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第二帖 佳月なきも夢の如くに  作者: 水城杏楠
五章  出づる月日の かぎりなければ
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『君が代は 千代ともささじ 天の戸や 出づる月日の かぎりなければ』

(大君の御代は、千年とも限って言うまい。天の戸を開いて昇る太陽と月は限りなく在り続けるのだから)


 いつまでこんなことが続くのだろう。

 日本に帰ってきてから三日が過ぎたが、維月絳牙は相変わらず紗夜の隣にいて、けれども多くを説明しなかった。

 初日は車やトラックに付けねらわれたが、そのあとも山に入れば樹木や枝が勝手に動いて絡み付き、誰もいない海岸に出れば局地的巨大津波に襲われ、畑を通ればキャベツ弾丸が剛速球で飛んできた。

 だがそれでも追求したくなかったのは、どちらを狙っているものなのかがもうわかってしまったから。

(このひとは、あたしを守ってくれている)

 月夜媛(つくよのひめ)だから……狙われるのだろうか。だが、誰にも漏らしていない事実だ。それにここはまほろばではなく、日本。驚くほど、紗夜にとっての普通の世界。

 レクサスは人気のない道をずっと走っている。まだ東京周辺のようだけれど、ずいぶん田舎だった。紗夜の実家は京都の田舎だが、それと大して変わらない。

 こうして逃げ続けて、紗夜には何もできなくて。

「―――今日で片付く」

 紗夜の表情から悟ったのか、絳牙が早口でそう告げてきた。

「まほろばでの(まじな)いが強くなっている。たぶん怨念の本体が送られてくるはずだ」

「……?」

 意味がわからずに聞き返そうとしたとき、はっと絳牙が背後を振り返った。これほどあからさまな緊張感を見せるのは、紗夜が知る限り初めてだった。

 紗夜も同じ方向に視線を向けた。

「な、なにあれ……」

 レクサスは八十キロのスピードが出ていた。けれど、その後ろを猛然と駆けてくる人間……らしきものがいる。

(カール・ルイスも真っ青だよ……)

 追いつかれる前に絳牙はレクサスを急ブレーキで止めて、いつもの小太刀を持って外に飛び出した。紗夜は傍観するしかなかった。

 いままでだって大丈夫だった。だから今度も大丈夫―――そんな根拠のない言葉を毎回繰り返すだけ。

 だが、怖いものは怖い。つかんでいた背もたれを、紗夜はぐっと無意識に強く握り締めた。

 振り乱す長い髪の毛……だが、体格は男性のようだ。赤っぽい服は崚王が着ている直衣と同じ。つまり、まほろばの者ということだ。

 年齢などがまったく推測できない……瞳がなかったから。目の色が、なにもなく、本来目があるはずの部分はくぼんでおり、まるで頭蓋骨を見ているかのような暗い影だけがあった。

 異様に伸びた左手の爪を振り上げて、一瞬で絳牙に近づいた。

 甲高い金属音とともに小太刀がそれを弾き返す。爪が折れてもおかしくない勢いなのに、男は体制を崩して後ろに数歩下がったものの、その爪は欠けてもいなかった。

 絳牙が素早く、レクサスから距離を取った。それでも男は、長い髪をなびかせながら同じ速度で絳牙に追いついた。車のスピードについていける足を持っているのだから、逃げられるはずもない。

 金属音が再び響く。車の窓を閉めていても、その高い音は紗夜にまで届いてしまう。

 そのうちに、絳牙の小太刀は男の腕をかすったように見えた。だが、彼は悲鳴も上げなかったし、その動作は衰えることがなかった。痛みを感じていないようだった。

(……本体が来るとかって言ってたけど、これが、本体?)

 とても凝視できるようなものではなかった。ホラー映画よりのような血みどろな生々しさはないが、それが却って現実感を引き立たせていた。

 目を逸らしたいが……逸らせなかった。

「外へ出ろっ!」

「―――え?」

 絳牙の叫び声を認識したときには、頭蓋骨男がものすごい勢いでこちらに向かってくるところだった。慌ててドアを開けようとするが、突発的な事態に指先が思うように動かない。

 絳牙の小太刀が男の片足を切り裂く。ふくらはぎから下があっさりと地面に落ち、男の速度が緩んだ。その隙に、絳牙がレクサスに追いついてそのドアを強引に開けたかと思うと、紗夜を文字通り引き摺り下ろしていた。あっという間の出来事で、紗夜には何が起こったのか認識できなかった。

