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「ふう……」
緊張を解いて、崚は一つ大きく息を吐いた。
すでに寅の刻。まだ空は暗いままだが、深夜というより明け方に近く、本来ならもう参内の支度をしなければならない時間だ。
女房も呼ばず、自分で手早く直衣を着て身支度をする。正三位大納言の崚は、禁色および雑袍勅許を得ており、冠をつけねば人に会うこともできないという風習も過去のものになりつつあるが、長く伸ばした髪を後ろで軽く結っただけという姿は、本来ならとても参内できるようなものではなかった。
格子を上げ、螣蛇舎の簀子に降りると、庭に広がる大きな池が見える。十六町もの広大な敷地。それが、『赫映』の血族の邸として古来与えられていた。
他人である崚王が住む場所ではないのだが、耀月珠穂宮は陰陽が支える邸だ。絳牙が赫映としての力のほとんどを抑えられている以上、誰かがその代わりをなさねばならず、いまのところそれができるのは赫映を封じた崚王本人だけだった。
とくに十二の御霊の中で、気性が荒くその力を安易に破壊に傾けてしまうのが螣蛇。蛇というのは水に属するものがほとんどだが、これは炎を司る。それだけ螣蛇の力が強いということだ。
今は崚の夜刀神の持つ水行をもって炎を鎮めている。それを相剋という。
(絳牙……私たちでは君を救えないのに……)
陰陽道に関することなら崚も手助けはできる。彼の負担を減らすためなら、何でもする覚悟でここにいる。
だが、都久邑の件があってから、彼は他人と関わるのを極端に避けていた。緋桜のことも心配していながら自分では会いにいかない。だからあれほど人見知りせずに気安い緋桜が、絳牙にだけはどこか遠慮して懐かないのだ。
月夜媛の魂を持つ紗夜なら……。
そう崚王は期待している。けれど、今のところ意識はしているようだが、彼の態度は変わらなかった。
(突き放すのが優しさなのかもしれない)
紗夜のためを思うなら。
記憶のある赫映と記憶のない月夜媛。想いが釣り合うはずはなく、紗夜は絳牙に否応なく引きずられる。絳牙もそれをわかっているから手を取るようなことはせず、いつまでも平行線が続くことは崚から見ても明白だった。
だが、崚王は絳牙のためにしか動くことはできなかった。それが紗夜の意思や望みに反していたとしても。
(私は守人などではないから……)
賀茂家と同じく、佐伯家も守人として月夜媛を守る立場にある。崚は母方からその血を受け継いでいるが、こちらで官職をもらったときから常世とは決別した。佐伯の姓を名乗ったことなどないし、これからもないだろう。
水面に映るのは、もうすぐ十五夜に近づく、望月に少し足りない月。
だのに頼りない光に見える。
わずかな風で不安定に揺れ動くそれはまるで、人々の心そのもののよう。
散ってしまった桜。もう、夏だ。崚の纏う直衣も、薔薇の襲ね。紅と紫。これでまた、春を待つことしかできなくなるが、まだその名残を水面に浮かべていた。
中島になにげない仕草で視線を向け、崚はそこにある者の気配を悟った。
(―――やっと……動いたか)
中島に立つ影が、かがんで小さな手を池に伸ばしていた。
水音とともに広がる波紋が、偽の月を静かに消した。
ひとひらを、そっと掬って水ごと両の手に乗せる。初めて触れたかのように、ものめずらしそうに。
簡単に失われてしまう脆いものを愛でる、神の双眸。
崚は大げさなほど慎重な足取りで、階を一段ずつ降りた。そうしないと踏み外してしまうかのように。
いや、きっとそうしないと……足元を掬われるから。それをわかっているから、自然に注意を強要されるのだ。
「言い訳をしに来られたのですか?」
