「いずれ良家の姫をお話し相手として紹介することになるかと思いますが」
「話し相手?」
だが、ここには萌葱も瑚月もいる。卯花は相変わらず格式ばった態度だが、このまほろばの感覚を的確に伝えてくれるのが彼女だ。
そもそも瑚月がいれば退屈しないですみそうだったし、事実今日までそうだった。
「―――紗夜さん」
「………………」
来た……紗夜は無意識に背筋を伸ばして身構えていた。
彼がそうして慈愛のこもった声で、姫ではなく紗夜と名を呼ぶときは要注意だ。御簾ひとつ隔てただけではなんの防御にもならない。かといって、彼に姫君呼ばわりされる方に慣れたわけでもなかったが。
この邸に勤めていながら主人である『赫映』と対面することのないほとんどの女房たちは、崚王のことを匂い立つ麗しさだとか芳しい美貌だとか詩的なことを口にしては臆面もなく褒めちぎっていたが、それを大げさだと思わせないほど美辞麗句が似合う。
絳牙のぴんと研ぎ澄まされた冷涼な美とはまた違う、彼はあくまであたたかく柔らかい印象を他者に……とりわけ女性に与えることに成功していた。
が、紗夜はそんな胡散臭い笑顔に騙されたりしないのだった。
「この大納言の『縁戚の姫君』が舎人と親しいなどと知れたら、どんな噂が流れるかご存知ですか?」
「えっと……」
月夜媛として公表できない紗夜のまほろばでの身分は、大納言崚王の『縁戚の姫君』というなんとも胡散臭いものだった。
崚王の父親は倭皇の血統ということだったが、母について誰も知らなかった。語ろうともしない。素性不明の鄙の女人と思われているようだった。そのつながりで変な娘が一人くらい増えても特に不審には思われないのだという。
「こちらでは身分が何よりも効力を持ちます」
「身分って……でもあたしは一般人のままのほうがいいんだけど」
「それでは赫映の邸になどいられませんよ。さすがに女房や下女にするわけにもいきませんし」
姫扱いを受けるくらいならそのほうがましだった。
「……でもだからって崚さんの親戚って。それに瑚月ちゃんは幼馴染だから近くにいてくれれば安心―――」
「まずは、高貴なお方が舎人ごときに、と女たちが蔑む。下男は自分にもそんな好機が訪れるかもしれないと無駄な期待を抱く。上からは見苦しい醜聞と批難され、最終的には参内もままならなくなり、私は責任を取らされる形で京を追われ、自害に追い込まれるはめになるのですが、それでも構いませんか」
「………………」
紗夜の言葉は何事もなかったかのように無視されていた。
いきなり壮大なスケールにまで話が広がり、この世界に疎い紗夜には反論がすぐには思いつかなかった。自害―――たかが交友関係でそんなことになるはずないと思うのだが、こちらの風習だと言われればそれまでだし、崚王にやんわりと説明されてしまうとありうるような気がしてしまうから不思議だ。
しかたなく助け舟を求めるように、ちらりとうしろに置かれた几帳を振り返る。話題に出された当の本人が、もう無駄だと思ったのかその几帳を押しのけて姿を見せ、呆れたように肩をすくめた。
崚王の顔色は読めなかったけれど、大きな溜息が今にも聞こえてきそうだった。
「気づいてたんなら直接言えよ、まどろっこしい」
「夜這の邪魔をしてしまったのですから、これ以上の無粋はさすがにできません」
聞き捨てならない言葉に反論しようとした紗夜よりも早く、これほど皮肉たっぷりの語調にもめげない瑚月がふっとわざとらしく鼻で笑ってみせる。
「紗夜にか? いまさらどうしようっていうんだ。俺なら綾のお姫さんのほうがいいね」
「はあ?」
瑚月にそんなこと言われる筋合いはない。だが、瑚月どころか崚王すら紗夜のそんな感情には目もくれなかった。凄絶なほど整った笑みは、他者を莫迦にするものでも威圧するものでもないはずなのだが、これ以上の反論を許さない強制力があった。
「綾姫の親代わりは私ですよ。せいぜい精進してください」
「大事にしすぎてそのまま行き遅れても知らねーぞ」
「別にかまいません。瑚月殿に関係あることとも思えませんけれど」
「もしそうなったらあんた、貰う気でもあんのか」
「雅な秘め事に無粋を申すものではありません」
「……えっ」
