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第二帖 佳月なきも夢の如くに  作者: 水城杏楠
四章  昔の人の 袖の香ぞする
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『五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする』

(五月を待つ花橘の香をかぐと、昔の人の袖の香りがする)


「緋桜はどうしている?」

 紗夜についてきた賀茂瑚月の式神八咫烏(やたがらす)の形代をまほろばに飛ばして、絳牙が崚と連絡を取ったのは、それから丸一日経った深夜だった。賀茂家の形代は、天神(あまつかみ)に属するものなのだから本来なら赫映にも操ることは可能なのだが、その能力のほとんどを封じた今の絳牙が制御するのはひどく難しい。

 常世で長く暮らしていた緋桜は絳牙の実妹だが、その実感はない。存在こそ知らされていたものの、常世で一生を終え、兄には出会うはずのなかった少女なのだ。

 それでもたったひとりの妹姫。

 赫映としての力はないが、猩猩緋(しょうじょうひ)の瞳を同じように受け継ぐ娘だ。その瞳の意味するところは、絳牙にも崚にもまだわからない。

 ゆっくりと、深呼吸をすれば、十三夜の月の銀光は無慈悲に冴え渡り、常世にも平等に降り注いでいた。

 震える指先を、きつく握り締める。

 冷静さを取り戻すまで、崚は無言だった。

 月の鼓動が、聞こえる気がする。

「それで?」

 報告を促した。少しはましな、冷静な態度を装えていた。

 大都会のビルの陰、にぎやかだった街もいまはひっそりと静まり、街路樹に寄りかかって話していた。まったく独り言にしか見えないが、電話のように遠く声が返る。

 その気配や吐息すら、感じる。

『いや……こちらが聞きたかったのは紗夜さんのことだったのだけれど』

「は? なんだそれは」

『紗夜さんは常世にいるんだね? ……緋桜はこちらにいるよ。瑚月殿は襲われたときに怪我をしたけれどたいしたことはない』

 深海に沈んだように揺れ、朱く染まりかけた絳牙の視界を、崚の柔らかい声音が静かに透明に変えた。

「どういうことだ? なぜあれが突然常世に来る?」

『……実はあのときの鏡本がまだ回収されていないんだよ』

 先月、蔵人(くろうど)が一人、紗夜をまほろばに連れてくるときに鏡本を使っている。だが、あれは崚が調べたところによると、鏡本は誰にも貸し出されていない。公式の記録では。

「あの蔵人(くろうど)が持っていただろ」

『まずはそこだね……鏡本を持ち出した者がいる。紗夜さんをこちらに最初に連れてくるために』

「―――どこの莫迦が盗んだ?」

 自分の声は震えてはいなかった。だが、我ながら頼りなく、聞こえた。

 鏡本は神祇官によって管理されている。誰かが使ったとなれば、盗まれた以外にありえないのだが。

『あのねえ、いくら私でもそんなところまでは視れないよ』

 大内裏を中心とした耀京(かがやきのみやこ)は、別名を万代宮(よろずよのみや)ともいい、五行思想のもとに形成されるまほろばの中核を成す。それゆえに陰陽道の気の流れを、よくも悪くも集めてしまう場所でもあった。崚はそれをなんなく使いこなしてはいるが、それでも式神を駆使したところで耀京(かがやきのみやこ)のすべてを一瞬にして把握することなど不可能である。

『あの神祇官から何かを盗めるとしたら、私より優れた陰陽道を駆使できるということになるけどね……』

「そんなわけあるか」

 まほろばの皇統と、常世の守人(もりびと)の一族である佐伯の血。それらを濃く受け継ぐ崚を凌ぐ力など聞いたことがない。

 いや、唯一あるとすれば……。

「………………」

『……いや、それはないと断言したいところだけどね。困ったな。琥珀にもなんとかしろと言われたのだけど』

 知らぬ名に絳牙は、無意識に眉根を寄せた。琥珀……聞いたこともない。崚が親しげに他人の名を呼ぶのも珍しいことだった。

 沈黙をどう捕らえたのか、崚は言葉を続ける。

『緋桜の件はタイミングが悪かったね。ちゃんと忠告しておけばよかった……私も参内していたからすぐには気づけなかったし』

 崚が許可したわけではないのはわかるが、絳牙にはわざわざあの姫たちが出かける理由も場所も、心当たりはなかった。大内裏によくお忍びしていることは知っていたが、まさか堂々と身分を明かして参内はしないだろう。