崚の声音に、舞い降りる神性を、打ち払うだけの鋭利はなかった。いつもと同じ、穏やかな高さで淡々と、温もりや笑顔を薄く表面に縫い上げていたが、それだけだった。崚では太刀打ちできないものを、彼女は備えている。
だのに、小さな影はゆっくりと顔を上げた。それらすべてを承知の上で。
瑣末な月光でも、崚にはその顔、その表情までもがよく見えた。
「―――言い訳じゃと? このわたくしにそのような不遜の言を臆せずに吐くとは、よい身分よの」
老成した声。威圧でも倣岸でもなく、世の中のすべてを見おろす断罪の瞳。
けれど、それとは裏腹に、その体躯はいとけない幼女のもの。十に届くばかりの、小さく無邪気な幼子の手だ。
表着のない簡素な汗衫は紅と薄紫の撫子の襲ね。一部を結い上げた長い黒髪に挿す赤の芍薬が、彼女自身の持つ無色の華やかさをさらに引き立てていた。
「神祇の巫女殿は、私ごときの礼など必要ありますまい」
稀代の陰陽道の使い手で、不老長寿の巫女。
それが十歳にしか見えない幼女の正体だった。二百年以上前の倭皇の娘で、いまなおそのままの姿をとどめている。倭皇は素戔嗚尊の末裔、稀に一介の陰陽使いには太刀打ちできぬほどの使い手が生まれるのだ。
だが、長く常世で生活していた崚は、その位階や出生や年の功だけで誰かに屈することはなく、崚王という王氏に下る者にも容赦しない。温厚と残忍を上手く使い分ける崚の本性を知る数少ない人物である彼女は、すっと双眸を鋭く細めたが、否定の言葉はついになかった。
「よい。小童がどれほど楯突こうともわたくしの知ったことではないわ。こたびの件、確かにこちらの不手際もあったと認めよう」
落ち着いた一言一言に、崚は自然に軽く頭を垂れた。案外にあっさりとした認め方をするのが意外でもあったから。
「安眠を妨害してしまいましたから、たいそう激怒されているかと思っていましたが」
「若いものは浅慮じゃの」
崚とて彼女と会う機会はほとんどなく、外見が幼女でしかない彼女に若いと言われることには多少の違和感をいまだ拭いきれなかった。それでも注意深く彼女の奥底を感じ取れば、深海や大樹のような泰然たる包容と卓越した精神力が、何百年という時の長さを確かに知らしめる。
それは、たかが二十五年生きただけの崚では、けっして持ち得ないもの。
「たかが三月とて、安心して眠れぬ」
もう高齢だから……などといえば本人は烈火のごとく反論するだろうが、彼女はときおり長期の睡眠を取ることがある。今回は三ヶ月弱だったが、ときおり一年以上目覚めないらしい。
彼女の肩書きは、従四位下、神祇伯。位階でいえば、正三位の公卿である崚のほうが数段格上ということになる。だが、彼女は時の倭皇の娘。一品を得た内親王であり、その陰陽道もあって、いまのまほろばでは倭皇と赫映に次いで影響力が強い。そのため、彼女は無用な争いを避けるためにあえて寝ているのだとも一部では言われる。
ときおり、狸寝入りなのではないかと崚は思う。……が、あえてそれを指摘するなどという無駄なことはけっしてしなかった。
「柚子姫」
肩書きばかりが多い彼女の、真実の名を知って呼ぶ者はもうほとんどいなかった。柚子内親王は、おもむろに瞳を上げたが、その視線に含む感情は崚には欠片も見せなかった。
「おぬしが呪詛まがいの文で起こしてくれたおかげで、よう視えるようになったの」
「呪詛とは失礼な」
崚は、朗らかに笑う。
「ただの嘆願の文でしたのに。破って捨て置いてしまわれるとは残念なことです」
崚ではなく『赫映』からとして新耀宮大夫を経由してまで届けられた、非公式とはいえ正式な文だったのだが、さすがに柚子姫を欺くことはできなかった。それどころか再生不可能なほど細切れにされた挙句、神炎の篝火にくべられてしまった。
