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第二帖 佳月なきも夢の如くに  作者: 水城杏楠
五章  出づる月日の かぎりなければ
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『……還るの。ここから』

 紗夜の口から別の声が発せられ、絳牙は目を大きく見開いた。

 掴んでいたその腕を、思わず離した。

 ―――この、声は。

『この、常しえは……わたしたちの世』

 ゆらゆらと、揺蕩(たゆた)う風が淡い光を帯びて。

 それはまるで、薄紗(はくさ)のごとく。

(……木剋土(もくこくど)、だ)

 土行を抑えられるのは、木行。この女がそんなことを知るはずはない。だが、月夜媛(つくよのひめ)に与えられた常しえの橘の力が、木行として、土行の力に反発して目覚めた。

 男は身をよじった。だが、その光は巧妙に男の手足を絡み取り、紗夜の指先から、ゆっくりと儚い形を取っていく紗が、男の爪から腕に、そして肩に。

 瞳のない顔に―――全身に。

 重みなく、掛けられていく。

 白の色が、やけに濃密で。

 なおもすべてを飲み込むように、ゆらゆらと膨張している。

 反射した陽光が見せるのは、ぱらぱらと落ちていく細かい粒子。風に乗って、その白さは白昼にあってもやけに映えて見えた。

 包まれた四肢はどこかほっとしたように力が抜けて、漂う紗に溶け合う。

 その微睡みに、一筋の柔らかな光を見て、たぶん、その男は能面のような顔で―――微笑んだ。

 そんな気がした。

 暖かく透明な紗衣(さい)に抱かれて……やがてその身体は、冷ややかな大地の中に消えていった。

 一分にも満たない、あっという間の出来事。

 紗夜は絳牙を振り返った。

『御子……ごめんなさい。どうか……』

 紗夜の顔が違う女と重なって見える。錯覚だろうとかまわなかった。

鵠媛(くくいひめ)……! 俺、は……」

 名を呼ぶことしかできなかった。

 彼女は儚い笑みだけを残した。

(本当に……この女が、月夜媛(つくよのひめ)だったんだな……)

 足珠(たるたま)の力を引き出すなんて、崚でもできない。

 鵠媛(くくいひめ)と呼ばれ、小碓尊(おうすのみこと)のために命を投げ出し、その無常を憂うことなく彼をただ想い続けた純粋な媛の心。

(だからこそ、俺はこの女の手は取らない。崚が言うようには、ならない)

 やけに明るい陽射しのもと、どこか冷たく感じる紅い地面の上。雲ひとつない空が、やけに眩しく、この惨劇には似合わないほど清々しい。

 絳牙は全身の疲労感から地面に倒れこんだ。朝のコンクリートは思ったより冷たくて痛かった。

 今までの出来事がまるで夢だったかと思うほどに、爽やかな静けさだ。

「おい」

 すでに大気に溶けて跡形もなくなってしまったところを、紗夜はまだ呆然と見つめていた。当の本人が何を起こしたのかまったくわかっていない。

「―――おい」

「……あ……っ、きゅ、救急車……っ」

「は?」

「あたし……コンビニで救急車呼んで……」

 自分が何を口走っているのかもよくわかっていないのかもしれない。絳牙は仰向けに寝転がったままちらりと紗夜を見た。―――疲れる。指先一つ動かすことすら億劫に感じた。

「人は呼ぶな。俺が、病院など行けるわけがないだろう」

 維月絳牙という名はあまりにも有名になりすぎていて、女と少し会話しただけでもあっというまに大きな噂になりかねない。虚像のスキャンダルなどどうでもいいが、マスコミに私生活を追いかけられたら迷惑すぎる。

(常世の民も単純莫迦ばかりだ)

 これほど有名になる必要はなかった。美形だ美形だと、常世だけでなくまほろばでも騒がれるが、その美貌が役に立ったことなど一度もないというのに。

「……この程度の傷で死にはしない」

 不幸なことに『赫映』としての力を封じていたとしても、この身体も血も汗の一滴さえも『赫映』のもの。多少の怪我で死ぬことは許されていなかった。

「え……でも……」

 躊躇いがちに、紗夜はつぶやく。

 この女は今も昔も、『赫映』をただの人間だという扱いをする。

 特異性などまるで感じない、ごく普通の常世の女。そう見える、のに。彼女は、『維月絳牙』を前にしても、躊躇いなく真っ直ぐな視線を向けてきた。

 誰もが彼を特別視している。そして、有名人になってしまった常世でもそれは同じだった。勝手に賞賛し、勝手に失望する。絳牙の知らないところで、何かが拾われ捨てられていく。

(それなのに、この女は……)

 逸らしてもまた、視線を向けたくなる。何度でも。―――月夜媛(つくよのひめ)。それはときに、太陽よりも強く輝いて。

鵠媛(くくいひめ)……お前はいつも俺を……)

 追いかけて、手を伸ばしたうしろ姿を……今でも思い出す。今の彼女の姿とは似ても似つかないのに、重なる。

(どうして……俺についてこいと言わなかった……)

 共に死のうと。

 それすら言ってくれずに、彼女は最期まで一人のまま。

 あの空すらも盗めると、本気で信じたあのころの自分が羨ましい。鵠媛のためなら、罪を背負ってでも生きていける……生きていたいと、そう誓ったのは嘘ではなかったのに。

 その背中が傾いで……落ちていく瞬間まで、赫映はすべてを覚えている。

 ―――傾いで。

「……お、おいっ!」

 絳牙は飛び起きて、紗夜の倒れこむ身体をとっさに支えていた。自分の傷が悲鳴を上げたが、無視した。

 ―――その顔は蒼白で。

 息は、している。だが細い。

(木行が……効いていない……)

 抑えることには成功したが、完全な浄化にはいたらなかったのか。

 誰のせいかなんてわかっている。不完全な赫映が不完全な月夜媛(つくよのひめ)を生んだのだ。内部に巣食った土行が、荒っぽいやり方で月夜媛(つくよのひめ)を一部起こしただけだった。

 彼女の力の本質は、常しえの橘に繋がる木行。木剋土(もくこくど)とは、木行をもって土行を滅するという基本だが、それすら上手く制御できないほど月夜媛(つくよのひめ)の力は不安定なのだった。

(俺では解毒はできん……)

 いつだって、毒を与えることしかできない。彼女を殺すことはできても、生かすすべはいつも持ってない。

(―――だが、崚なら解毒できるか)

 その瞬間、二人の身体はその場から消えていた。


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