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(……って、すぐに帰ってくるかと思えば、もうあれから一月じゃないか!)
琥珀は苛立ちを隠そうともせず、内裏の建礼門にも劣らないほど荘厳な門を睨みつけているとしか思えないような眼差しで見上げた。
(なにが多少の問題で今は京に送れない、だ。崚王! 多少の問題で一月も待たせるつもりかっ)
赫映も赫映だ。いくら物忌みと言い訳したところで、あまりにも長すぎる。気づけばもう卯月、夏端月とも呼ばれるとおり、季節も夏に代わってしまった。
その間、緋桜は彼の知り合いの家に預けられたらしいからいいとして、耀月珠穂宮は下人たち含めてもぬけの殻。さすがに放っておくわけにもいかないから、琥珀は義理堅く定期的に見回ることにしているのだが、幸いにというべきか、魑魅魍魎殿と恐れられている邸に空き巣などが入ることは一度もなかった。
(まぁ、崚王がなにか守りを敷いているんだろうが……)
彼は年若い大納言としても有名だが、倭皇の血を引くだけあって陰陽道の優秀な使い手でもある。それでも真面目な琥珀は、心配になってしまう。我ながら損な役回りだ。改めて思う。
「あー、着いた着いたー。ここやろ、右京一条のでっかいお邸っちゅうんは」
思わず漏れた溜息に重なったのは、遠くから聞こえる田舎じみた甲高い声だった。
一条といえば、大臣や親王などの錚々(そうそう)たる邸が並ぶ、耀京屈指の雅びを誇る地。その景観にまるでそぐわない大声に、琥珀はゆっくりと振り返る。
「は?」
一頭の馬がかなりの速度で近づいてきていた。
しかも真っ直ぐに琥珀に向かって……いや、この耀月珠穂宮に向かって、だ。
「お、おいっ」
空き巣や物取りにしては昼間っから堂々としすぎている。かつ、目立ちすぎている。
馬の背でひらひらと風に舞う装束は、どう見ても馬に乗るには適していない。細長か汗衫か……。どちらにしろ女装束だ。そして聞こえた声も、幼げな少女のもの。
「なんやっ。そなとこにおらんてくれんっ」
「な……っ! 止まれっ、ここを何処だと思っているんだっ」
琥珀が叫んだときには遅かった。
目前に馬の大きな体躯。
避けるというよりも、とっさに頭を低くすることしかできなかった。
衝撃を覚悟して構えたが、馬は跳躍して琥珀をかろうじて飛び越えた……かに見えたのだが、一歩足りなかった。
琥珀がその力強い片足に蹴られるかという寸前、馬との間に突風が走った。
馬は体勢を崩しかけたものの、馬上の騎手とともに門のそばへ見事に着地した。
一方、突風に煽られた琥珀はその衝撃であっさりと地面に転がり込む。……最悪なことに、今朝まで降っていた雨でぬかるんでいた。
「びっくりやわ~。なんや、このお人は何やっとったん?」
「…………」
何をやっているのか聞きたいのは琥珀のほうだった。だが、突然の出来事に驚きすぎて、顔を上げて彼女を見やるだけで精一杯だった。言葉など出てこない。
「ちょっとー萌葱―っ! 速すぎだよーっ」
呆然としているところに、さらに声が聞こえてきた。
「助け方乱暴だったかと思ったけど、ちゃんと着地してるよあいつ。二週間前には馬なんて乗れなかったのに、すげー運動神経だな」
「……どうせあたしはぜーんぜん上達しなかったよーだ。そもそも瑚月ちゃんが馬に乗れたなんて驚きだし」
「俺も別に必死で練習したわけじゃねーけどできた」
「…………あっそう」
二人の若い男女のようだ。
琥珀がようやくそちらに顔を向けると、早足で近づいてきた馬は一頭だけだった。馬上には声の主の男女が乗っている。
「おい、二人とも大丈夫か」
「あたいは無事や。門んとこにこのお人がおってん、見えんかったわ」
「ここに用がある人なんじゃないの?」
「けんど今まだだぁれもおらんのやろ。盗っ人やったかもしれんよ」
それはこちらが疑いたいことだ。いでたちを見れば、琥珀がそんな物騒なものではないことくらい一目瞭然ではないか。略装とはいえしっかり深緋の衣冠を纏っているし、近くに牛車も置いてあるのだから。
馬の背から小さな体躯が飛び降りる。
翻る若草色の装束は汗衫だった。ということは、彼女はまだ年端もいかない幼女ということだ。
(……なぜ汗衫の女童が馬なんかに)
だが、続く馬から降りたのは、狩衣の男と……小袿の、こちらはおそらく裳着も済ませたであろう女人。その衣はとても庶人が着られるような生地には見えなかった。だが、裕福な家の娘が馬に乗ることはまずないだろうし、庶人の娘が汗衫や小袿などを手に入れることもない。矛盾だ。
「あんた、大丈夫か? ちゃんと助けたつもりだったんだけどな、頭でも打ったか?」
よく見れば琥珀よりも少し年下の、藤襲ねの薄色がしっくりとよく似合う狩衣男に手を差し出され、それに掴まってなんとか立ち上がった。衣冠がやけに重く感じたのは、こびりついたこの泥水のせいばかりではないだろう。
「あのな、すまんかった。門にびっくりしてしもうて、あたいも前あんま見ておらんかったんよ」
汗衫の幼女は、田舎っぽい話し方だったが、丁寧に頭を下げた。戸惑いはまだ消えないものの、わざとではないものをいつまでも怒るほど琥珀も狭量ではない。
「……いや、こちらも少し注意散漫だったからな」
どれもこれも崚王と赫映のせいだという気もしてくる。
「あの羅城門とかいうんのも驚いたけんどなぁ、耀月珠穂宮ってのは螢国の行宮とはまたえらい違うんでなぁ」
―――螢国?