式神が術者まで通じていると承知の上での所業に違いない。まったく容赦ないやり口に、崚はむしろ喜懼をすら覚えるのだ。
「あのような出来の悪い式神はいらぬ」
こうして崚の慢心を、頭から崩していく。それとともに、崚の歓心は畏怖を塗り替えて強くなる。
けれど、崚はその感情をおくびにも出さない。
柚子姫はそっと、両手を傾けた。
掬っていた水滴が、ぽたりと落ちて大地に染み込んでいく。
最後にたったひとつ残った牡丹のひとひらを、小さな手が柔らかく握り締めた。
「問いは鏡本を盗んだ者、であったな」
柚子姫は反橋を歩いて、螣蛇舎へゆっくりと近づいてきた。
もうすぐ夜が明ける―――。
東の空が、濃色に染められて。
「今回ばかりはわたくしが目覚めなかったのも道理。鏡本の盗人は倭皇本人であるからの」
崚は無言のまま少しだけ頷いた。あまりにも淡白な反応に、柚子姫が機嫌を損ねたように顔をしかめた。
「なんじゃ、驚かぬのかえ。おぬしはつまらぬの」
「驚いていますよ。ええ、とても。まさか倭皇がこのような愚行をと思うと本当に驚きますし、嘆いておりますよ」
柚子姫に取り繕ったところで意味がないとわかっているせいか、つい投げやりな本音が漏れた。
鏡本は現在、常世へ渡る唯一の手段と言ってよい。
神祇官が厳重に管理していることになっているが、実は、三冊のうち一冊は柚子姫の邸宅である祈葉宮で保管されている。今回盗まれたのはそちらだ。
正式には三冊とも貸し出されてなどいない。誰かが盗み、あの蔵人に渡して紗夜を常世からまほろばに連れてきた。
―――あれからひと月以上が過ぎた。
まだ、鏡本は戻っていない。
かつての鏡本は、意図しなくてもまほろばと常世を行き来してしまえるほど強大な陰陽道を秘めた神具であった。けれどその原本は、長い月日の中でとうに失われている。
いまの鏡本は写本と言われ、柚子姫が生を受けるより少し前に作られたもの。それほどの力はないとはいえ、放置していていいものではなかった。
「柚子姫様が目覚めぬほど、警戒心を抱かせない盗人など、倭皇のほかに思い浮かばなかったのですが、やはり御自ら……」
神祇官も鏡本も、すべて倭皇に属するものだ。正式には盗まれたという扱いにはならないだろう。倭皇は自分のものを使っただけだ。
「盗人が倭皇となると、どなたにも諌めることはできても咎めることはできませんね」
何百年生きていようと、巫女としてあがめられていようと、彼女は内親王であり、従四位下の神祇伯。倭皇の上に立つことはない。
「だが、倭皇やその下につく蔵人が今回、あの娘に使ったとは思えぬ」
「……ええ」
それは崚もわかっていた。だが、神祇伯に警戒されずに鏡本を使える者となると、かなり限られる。
(―――ただの浅慮か、承知の上で使ったのか……あるいは使用を強制させられたか)
そのどれであっても厄介だ。
「神祇少副は、もう長うはない」
崚の勘考を無視するかのように、事務的に彼女は告げた。
歩みを止めず、崚の横を通り過ぎ、勝手に沓を脱いで階を上がりながら。
「先視、ですか?」
振り返ると、柚子姫は高欄に座り、崚を見おろしていた。長い裾や髪が微風で震え、都雅がまるで匂い立つように波紋を広げた。
艶めいた黒髪が、さらさらと軽やかな音を立てて。
「先視などせずとも、この禍々しく満ちた気を見ればわかろうて」
その高尚な眼差しがはじめてまっすぐに、崚王を捉えた。
こうして彼女は、いったい何人と別れてきたのだろう。淡々と事実を受け入れることに、いつから慣れたのだろう。
「神祇官である貴女の配下でしょう」
「わたくしは医者ではないのじゃ。気にかけるのならばおぬしが出向けばよい」
彼女の瞳は白む空を仰ぐ。消え行く星を最後に、読む。