思わぬ返しに紗夜は驚いて崚王を見遣ったが、彼の笑顔はその言葉の真偽を曖昧にさせる。紗夜にも瑚月にも、崚王が本気でそう言ったのかどうかわからなかった。……どのみち崚王が親代わりと称して背後に控えている限り、綾姫に手を出す無謀な勇気を持つ男など現れるはずがない……気もする。瑚月も苦い表情で黙り込んでしまった。
「……あーでも綾姫っていえばー、綾姫と絳牙さんってまだ帰ってこないの?」
微妙にいたたまれなくなった紗夜が無理矢理に話題を変えると、崚王は少しだけ真面目さを取り戻した視線を向けた。
崚王が紗夜たちよりも遅れて京に戻ってきた理由がそれだ。彼はただ、わずかな苦笑を口元に乗せて首を横に振った。
「姫君に心配していただけるとは、絳牙も果報者ですね」
「……えっ? いや別に心配ってゆーか、気になる……じゃなくて、綾姫が! 事件とかに巻き込まれてたらかわいそうだし」
―――何を必死になって言い訳しているのだろう。紗夜はもう何度目かわからない敗北感を味わうことになった。彼の話し方は、ずるい。取り繕えなくなる。
綾姫は火事で失われた都久邑のたった一人の生き残りで、生まれはもちろん一般人なのだが、日本人形のような完成された美貌の少女だ。ある日突然姫などと祭り上げられてしまった紗夜よりも、よほど姫君らしく見えた。
だが、彼女の本性は『赫映』の護衛であり、影武者。むしろ彼女のほうが守ってもらわなければならない華奢な外見からの印象とは真逆の姿なのだった。信じられないほどの身体能力を、紗夜も目の当たりにしている。
紗夜が想像する物語のかぐや姫には、まさに彼女こそが相応しいと思える、完璧すぎる美貌。―――あんな口も態度も悪いかぐや姫なんて願い下げだ……。しかも男。
「あの綾姫なら大丈夫だろ。問題は維月絳牙のほうじゃねーの?」
「綾姫の心配をしてくださらない殿方にはやはり退いてもらうしかありません」
「親バカもいい加減にしろよ」
呆れ返った瑚月の声は、彼を責めるものではなく、むしろからかいの笑みだ。
物忌と称して螢国に蟄居していることになっている絳牙だが、五日前に二人で常世に行ったきり戻ってきていないのだという。
絳牙たちがいない間に、紗夜たちは螢国で卯月朔日の行事である衣替えも終え、まほろばは夏を迎えていた。崚王は相変わらず泰然と構えているが、これほど長くまほろばを空けたことはいままでなかったという言葉が紗夜は気になった。
やはり心配なのだろう。そういうときは、自分がいかに便利な世界のぬるま湯に浸りきっていたのかを再認識させられる。電話やメールで誰とでも近かった。それなのに、いつまでも誰とも遠いままだった。
(でも維月絳牙ってドラマの撮影とかもやってるんだよね……毎日まほろばと常世を行ったり来たりしてたってことかな。そんなに簡単にできるのかな)
淡い期待を抱く―――もしかしたら紗夜も、毎日日本に帰ることができるのではないかと。
「絳牙さんってどうやって常世に行ってるの? あの鏡本ってそんなしょっちゅう使えるものなのかなぁ」
当然の疑問を口にしたつもりだった紗夜だが、崚王だけでなく瑚月にまで怪訝そうな顔をされた。
「あれ? 紗夜お前知らねえんだっけ?」
「なにを?」
「『赫映』ってのは本来なら常世に属するべきものなのにまほろばで生まれる存在だ。そのせいか、身ひとつで常世とまほろばを行き来できるんだ」
「……え? そうなの?」
「そう、どんな条件もいらない。場所、時間、特定の道具、言霊……そういった制約はなにひとつない。願うだけで常世にもまほろばにも行ける。『赫映』としての力は封じられても古の本質は変えられないんだろうな」
崚王は口を出さなかった。
瑚月の説明が正しいのだろう。彼の知識はずっと紗夜の幼馴染として日本にいたとはとても思えないほどだ。
「赫映は血筋を辿れば天照皇神に当たる。俺ら守人も同じ血を引いてはいるが、赫映のはずっと濃い。三貴子の中でも桁外れの神力だったのをすべて受け継いでいる一族だから」
ここには神が本当にいる。
瑚月に説明を受けるたび、それを感じる。けれど、まだ、身近ではない。一歩ずつ神の世が音もなく紗夜の世界に土足で踏み込んでくる……そんな気がする。
(神様なんていない……なんて傲慢なことは、あたしも思っていなかったけど)
けれど、こうして実在するように語られると、それもまた違う。―――紗夜にはけっきょくのところ、神がなんなのかわからないままだ。
