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第二帖 佳月なきも夢の如くに  作者: 水城杏楠
四章  昔の人の 袖の香ぞする
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 太陽が東の空に姿を見せたころ。

 右京一条から左京三条まで一気に馬を走らせた崚は、その邸を取り囲む塀を見つめながら東門へ馬を進ませた。

 整然とした印象のあったその地は、いまは面影すらなく、ただ禍々しい大気で覆われている。道行く人々は誰もそれに気づかないが、崚にははっきりとその黒いものが見えていた。

 白馬から飛び降りると同時に、それは音もなくゆらりと消えてただの紙片に戻る。宙に漂うそれを、普段では考えられないほど乱暴につかみながら、東門を抜けた。いるはずの門番はなく、奇妙な静寂が落ちていた。

寝殿(しんでん)にまだ、いる)

 薬の影響でもはや、何者でもなくなってしまった『物』がそこに。

 東中門から東の(たい)へ早足で向かうが、女房のひとりにもすれ違わなかった。とっくに目を覚ましていてもおかしくない時間。

 崚は、無礼を承知の上で女房が寝ているであろう房の御簾(みす)をそっと掻き上げる。

 彼女たちはたしかに、規則正しい寝息を立てて眠っていた。

 瘴気(しょうき)の中で、眠らされていた。

(騒がれるよりむしろ好都合か)

 見たところ、生命に別状はない。崚はあっさり捨て置くことにした。何十人もいる女房や下人に関わっている余裕はさすがになかった。

 渡殿(わたどの)を通り、一歩進んだところで足を止めた。いや、止めさせられた。

 押し戻される感覚に、崚は身構える。

(―――手遅れ、かもしれない)

 先刻、柚子姫に告げた自分の無感情な一言が思い出される。

 湧き上がる感情を理性のみで押さえつけ、崚はゆらりと左手を動かした。

 足元から静寂の風が、舞う。

 ばりっと何かが、破ける音だけがした。予想よりはるかに強い反発に、思わず一歩後ずさる。

 何かを思案する余裕などなく、強引に一歩を踏み出せば、その抵抗はますます膨れ上がったが、もう構いはしなかった。

 異物に対する摩擦。

 床からその熱を感じる。直衣(のうし)の裾から燃えてしまいそうなほど。

 それでも慎重に、だが早足で寝殿(しんでん)にたどり着く。そこは、格子(こうし)御簾(みす)によって固く閉ざされていた。

 中は、視えない。物理的に、ではなく。

 危険だと理性は訴える。百も承知だ。

 それでもここまで気づかずにのさばらせた。崚の大切なものを奪おうと動いていたというのに。

 格子(こうし)に手を伸ばす。

 触れる前に、先ほどとは比べ物にならないほどの衝撃が走った。髪が直衣(のうし)が、はためいて後ろに(なび)く。

 両手で力を込めて押し戻した瞬間を見計らって、一陣の鋭い突風が崚の頭上を駆けた。格子(こうし)がばらばらと崩れ、その上に綺麗に切り取られた御簾(みす)が落ちる。

 あらわになった寝殿(しんでん)には、几帳(きちょう)らしきものがいくつか置いてあったがすでに原型を留めておらず、あちこちに倒れて酷い有様だった。文台(ぶんだい)などの調度品も同様の有様だろうが、几帳(きちょう)が散乱しすぎていてほかには何も見えない。

 中心の畳の上に、うずくまる一つの影があった。

 結わずに乱れたままの長い髪を無造作に揺らし、『彼』は侵入者に気づいて少しだけ顔を持ち上げた。

 虚ろな双眸が、崚を捉える。

 そこに眼球などというものは見つからず、あるのは窪んだ灰色の……潰れたような瞳。

 光も闇も、そこにはなかった。

 ―――狂気さえ。

 呼吸をするごとに生命が、そこから流れていく。

 砂のように軽く。

 崚は躊躇わなかった。飢えた獣のような瞳をしていたら、まだ救いがあったのに。

 懐から半透明の勾玉(まがたま)を取り出した。

「っ!」

 そのとき、そばで操っていた式神のいくつかが勝手に動き出すのと同時に、崚も違和感を全身で悟った。

 寝静まって誰も起きて来ないはずの邸で、誰かの気配が近づいてくる。もう寝殿(しんでん)全体を覆う禍々しい大気はないとはいえ、根源はまだ封じていないのだ。

 だが、崚はこの物体から目を離して振り返ることができない。

 足音だけがやけに強く、近くで聞こえる気がする。

(何者、だ? ……雲散させたとはいえ、この大気の中を易々と)

 足音が、止まった。

 崚のすぐ背中で。

「……こ、これは―――」

 聞いた記憶のない、若い男の声だった。

「何故この状況で邸に来られた? 神祇少副(じんぎしょうふ)朝露殿と所縁ある者ですか」

 そんなつもりはなかったが、つい詰問する口調になった。一刻を争う今は、何も取り繕っていられない。後ろの男はようやく大納言に気づき、少し驚いたようだったが、慌てて口を開く。