『市に行っていたんだよ、紗夜さんと瑚月殿と、緋桜でね』

 変化のなかった彼の穏やかな声に、少しだけ重い大気がのしかかる。

 表情は変わっていないだろうことは見なくてもわかるが、長いつきあいで絳牙もその心情を察する。

「柄にもなく後悔しているのか。馬鹿が」

 取り繕うことを絳牙はあえてしなかった。単純な問いかけ。

「選んだのはあいつだ。お前なんかではない」

『わかっている……無意味な後悔はしないつもりだよ』

 どこまでも自由奔放に、なんの鎖もなく。

 彼女が好きなところに羽ばたけるように……。

 緋桜を知る誰もが、それを望んでいた。彼女の瞳が曇らないように、いつでも微笑んでいられるように、強く優しくいられるように。

 その彼女を、巻き込んでしまった。

「緋桜は無事なんだな?」

 再確認せずにはいられなかった。崚はくすりと笑ったようだったが、真摯な声ですぐに答える。

『うん、こちらにいるよ。心配ない』

 それだけで今は十分だった。

「……お前、あれに何も説明しなかったな。崚が俺を心配しているなどと言っていたぞ。すべての事情を知っているくせに」

『いいじゃないか。ずっと常世から戻ってこなくて心配しているのは確かだよ。……綾姫はまだ、見つからない?』

「……ああ、だがじきにそれもわかる」

 彼女も導かれているはずなのだ。絳牙が目指す、その答えにきっと。

 崚からの言葉は返らず、しばらく二人は沈黙した。

 電信柱のそばで、身じろぎするかのように草花が揺れて、絳牙は瞳を上げた。

『―――そちらは?』

「いちいち聞くな」

 説明するのも億劫だし、この二十四時間を思い出して崚相手に不機嫌を隠すつもりもなかった。

『お前の不在が続いているから、こちらも厳しい。そちらのことは断片的にしか掴めないんだよ』

 崚ならば、断片的だろうと一部だろうと、一を見て十を知るのは造作もないだろう。それがわかっているから、やはりいちいち言葉に出したりはしなかった。

『紗夜さんは?』

「寝ている。暢気な女だ」

 それを見るのもまたいらいらする。なぜかわからない。自分がほとんど寝ていないせいだろうか。そんなくだらないことで憤るわけがないのに。

 そうではないとどこかでは気づいている。彼女はこんな事態になっているというのに一言も愚痴を言わず、何を尋ねようともしなかった。癇癪を起こされても苛立つが、何も反応がないのは気になる。

(自分の立場にすでに納得したわけでもないだろうに)

 崚が今の段階で細々と説明済みなどという可能性は皆無だ。何も知らないし、何もできない。媛などと祭り上げあげたところで、何も変わらない。

(なんでそんな女をこの俺が守ってやらなきゃならん)

 そう思うとまた不機嫌になる。だが、放り出すこともできなかった。そして、そうできない自分にまた、意味もなく苛立つ。

『お前が大丈夫だというのなら大丈夫なんだろう? ただ、ずいぶん負担をかけてしまうな、と』

 暢気という言葉を勝手に大丈夫と変換された。間違ってはいないが……敗北した気分になる。代わりに、愚痴を言ってみることにした。

「俺の負担はどうでもいいのか」

『何をいまさら。お前はちゃんと働きなさい。なんのために常世にいる?』

 冗談にしか聞こえないほど軽い口調だったが、崚の瞳はけっして笑っていないだろうことが目に見えるようだった。さすがの絳牙も口をつぐんだ。

 温厚な表情や口調に騙されがちだが、その奥底に隠した真実の感情を彼は誰にも見せない。絳牙にすら、こうしてわざと悟らせることしかしないのだから、ほかの誰にも読めはしない。