「赫映だけがその力をもってまほろばと常世を行き来できます。けれど、ほかの者が行けない場所でもない。現に姫君や瑚月殿もこちらに来ましたからね。私が常世に行くこともできます」
夏の爽やかな葵襲ねの直衣を着こなす崚王は、白木の蝙蝠扇をはらりと開いた。それだけでこちらにまで漂う匂いがある。夏になり、その衣服や扇に焚き染められた香も変わっていることに、そのとき紗夜はようやく気づいた。
「まずは八咫鏡。日本でも三種の神器として知られているものです。これはとある社に厳重に保管されていますが、残念ながら今は効力を失っていて使えません」
聞いたことのある名前だ。三種の神器、剣と鏡と勾玉……だが日本では、そのどれもが長い歴史の中に埋もれて消えたはずのもの。
「それから、……これが一番確実なもので、鏡本ですね」
紗夜はあの雨の日、その本によってまほろばにやってきたのだ。
「昔、八咫鏡から力を抽出して作られたもので、その写本が三冊だけ現存します。これはかなり高度な陰陽道を駆使する必要があるのですが、悪用されぬようやはり厳重に管理しています」
「…………」
「俺らが日本に戻るってなった場合はその鏡本ってのが必要なわけ。とはいえ、ほいほい使っていいわけでもないし、そもそも扱える人間がほとんどいない」
瑚月の説明は崚王よりは親切だが、それでも紗夜にはまだ難しいときがある。
「どうせ日本にしょっちゅう戻れるかもって考えたんだろ、紗夜」
「……う」
瑚月にはすべてお見通しだ。悔しい。
「鏡本はいまの紗夜には使えねえだろうなあ。俺でも厳しいかもしんない」
「えっ、そうなの……?」
(でもあれ風城が持ってたんだよ……)
風城世良がいまどこでどうしているのかはわからない。崚王も知らないというし、瑚月も見ていないらしい。
なぜ彼がまほろばの本を持っていたのだろう。紗夜が考えてもわかるはずもないのは当然だが、気になってしかたがない。あの本の効力を風城世良は知っていたのか。どうやって手に入れたのか……。
かなり高度な陰陽道を駆使する―――彼はその条件を満たしているのだろうか。
「ほかに、常世からまほろばに来るための道も、いくつか残されておりますよ」
「えっ?」
「ほら、神隠しっていうだろ」
紗夜が何を知らないのか、瑚月はちゃんと知っている。
ここに初めて来てからもう一ヶ月以上が過ぎたはずだが、この世界の常識やら作法やら習慣やらといったものは、どうしても慣れるのが難しい。それに比べて、瑚月はここで生まれ育ったかのように崚王と対等の会話をし、舎人として普通に生活を始めて同僚とも親しくできている。
「昔は陰陽の力を使えるやつも今より多くて、その道を無意識に開けてまほろばに渡っちまうやつもいたんだよ。それを神隠しっていう」
何も知らないまま生きていた日本にも、まほろばの片鱗がある。
まほろばはその繋がりを当然のことのように知っていたのに、日本はそれを切り捨てて進んだ。
(それを背負ってるのが赫映ひとりだなんて、なんかいまでも信じられないけど)
支えるのが月夜媛の役目だと言われたが、いまの紗夜にできることはまほろばについて勉強することだけだった。しかも勉強というよりも瑚月にいろいろと詰め込まされているだけだ。
紗夜は自分が何を知らないのかすらわからない。
「姫君のお持ちになっているその足珠にも、常世とまほろばを渡る力がありますよ」
「これが?」
崚王に指摘され、紗夜は首にかけていた赤色の勾玉を見下ろした。瑚月が特殊な紐で結ってネックレスになるようにしてくれたのだ。そっと指で触れてみても、あれ以来なにも語りかけてこない。紗夜にとっては単なるアクセサリーのようなつもりになっていた。
「足珠は月夜見尊の力の一部。月夜見尊は常世とまほろばのどちらにも属さず、暦を支配する神ですから」
天照皇神と素戔嗚尊は、それぞれ常世とまほろばで子孫を作り、その血を今に伝えている、とされている。だが、月夜見尊は時を司り、二つの世の調停者という立場を取り、子孫はいない。
月夜媛はただ、月夜見尊の眷属であるに過ぎないのだ。
「それも三種の神器のひとつだからな。なくすなよ紗夜」
「……えぇっ! そっそうなのっ?」
そんな御大層なものだとは思っていなかった。三種の神器の本物なんて、本来なら国宝ものだ。