「は、はい。神祇少佑(じんぎしょうじょう)、久遠と申します……」

 この惨状を見て、崚の問いに答える彼の声は、緊張や焦燥や狼狽といったものをありありと含んでいた。この邸に来たときに、すでに何かを覚悟していたのだろうが、やはり想像を絶していたようだ。

 名前にすら聞き覚えもなかったが、神祇少佑(じんぎしょうじょう)が琥珀と親しいということは、崚も記憶していた。彼が、あの『薬』をここから手に入れて、琥珀経由で崚にまで渡らせた神祇少佑(じんぎしょうじょう)なのだろう。

神祇官(じんぎかん)次官(すけ)、か……しかしこれほどの力を秘めていながら、本人が気づいていないというのも珍しい)

 この瘴気の中を、意識を保ったまま入り込めるだけの力が彼にはそなわっているということだ、無自覚の中で。

 だが、今はそれを指摘してやる余裕も、開花させている時間もない。

 崚は手の中の勾玉(まがたま)を強く握る。一瞬で砕け散ったそれを、畳全体にばら撒いた。

 天地の理を欠いたものを、ただこの世界から排除するために。

 勾玉(まがたま)の破片から、ゆらりと淡い色の煙が立ち上り、男を包み込んでいく。抵抗はあるが、その程度では揺るがなかった。

 久遠が、呼吸を忘れたかのように立ち尽くし、その光景を呆然とした瞳で見やっていた。その様子に、崚は彼が勾玉(まがたま)の効力を正確に視ているのだと知る。

 揺らめく煙の中で、男の―――朝露(あさつゆ)の手が動く。

 その顔は、崚ではなく……久遠のほうを向いていて……。

 流れる生命が、止まったかのようだった。

 それとともに、彼の周囲の刻も。

 沈殿する閑寂。その奇妙に作り出された空間に、崚までもが顔色をさっと変えた。

 一瞬の間を置いて、大気を(つんざ)く轟音。

 欠片だった勾玉(まがたま)が、まるで蒸発するように大気に溶けて消え失せる。

 崚が防ぐ間すらなく、一瞬で男の伸ばした手が久遠の腕をつかんでいた。いや、想定しうる事態だったが、崚は久遠に割く時間をとうに捨てていたのだ。

「……し、少副(しょうふ)……ど、の―――」

 腕にどす黒い手が食い込む、そんな感覚に久遠が顔色を歪めたとき、崚の手が風を切る勢いで一閃した。

 ぼたりと朝露の手が久遠から落ちて、みるみるうちに壊死(えし)していく。

 だが、手首から下をなくしたことを男は認識していないのか、それでもなお久遠に向かって伸ばしていた。

「―――あ……」

 久遠が一歩下がる。

 まだ自我があるのか、それとも知り合いである久遠を見つけて自我が戻ったのか、今の崚にはどちらでもかまわなかった。躊躇する理由にはならない。久遠ですら、崚にとっては庇う動機が一つもない。

 逃がすことなど、万に一つもなかった。

 だが、崚が男の足を止めるより一瞬早く、久遠が伸ばされた手を振り解く仕草をしたのだ。

 それは無意識だっただろう。

 嫌悪か、憐憫か、悲哀か。

 名づけられない感情とともに、払われたそれ。

 崚はただ、間に合わないことだけを瞬時に悟った。久遠の腕を取り、簀子(すのこ)に突き飛ばしながら左手で突風を起こす。

 来るはずだった衝撃は、風によって左右に流され、崚と久遠のもとには届かなかった。代わりのようにそれは、庭の木々を震わせ、次々と葉を濁らせた。あっという間に朽ち果てて、倒れる。すべての生命力を吸い取られ、奪われて……。

 家の柱や屋根も朽ちて、木屑がまるで雪のように降り注ぐ。

 崚がかろうじて守ったのは、自分自身と久遠だけ。朝露の周りに、生き物はなくなっていた。あの女房たちのうち、何人が助かったのか今の崚には確認する余裕がなかった。

 周囲の生気すべてが、彼とともに消えていく。

 粉々になって。

 もう、崚が自らなにかをする必要はなかった。

 朝露の身体は倒れる。だがそれはもう、人間の形には見えなくなってしまった、ただどす黒い塊だった。

 干からびて、ただ……崩れていった。―――これで終わりだと思った。そのとき、庭に一つ、巧妙に隠すようにして残る小さな植物を見つけた。

 朽ちていく中、それだけが青々としていて。

 ―――大芹。

 その葉から力が溢れる……鏡本の一部が使われている。それに気づいたときには遅かった。崩れかけた彼の身体は、粉になる前に忽然と消えた。

「―――絳牙」

 崚は無意識にそう呟いていた。

 行先はひとつしかないから。


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