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維月絳牙自らが運転する高級車レクサスは、北のほうに向かい、だんだんとすれ違う車も少なくなっていた。
看板には八王子や立川や甲府までの距離が書かれているが、そうかと思うと新宿方面に向かっていたりと、目的地があるようには思えない走り方だった。誰も通らないような細い道ばかりを選んで走るときもあった。
ただのドライブのような錯覚。
(維月絳牙の助手席に乗ったなんて、絶対誰も信じないんだろうなあ)
友人にそれだけを言えば羨ましがられることはなんとなく想像できたが、これが羨ましい状況だろうか。自分だったらこんな目に合ってまで芸能人とお知り合いになどなりたくない。役得などと笑っていられる事態でもなく、譲れるものならとっくに誰かに譲りたい権利だった。
沈んでいく夕陽で、流れる景色の色が変わる。
その燃えるような紅に、紗夜は目を細めた。
(不思議……日本に帰ってきちゃった……)
中途半端な思いが、紗夜をどちらにも引き留められないでいる。常世とまほろば、一つを選んで一つを捨てることなんて、できないんだと今更ながらに気付いた。
喧騒から離れた、静けさが戻っていた。
ここはもう日本のはずなのに、自分の心は躍り出したいほどに喜んでいるわけではない。だのにまほろばに執着しているわけでもないのだ。
「―――帰りたくなったか?」
小さな声が、空から降ってくる。だがそれは、現実の音だった。容赦ない一言。
(あたしが言ったのに。維月絳牙に月夜媛が必要なんだったらまほろばに残るって、自分で決めた)
残ってもいい。
まほろばでも、いい。
それは裏返せば、常世にもまほろばにも居場所をなくす選択でしかないのかもしれない。
「絳牙さんは……選ぶんですか?」
掠れた声が漏らした一言は、すぐに後悔した。紗夜が聞くことではなかった。
だが、答えが気になるのもまた事実で。―――まほろばと常世……彼はどちらを選ぶのだろうか。
絳牙は何も答えなかった。ただ紗夜から視線を逸らし、別の一点に向けられたその双眸は、どこまでも異質な―――紫色。
何かを映し、認識するためではないようにさえ感じられる瞳。
(……本当に見えているのかな)
紗夜の顔だとか、この街の風景だとか、見上げた空の月だとか。俗世のものが見えない代わりに、真実の色や雨の雫や絶対的な時間軸なんかが視えているのかもしれない。
背後に見える街の鈍い光が、心を吸い取っていく―――。
紗夜はなんとなく振り返ってそれを見た。まほろばでは見ることのない、人工的なネオンのきらびやかな光、を。
つられたのか、絳牙も少し振り返った。
「ちょ、ちょっとっ、運転してるんだからちゃんと前見たほうがっ」
ここは山道というほど曲がりくねっているわけではなく、歩行者も対向車もほとんどないが、少しのカーブはあるし道幅もそれほど広くない。だのに紫の双眸は前を見ようとはしなかった。
「お前が持ってきた式神だろ。賀茂の。見えていないのか」
「え? 瑚月ちゃんの?」
訝しげな表情を変えない紗夜を見て、彼は不機嫌そうに舌打ちした。ふと見れば、彼の手はすでにハンドルにすら置かれていなかったが、余所見している間に差し掛かったカーブを綺麗に曲がっていた。
全自動の車だ……便利だと紗夜は素直に思った。
(瑚月ちゃんをカラスが式神として守ってるって言ってたけど……いまはあたしについてきちゃったってこと?)
瑚月のものだと言われれば、もう単純に紗夜は安心した。目の前に維月絳牙なんてものがいる時点で驚き指数は飽和状態、車が自動で動くくらいどうということもない気がするから不思議だ。目の前で起こっているのだから否定のしようもないし。
「その瑚月ちゃんの式神が運転してるってこと?」
「納得したのか」
あまりにあっさりとした様子に、絳牙が今度は呆れたような顔をした。不機嫌よりはずっといい。彼はどんな表情をしていても変わらずに綺麗だった。
「だって、実際ハンドル、触んなくても曲がったし」
絳牙は少しだけハンドルに視線を戻した。彼の目にはハンドルの裏側に止まるカラスの形代が視えるのだが、もちろん紗夜が知る由もなかった。
「式神っていろんなことができるんだね」
「これは札に宿して使っているからあまり力はない。だが、崚の式神なら低俗なものでもお前の姿を模倣するくらいはできる」
「………………」
それは紗夜が低俗だと暗に言っているだけの皮肉だろうか。
だが、毎日のように笑顔を振りまくだけの男としか思っていなかった崚王が、どうやらすごい人物だというのは耀京での忙しさを見ればわかる。天皇の従弟、大納言。それらは安易な地位ではない。
「崚王が、ねえ……」
少なくとも紗夜の感覚では、仕事のできるビジネスマンという雰囲気ではない。初めに妻五十人と勘違いしていたせいで、女好きという印象がまだ拭えず、ホストのほうが似合うと勝手に思っていた。紗夜を戯れに口説くのも、当分やめてくれそうにない。
「―――崚、王?」
珍しく、少し怒気の混じる声音だったように聞こえた。けれどそれは、瞬きするほどの短い時間で、紗夜にははっきりと認識できないうちに無表情に戻っていた。