(……毎日つけとけって言われたけど、それってなくすかもだよ)
そして、なくしたときに瑚月がどんな顔をするかなんて、想像したくもなかった。慌てて首から取ろうとする紗夜の心情などとっくにわかっている瑚月が、その手首を少し強くつかんだ。
「いまの常世にあったって誰も役に立たせられないから、お前のもんでいいんだよ。これは月夜媛を守る八尺瓊勾玉。古事記読んどけっつったろ」
「……うぅ」
痛いところをつかれた。
八尺瓊勾玉……三種の神器にそんな名前のものがあったけれど……。
「だって難しいんだよ、ぜんぜん読み終わんないって」
紗夜の部屋には様々な本が積み上げられているが、どれも普通の日本語ではない。国語の授業でやる、いわゆる古文。すらすら読めるはずがない。だが読めないと断言するのも嫌だったから、代わりに余裕ぶっている瑚月の顔を睨みつけてやった―――そのとき。
「崚兄さま~っ。やぁっと見つけたよ~っ。また日本に行っちゃったのかと思っちゃったっ」
日本という言葉に驚いて顔を上げると、崚王のうしろにある廂と簀子を隔てる御簾から小さな顔がのぞいていた。
「緋桜、元気にしていた?」
「あたしがいなくて寂しかったでしょ?」
「そうだね、一刻も早く会いたかったけれど、仕事が山積みですまなかったね」
薄赤の着物を重ねた彼女は、明らかに紗夜よりも年下で中学生にすら見えたが、遠慮なく崚王の腕に抱きついている。妙に馴れ馴れしい子だった。
その登場にも驚いたが、何より紗夜を瞠目させたのは、崚王の態度の激変だ。少女をうっとうしがるでもなく、優しく髪の毛に触れ、口調も皮肉なしに優しげだ。瑚月も意外なものを見てしまった笑いを、懸命に堪えているようだった。
「あれ? おきゃくさま?」
「こちら、紗夜さんと瑚月殿。この間話しただろう」
「あ、ここに一緒に住んでくれるんだよね?」
「常世から来た方たちだから、いろいろ君が教えてあげるといい」
「うん、もちろんだよ」
緋桜と呼ばれた少女は、紗夜と崚王を隔てる御簾をも遠慮なく持ち上げて母屋に足を踏み入れた。
この子も日本から来たのだろうか。だが、それにしては着物に慣れている風で、長くまっすぐで艶のある黒髪はそれによく似合っていた。明るい表情と大きな瞳は美少女そのもの。コンテストなんかに出ればグランプリ間違いなしのきらきらしい美貌である。
とくにその瞳。
光の加減では黒っぽく見えるかもしれないが、それは濃い赤。どこまでも深く、それでいて無垢で。
目力が強すぎる。
視線を合わせればきっと、今度は逸らせなくなるのだろう。
同じ女性から見ても、ありえないほど可愛らしい顔をしている。明らかに年下だというのに、その視線を受け止めるのはなんだか恥ずかしくなって、まともに見ることができなくなるほどだ。
それは、日本人形のようだった透明性のある綾姫の美しさとはまた違う、活力のある少女の清らかさ。
「なんだぁ? これ」
「彼女は緋桜。絳牙の実の妹姫です。極秘ですが実は生まれも育ちも常世なので、話も合うかと思いますから仲良くしてあげてくださいね」
「…………」
ぶっきらぼうに言い捨てた瑚月も、さすがに顔色を変えて口を噤んだ。さらりといろいろ暴露しているくせに、『極秘ですが』をやけに強調している。他言したらどうなるか、考えたくもなかった。
「……妹っ?」
兄が兄なら妹も妹だ。とんでもない美人兄妹だった。
「よろしくね、紗夜。瑚月」
物怖じすることがないのか、彼女は崚王にしたときと同じようにぺたんと座りこむと紗夜の腕に抱きついてきた。
「月夜媛なんでしょ? 絳牙兄さまの婚約者の」
「……えっ! えっとー、そっそれは」
改めてこうして聞いてみると、違和感がありすぎる。
相手はあの維月絳牙……いや、芸能人とはいえ彼だって一人の人間。同じ人種なのだから臆することはないのだ。そう言い聞かせても、目の前で見た彼の美貌はとても紗夜と同じものとは思えなかった。
(そう! たとえばあの綾姫くらい可愛かったらまだ隣に並んでもおかしくないかもしんないけどっ)
紗夜の葛藤をよそに、あっさりと瑚月は笑った。
「ま、心配ないだろ。あんたじゃ向こうから断わる」
「なにそれ瑚月ちゃん。そんなことわかんないんだから」
「ほぉ? じゃあ何か? あれが本気でもいいっていうんだな」
「だからそんなこと言ってないし」