 だが、ほっと息をつく時間はなかった。次の瞬間には、体勢を戻していつのまにか追いついていた男が、レクサスのトランクに噛み付いていた。

 手と顎の力だけで、トランクに張り付いている姿は、もう紗夜には人間には見えなかった。たしかに人型をしているのだが、野生の獣だってきっとこんな動きはしない。生きてないものの不自然な挙動。

 一つ舌打ちした絳牙が、小太刀を握りなおして彼に向かおうとする。だが、それより早く、男が身体に力を込めると、顎の力だけでレクサスの前方がくいっと宙に持ち上がったのだ。

 呆然としたまま動けないでいる紗夜の頭を無理やり押さえつけて屈ませたと同時に、その上をものすごい勢いでレクサスが一閃した。まるで刀を薙ぐように軽く。

 勢いそのままに、振り回されるそれが、再び紗夜の頭上を通る前に、絳牙が立ち上がって小太刀を構えた。大型のトラックすら切り捨てたそれで、レクサスが左右対称に真っ二つに割れた。

 高級車もったいない……間近で起こる現象に冷静になりきれない紗夜の脳裏は、やけに現実的なことを思った。毎日のほとんどを車の中で過ごしていたのだ。自分のものではないけれど、少しくらい愛着だって沸いていた。

 小太刀の一撃は、男の頭上にまで届いた。

 紗夜がおそるおそる顔を上げると、頭蓋骨のような頭が上半分だけ割れていた。恐ろしいし、気持ち悪い。だのに不思議と紗夜は、やはり凝視してしまう。

「早く行けっ」

 絳牙が紗夜を無理矢理立たせ、その手を離した。拒絶のような鋭い一言だった。

 鋭い声の中に見えたのは、純粋な怒り。その矛先がまるで紗夜自身に向けられているようで一瞬ひるみそうになる。だが、黙って恭順することはできなかった。

 時速八十キロに追いついてきた男だ。レクサスがあっても逃げるのは難しい。けれど、自分の足では逃げられないと悟ったからではなく、紗夜はその場を動かなかった。

(……あたしが、絳牙さんを置いて逃げて……いいの?)

 ここにいても何もできないと、わかっていても。

『―――……ぁあ』

 男が……笑った、のだろうか。

 けれど彼の不気味な顔に変化を見出すことはできなかった。

『……土行(どぎょう)……太陰(たいおん)―――』

 くぐもって聞き取りにくかったが、それはたしかにこの男が発した『声』だった。口が動いたようには紗夜には見えなかったのに、紗夜の耳にまでかすかに、だがたしかに届いた。

 同時に、紗夜をそばでかばっていた絳牙の顔色が明らかに、変わった。

「―――正規の陰陽術式をまだ使えるのか……っ」

 絳牙が彼のつぶやく言葉を遮るように小太刀を一閃させた。彼は避けなかった。右肩がぼたりと地面に落ちた。さらに左腕を狙って絳牙は切り返す。

 だが、左の長い爪が……まるで刃のように、陽光を反射させて。

塡星(ちんしょう)()―――宿、らん……』

「っ!」

 か……っと紗夜の全身が熱を帯びたように感じた。

「―――……ぁ」

 かくん、と勝手に足の力が抜けて、紗夜はその場に膝をついていた。

(……なに、これ―――)

 指が、首が、瞼が……動かせなくて。

 息苦しい……。

「おいっ!」

 絳牙に腕をつかまれた、そこがひどく熱かった。

 どくんどくん、と、いつもより心臓の音が強く近く感じられる。速すぎて、イタイ。

「お前……あれを口にしていたのかっ!」

 叱責のような強い声も、紗夜には届かなかった。

 無意識に顔を上げた。少しだけ。たったそれだけの動作に、ものすごい体力が必要だった。

 ……なぜだろう。―――予感が、し、て。

(―――あ)

 苦しくて、苦しくて、声を出すことができなかった。ただ、ゆっくりと目を見開いて、絳牙の肩越しにかかる影を凝視した。

 はっと絳牙が振り返った。

「―――っぅ」

 ……ざくり、と嫌な音がした。

 そのとき紗夜がかろうじて認識したのは、男の長い爪の先から滴る……紅い鮮やかな、血。

 絳牙の胸元に、三本の筋の傷を残して。

「―――……」

 何かを言おうとした。でも何を。……何、を?

 土行(どぎょう)

 土の気。

 紗夜の手は、自然と足珠(たるたま)を握りしめていた。

 指が震えた。紗夜の意識の届かないところで。足珠(たるたま)を握るその手に、絳牙の大きな手の平が重なった。

「……や、やめろ……引きずられる、な」

 絳牙の手が紗夜の腕をもう一度つかむ。―――強く。

 だが、紗夜には何も、聞こえなかった。自分の心臓の音以外、なにも。


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