それは崚王が滞在する予定だと言い残していった場所だ。しかも耀月珠穂宮という言葉がこの幼女の口から出てくるとは思わなかった。
「失礼だが……この邸に用がある者らか?」
「……えっと、用っていうか、あたしたちは」
小袿の女人が困ったように口を開いて狩衣男を見上げた。
小葵の文様をあしらった上質の小袿。だが、その所作からは残念ながら上品さは欠片も感じられなかった。高貴な女人は髪の毛を伸ばすのが基本だが、彼女のそれは肩よりは長いが、琥珀が見てきた女人たちの誰よりもはるかに短い。
けれど、庶人が無理をして着飾っているようであるかと思えばそうでもなく、醜美よりもまず、彼女からは正体のわからない独特な印象だけが色濃く伝わる。それはけっして不愉快なものではないのだが、とにかく異質だった。
「崚さんからここに行くようにって言われているんです。あ、彼は牛車っていう乗り物でゆっくり来るんだって」
「……崚、さん?」
あの崚王を親しく呼ぶというのにも驚いた。
耀京で女性を虜にする男といえば、誰もが容易に三人の名前を挙げるのだが、崚王も文句なしにそのうちの一人だ。女性が彼を話題にするときは、うんざりするほど艶めいた声に様変わりすることに辟易していた琥珀だが、この異端の女人は親しく、だがあっさりと彼のことを呼ぶ。
「で、そちらは門番かなんかか?」
「違うやろ」
狩衣男のあまりにも的外れな問いに腹を立てるよりも早く、汗衫の女童が首を振り、じろじろと無遠慮に琥珀を上から下まで眺めた。
「よく見ればこのお人が来てるんは深緋の位袍やわ。てことは四位の官人ってことや」
一番の田舎者かと偏見で見ていた幼女が、琥珀を盗っ人と誤解したにもかかわらず、一番物事をわかっている様子なのが、琥珀にはどこかちぐはぐに見えた。どんな庶人でもこの京にいる限り、位袍の男を門番などと間違えることはないというのに。
「ああ……そういやそうだな。泥のせいで……っていや、なんでもない」
「…………」
たしかに泥のせいで、官人の位袍も貧しい様子になっているが、反論をぐっと堪えることには成功した。
「あ、もしかして琥珀さん? えっと……なんだっけ? ようぐうの……なんとかっていう? たしかこのお邸の執事みたいなことをしてくれるひとなんだよね」
「耀宮大夫。ったく、ぜんぜん覚えねえな」
「だって難しすぎるんだよ言葉が」
小袿の女人は言い訳のようにそう言ったが、男は笑っただけだった。だが、彼の口から耀宮大夫などという言葉が出てくるだけで琥珀には驚きだった。やはりただの庶人ではありえない。
大臣たちの決定には逆らえず、琥珀は残念ながら内定していた耀宮大夫に、邸の主がいない間に正式に決まってしまっていた。それによって右中弁の正五位上という官位から耀宮大夫の従四位下に上がった。―――嬉しさは半減だった。
「崚さんから聞いてます。四位の……えっと……ま、真面目なひとが来たらそれは琥珀さんだって」
少し口ごもり、わざとらしく言葉を変えた。琥珀は尋ねずにはいられなかった。
「―――本当にそう言いましたか、あの崚王が?」
「……え、えっとー」
案の定、彼女は言いにくそうに視線を逸らした。
「さすがだなあんた。ホントは崚のやつ、融通がきかなそうで美人がいても靡かないほど堅物な四位の位袍を着た若い男って言ったんだ」
「そうや、しかもな、疑うなら色仕掛け試してみたらええっつうんやけど、やっぱ靡かんかったなぁ」
「あのね萌葱。別にあたしはそんなの求めてないから」
「………………」
求めていないと言いたいのはこちらのほうだ。裳着前の幼女はともかくとして、いくらきらきらしい小袿を纏っていて、顔もたしかによく見れば悪くはないと思える女人だといっても、こんな型破りの登場の仕方で恋心を抱くほうがどうかしている。
物事をはっきり言う琥珀だが、さすがに初対面の若い女人に貴女に靡くことなどないと断言することはできず、仏頂面で押し黙るに留めた。……だが。
「これからお世話になるひとなんだし」
女人のその一言が効いた。
「―――こちらに住まうご予定か?」
崚王の采配なのだろうか。だが、教養という面において、彼女には女房勤めなど向いてなさそうに見える。
「まー、俺は……そうだな、この宮に舎人として雇われることになってるからな」
「あたいは女房見習い予定やし」
二人はそれぞれ、瑚月、萌葱と名乗った。だが、雇われることになっているだの見習い予定だの、琥珀にはその待遇がよくわからなかった。だが、崚王の知り合いなら琥珀も礼儀を通さなければならない。
「耀宮大夫兼右中弁、従四位下、琥珀と申します」
そして最後に小袿の女人を見つめる。だが、彼女は言いにくそうに苦笑した。
「えっと……あたしは」
崚王の側室などと言われても驚かないつもりで、琥珀は身構えた。
「名前は紗夜。月夜媛とかって……呼ばれてます」
「―――は?」
……馬に蹴られて頭を打ったのかもしれない。そのときの琥珀は、本気で我が身を心配した。