『―――絳牙』

 珍しく、硬い声だった。

『……君は、羽衣の媛を求めていいんだよ』

「そんなもの、いらない」

 子供のような、声に聞こえてしまっただろうか。けれど、絳牙はそうして縋るものすら知らずに生きてきた。

 手に入れてもいつか失う……それだけは忌避できようもない真実だから。

『今の媛は、そこまで鮮明に記憶を戻せるわけではない……けれどそれでも、痛みを共有できるとしたら彼女しかいないんだよ』

「勘違いするな。俺はそんなものを必要としたことなんかない」

 考えなしに反論して、結果的に別のことで憤りを感じているのだと認めてしまったことに気づいたが、もう手遅れだった。

(どうせあの女がここにいるほうが便利だと思ってるんだろうさ)

 崚はこの状況を利用している。紗夜の命さえ。誰かをただ無条件に箱庭に入れて守るようなことはしない。

『すべてを手放しても、心安くはならないんだよ。絳牙』

「………………」

 崚は常世で、史上最年少の医者になれるほどの逸材だった。それらを捨ててまほろばを選んだことを絳牙は知っている。捨てたのではないと崚はいうが、絳牙にはその深い微笑の裏を見ることはついにできなかった。

 もともと『赫映』の双眸は、千里眼だ。様々なものが『視えて』いた。傷つき、通常の視力だけをようやく取り戻したいまの瞳では、目の前のものすら薄く翳って見極められなくなっているのかもしれない。

 だが、それでいい。

 自分には千里眼など必要なかった。……もう何も、見たくない。

「俺にはお前と綾姫だけでいい」

 彼らは強いから。

 絳牙の弱さに流されて、ともに堕ちていくような莫迦な真似はしない。だから安心できる。

 ―――けれど、あの媛は違う。

 ただの普通の……常世の女にしか見えなくて、脆い。簡単に傷つき、失われてしまうものだ。そばにいるのは恐ろしくて、ついそっけない態度で拒絶する。……まるで子供みたいな態度だとわかっているのにやめられない。

 俳優としてだけでなく、人のいい人格を普段から演じるのは得意だったのに。

『……そう』

 静かな一言だった。どこか拒絶されたような気がして、ふと絳牙は不安に襲われ……そんな自分の不安定な情緒に自嘲した。―――崚とて、絳牙が縛っていいものではないのに、いつのまにかそのつもりになっていた。

(もともと崚は守人(もりびと)だ。俺のものなんかじゃない)

 崚を守る者、それが守人(もりびと)。だが、崚は佐伯の(うじ)を継がなかった。

 守人(もりびと)と呼ばれる家はいくつかあるが、常世とまほろば、そのどちらにいても対応できるように、誰もが英才教育を受けていると言われている。

 その中でも、母親から佐伯家の血を引く崚は特別だった。

 父がまほろばの先皇の弟で一品親王という身分であったにも関わらず、この常世で生まれ育ったことも異質ながら、わずか十歳にして英国医大に入学、二年で卒業後は工科の大学院まであっというまに卒業した。大学教授と対等の議論をし、子供時代などほとんどなく常世の社会で生きてきたのだ。

 二十代で教授になってもおかしくないとまで言われていた彼が、そのすべてを置き去りにしてまほろばを選んだ。

 正確には、『赫映』の一族の中で、強すぎる力を継承した絳牙を、選んだのだ。

(違う……俺が、選ばせたんだ……無理矢理)