崚が沈黙している間、柚子姫もまた動かなかった。ただ空だけが、少しずつ変化して時の経過を告げていた。
まだ、東の空に太陽は来ない。けれど、満ち欠けを繰り返すだけの弱い月明かりは、星々とともにいつのまにか見えなくなっていた。
「あの粉を手に入れた時期が私たちの推測通りであれば、もう手遅れです。常世に連れていかぬかぎりは」
常世のほうが優れた医療技術を持つ。寿命の切れるはずの者を、技術で無理矢理治して生に留め、ぎりぎりまで旅立つことを許さない技術だ。それを使えば助かるはずの命など、まほろばにはいくらでもあっただろう。
だが、条理を曲げることはできない。ましてや崚の一存では。
「まほろばの者ならば、それもよいのでしょう」
常世……常しえの世。―――だから、そちら側に属する赫映の魂は、何度でも何度でも蘇ることができる。月夜媛も常世で生まれ、また次の世に生まれる。
だが、まほろばの人間に輪廻はない。
「そうであるの。ならばどうする、小童。わたくしに頼むか? 神祇伯とは卜者。生の象徴。死に行く穢れに触れることはできぬ。それを承知でわたくしに頼みごとでもしてみるか?」
崚は一拍の間も置かずにゆっくりと首を振る。それ以外の答えは赦されていないし、彼女も是という崚を想像していないだろう。
神祇少副朝露など、赤の他人だ。太政官であり公卿でもある崚は、いままで名前すら知らなかった。助ける義理は、ひとつもない。―――だが、命は助からなくとも確かめなければならぬことは、ある。
「おぬしはいま、この耀月珠穂宮を離れられぬと思うておるのじゃろ」
たった一つの懸念を、柚子姫は正確に言い当てた。
今やここは崚の陰陽道によって成り立っている。その守りを解くことはできない。もう崚が常世に行くことはできず、耀京においてすら行動を制限される自分をはっきりと自覚した。
平時ならばいい。封じられているとはいえ、赫映がまほろばに存在するだけで耀月珠穂宮は悪しきものを跳ね返す力を持つ。守人である瑚月の力は徐々に宮に組み込まれ、その礎となれるだろう。紗夜も自覚はないが、そこにいるだけで宮を安定に導く。
だがいまは、誰もいない。瑚月も怪我をしているため、緋桜とともに琥珀に預けた。何の力もない女房や下人、舎人たちがいるだけの耀月珠穂宮を、崚王が離れるわけにはいかないのだ。
柚子姫は、握り締めていた手をゆっくりと開く。ふわりとそこから、ひとひらの牡丹が舞い上がった。
高く、高く。
登っていく。
風に翻弄されながら、それでも上に。
彼女の小さな手が腰元に伸び、まるで抜刀するかのような動作で白く柔らかなものをふわりと取り出した。
それは小柄な柚子姫には似合わないほど大きな、羽根。
鳳羽と呼ばれるそれを、崚が目にするのは初めてだった。いや、今までそれを見た者がいったいどれほどいるだろうか。
それを頭上で一振りすると、牡丹はさらに高く舞う。
やがて寝殿の屋根の高さを越えたあたりで、それは空の薄闇に溶けるようにして雲散した。
「よい。わたくしが守りにつこうぞ。本来ならば『赫映』とてわたくしの力を個人的に利用するのは好ましくないのじゃが、幾年ぶりかに月の羽衣が戻っておるとあらば、それもまた……運命なのやもしれぬ」
意外なことに、彼女はそのために耀月珠穂宮を訪れた。推測はしていたが、彼女の口から率直な言葉がもたらされ、現実になろうとしていることがひどく不思議な気がした。
柚子姫を、耀月珠穂宮に迎え入れているのだと、改めて実感する。
崚はただ頷いて、懐から料紙の切れ端を取り出した。
その色は、絹色。
ふっと軽く口付けてから放つと、一瞬にして大きな白馬に転じる。鞍もないそれに軽々と跨った崚は、振り返らずに西門を飛び出していった。