「王氏を呼ぶのは官人だけで十分だ」
「え?」
その意味を尋ねる前に、車が急ブレーキをかけた。
突然すぎて、悲鳴すら出てこなかった。ハンドルが取られて左右に揺れて、紗夜は窓ガラスに頭を打ち付けた。
脳震盪にでもなるかと思う衝撃だったが、それでもなんとか顔を上げると、レクサスの右側を走っていた乗用車が再び体当たりしてくるところだった。
(いつのまに……)
それまで近くに車なんてなかった。
だが、疑問よりも混乱のほうが大きくて、紗夜はただ目の前で起こっていることを見つめることしかできなかった。
「ちっ、来たか……早かったな」
そう一人ごちると、絳牙はハンドルを握って右に切った。左のガードレールにぶつかる寸前で車は曲がる。逆にこちらから体当たりするつもりだろうかという勢いだったが、レクサスはぎりぎりで道の中央に戻り、直線を走る。
紗夜は後ろを振り返った。一台の大型トラックが見えた。絳牙もバックミラーでちらりとそれを確認した。
レクサスはスピードを上げる。
特撮映画のカーチェイス並の状況。このまま呆然と助手席に座っていたら殺されてしまう気がする。右側の車はなおも体当たりを試みているが、絳牙がやっているのかそれとも式神とやらがやっているのか、スピードを調節してなんとか避けていた。
こんな荒い運転をしながらでも、絳牙の表情はどこか冷静に見えた。シートベルトをしているとはいえ身体が揺さぶられてしまう紗夜は、手すりにつかまって再びどこかをぶつけないようにするので精一杯だった。
「おい、後ろの袋から小太刀を出せ」
「え……う、うんっ」
なんのことかを尋ねるより先に、身体が動いていた。疑問を口にしている余裕などどこにもない。後部座席に無造作に置いてあるボストンバッグのファスナーを開けると、そこには……。
(コダチって……小太刀? 日本刀、少し短いけど)
博物館か京都の土産物屋でしか見たことがないそれに、紗夜は躊躇いながらも手を伸ばした。
「俺の上着か何でもいいから、切り取れ」
「え……ええっ? な、なんで……」
「いいから早くしろっ!」
緊急事態なのはわかる。だが上着の切れ端が何の役に立つのかわからなかったが、紗夜は言われるままに太刀の鞘を抜き、絳牙のジャケットを手にとって一部分を手に取る。芸能人らしい、高そうなブランド品に見えたが気にしていられなかった。その間にもレクサスは左右に揺れ、紗夜は何度も絳牙の身体に頭をぶつけた。
うまく切れない。
もたもたしていられない。けれど、急いだら絳牙の身体まで切り付けそうで。
必死だったから、紗夜は絳牙の左腕が自分の背中に回ったことに、触れられるまで気づかなかった。
「……っ! なにっ?」
「黙れ」
絳牙に強く、身体を引き寄せられた。
そのおかげで揺さぶられることがなくなり、ようやくその意図に気づく。
鋭い太刀によって、ジャケットの一部分が簡単に切り離された。信じられないほどの切れ味だった。
こちらが手渡す前に絳牙の手が強引に奪い取る。それとともに突き飛ばされるように身体を離された。
近づいてくる乗用車に、タイミングを合わせて窓から手を出した。
ジャケットの切れ端を、体当たりしようとする車の窓ガラスに殴りつけるようにして貼り付けると、それは強力な糊でもついていたかのように離れなかった。急激に失速していくそれを見届けた絳牙は、レクサスに急ブレーキをかけた。
紗夜が何気なく持ったままの抜き身の刀を強引に奪い取ると、レクサスが完全に止まる前に、ドアを開ける。紗夜が驚いて声を掛ける間もなかった。
風に乗るように軽やかに、彼の身体が飛び出していく。
たったの三歩で自動車に追いつき、小太刀を横薙ぎにした。まるでプラモデルかなにかであったかのように、それはあっさりと真っ二つに割れる。
次の瞬間、その残骸を後続の大型トラックが踏み潰し、そのまま絳牙に向かって突進してきた。
「―――っ!」
声にならなかった。
つぶされる。
そう思ったのに、逸らせなくて。
瞳を見開いたまま。
―――だが、紗夜の予想通りにはならなかった。
細いたった一本の小太刀が、何トンもある大型トラックを受け止めていたのだ。
「残念だったな」
嘲笑とともに漏れた一言。冷酷に。
彼の一太刀だけで、鈍い音を立てて、そのトラックも崩れ落ちた。燃料が漏れ出し、火がつく。
(……これも現実なの? あたしの?)
心臓が早鐘を打っている。
このまま死んでしまうのではないかというほどに早い。そういえば、ずっと息をしていたのかもわからないほど、呼吸が苦しい。
大きく深呼吸した。夕方の少し冷えた大気が、今の身体にはちょうどよかった。
「これほどの巨体に式神を宿すとは……」
だから突然現れたのか、と絳牙は独り言のように続けた。こんなときでも冷静な言葉に聞こえた。
彼がレクサスの運転席に戻ってくる。
紗夜の顔を一瞥したが、なんの言葉もなく、左手に持ったままの鞘を強引にひったくられた。
「……―――」
刀が鞘に納まる音がする。
それは終わりの合図だったのか、始まりの鐘だったのか……。
紗夜の手は、小刻みに震えていた。