くすくすと楽しそうに緋桜が笑った。だが、紗夜にとっては笑い事ではない。
(いやでもここでちゃんと否定しておかないと。こんなおかしな結婚が世の中に広まったらどうするの? 有名人の結婚だよ。マスコミに追いかけられたらたまったもんじゃないっていうかそもそも誰かと結婚なんてありえないから)
そんな心情などお構いなしの崚王は、少しだけ神妙な顔になり、紗夜に流し目とも取れるような視線を送ってきた。……条件反射的に身構えた。
「女房たちの言質は妬心による口さがない噂ですが、たしかに姫君を捧げ物にしようという動きは、これから出てくるかもしれません」
「……これ、から?」
「ええ、月夜媛だからではなく、この崚王の縁戚の血筋ならば側室として申し分ないという話にはなるでしょう」
萌葱を含め、この邸の使用人たちは紗夜が月夜媛だということを知らない。赫映の邸に招かれた年頃の娘が、不相応とも取れる厚い待遇を受けていたことによる疑惑で、紗夜が赫映の妻になるのではないかと噂されただけだった。
「月夜媛の記憶を持つ娘は、『赫映』とともに生き、子孫を残すことでその血脈を強くして力を維持するという運命にあるのですが……」
本人の意思とは関係なく、ということだろう。
だが思えば、本人の意思のみで結婚できるようになったのは、日本でもたぶんここ最近のことだ。
とはいえ、抵抗せずに流されることは、紗夜にはできなかった。
もしククイヒメの記憶があったら、喜んで赫映と結婚するのだろうか。千年以上前の恋心をそのまま残して……?
(そしたら、あたし……は……?)
紗夜の意思は、何処に行くのだろう。
「けれど、紗夜さんが気にすることはありませんよ。庶人がなんといおうと、瑚月殿の言うように絳牙の意向もあるわけですし」
「………………」
瑚月も幼馴染の気安さから、たいがいかなり酷いことを言ってくるが、崚王にも紗夜を擁護する気はさらさらないのがありありと見て取れた。この笑顔は曲者だ。
だがたしかに絳牙がきっぱりはっきりと、捧げ物にはならないと言った記憶はある。しかも、少し怒って……いたような。
(やっぱあたし嫌われてるっ?)
好かれて子孫を……などと言われても困るが、嫌われて嬉しいこともない。
反論の言葉を必死になって探していたら、簀子に女房が現れ、崚王に何かを伝えていた。小声すぎて紗夜のほうまでは何も聞こえてこない。
崚王は皇族の血筋というだけでなく、重要な役目を担っている。大納言というのは日本で言うところの高級官僚か副大臣というレベルらしく、螢国では比較的のんびりしていたように見えた彼も、耀京ではそうもいかないらしい。帰京は数日前だったが、そのあとも午前中から夜までずっと出かけていることが多い。今日は久しぶりに午後の明るいうちに帰宅したが、客はひっきりなしに訪れ、ようやく夕方になって一段落したところだった。
ここは日本よりも身分社会が根付いている。その中でも皇族の彼は文句なしにトップクラスの身分なのだろう。これでまだ二十五歳だというのだから驚きだ。
「姫君方。再び来客のようですので、失礼いたします」
「え? ちょ……ちょっと……っ」
彼女をここに置いていくつもりだろうか。崚王からの否定の言葉がほしくて目線を送ったのだが、彼は気づかないふりをした。ふりだ、絶対これは。
彼の笑顔の、裏の裏が読めない。裏の裏は表などではなかった。
「何かあれば琥珀を頼りにしてやってください。頼りなさは否めませんが……まぁ、なんとかするでしょう」
崚王は淡々とそう言った。
耀宮大夫の琥珀に、彼の評価は低くはないかもしれないが、高くない。というよりも、まだ評価など下してないように感じた。
「いいひとそうだったのに」
人当たりはたまにきつそうだが、生真面目な部分は紗夜にとって崚王よりもよほど信頼に足る人物のように見えた。
率直な感想を呟いた紗夜に、崚王は微笑みながらも少しだけ真摯な視線を向けた。
「『いいひと』だけではやっていけないのですよ、この耀京では」
「?」
紗夜には彼の言葉の真の意味が、まだわからなかった。緋桜はそんな彼の態度を気にした様子もなく、無邪気に話しかける。
「崚兄さま、今日はずっといてくれる?」
簀子に降りかけた彼は振り返り、緋桜に軽く頷いて見せてからその場を後にした。彼は緋桜に優しいというよりも甘いのかもしれない。