 だが絳牙は、他人の傷を癒せるほど自分が清らかでないことを知っていた。

『―――例の粉、こちらでも手に入ったよ』

 唐突に、わざとらしいほど簡単に、崚は話題を変えた。だが、その機転に、絳牙は心底からほっとしている。崚のほうがよほど千里眼を持っているのではないかと思いながら。

 彼の口調は淡々として変化が少なく、重要な事柄を見逃してしまいそうになる。絳牙は眉根を寄せた。早すぎる。崚に回ってくることなどありえないから、難癖つけてこちらからとりに行くと思っていたものだったのに。

「どこから?」

『こたびの耀宮大夫(ようぐうのだいぶ)殿が、神祇少佑(じんぎしょうじょう)殿とご友人らしくて』

「誰だそれは」

 そこで絳牙は、ようやくその耀宮大夫(ようぐうのだいぶ)に関心の一部を向けることにした。

耀宮大夫(ようぐうのだいぶ)の名を琥珀という。神祇少佑(じんぎしょうじょう)殿は名前まで知らないけど、右弁官も兼任していて琥珀の下についているそうだ。琥珀は幸い、緋桜とも仲良しだよ。今もこちらにいるのは危険かもしれないので、緋桜は琥珀に預かってもらっている』

 ひと月以上のほとんどを常世で過ごしているうちに、耀月珠穂宮(かぐつきのたまほのみや)でも変化があったようだ。

 前任者の急死で急遽拝任されたという耀宮大夫(ようぐうのだいぶ)に、絳牙はまだ会ったことがなかったが、興味もさしてなかった。さらに関係のない神祇少佑(じんぎしょうじょう)など論外だった。だが―――幸い、仲良し? ……緋桜と親密だというのなら話は別だ。

「以前のように口うるさい女じゃあるまいな?」

 前耀宮大夫(ようぐうのだいぶ)。彼女を思い出すとほんの少しの罪悪感をいまだに覚える自分がいることに気づく。罪悪感―――そんなもの、持ち続ける権利などありはしないのに。

 だからあえて、以前と同じように振舞った。

『今回は、男性だ。口うるさい……かもしれないが、よくやっている。なかなか鋭い感性は持っているのだけど、だからこそまったく珍しい。けっして華やかな道を歩いてきたわけでもないのに、不思議な考え方をときどきする』

 崚からここまでの賛辞を引き出す新耀宮大夫(ようぐうのだいぶ)に、少しだけ興味が出てきた。その言葉が口先だけの世辞かそうでないかは、絳牙にはよくわかる。

(崚の鑑識眼に適うのは珍しいな)

 倭皇(すめらみこと)の従兄弟で稀代の陰陽道の使い手、見目麗しく、若くして公卿―――これだけを見れば、崚は誰よりも恵まれた道を当然のように享受して歩いてきただけのように思われがちだ。

(だが、崚は他人に厳しく、それ以上に自分に厳しい)

 長く共に暮らしてきた絳牙は、よく知っている。

 とはいえ、崚からそれほどの評価を得ている男が、緋桜と仲がよいというのはなんとなく気に入らなかった。

 ふっと崚が苦笑する気配だけがして口を閉ざした。いつもそうだ。崚と会話をしているだけで、たとえ面と向かっていなくてもぼろぼろと仮面が崩れていき、何もかもをさらけ出してしまう。

 ふいっとどこともなく視線を逸らすと、崚が一歩近づいてきた―――この場にいないのに、そんな感覚があった。

『心配なら、早く終わらせて帰っておいで』

「―――別に、どうでもいい」

 絳牙はそっけなく返事をした。湧き上がる焦燥感を少しでも知られたくなくて。

 けっきょく彼が言いたかったことがなんなのか、わかってしまって悔しい。

『あとひとつ、厄介なことがわかった』

「これ以上の厄介があるのか?」

 崚は、一拍だけ沈黙を置いた。深い溜息が聞こえた気がする。それは皮肉ではなく、真実の失望感に思えた。

倭皇(すめらみこと)がそちらにいるはずだ』

「―――何?」

 絳牙が、これほど崚の言葉の真偽を疑ったのは、人生で初めてだったかもしれない。


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