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ほんの、一瞬の出来事だったかもしれない。
だが、紗夜にはその時間の感覚が何もなかった。時計が止まっていたかのようでもあったし、永遠の時を刻んでいたかのようでもあった。
きらきらと眩しい気がして、紗夜はゆっくりと目を開けた。
けれどそこは、薄暗い部屋。
見覚えのない場所に紗夜は寝ていた。
上半身を起こすと、ソファの上だとすぐに気づいた。部屋の隅にテレビがあるし、天井には小さく光る蛍光灯、テーブルの上にはペットボトルやポテトチップス、誰かの携帯電話が置いてあった。
(―――な、なつかしいっ)
どうやら日本だ。紗夜は感動のあまり涙すら出そうになる。
今までが長い夢だったのかもしれないと思えるほど、その光景は当然のように紗夜の前に存在していた。
なにもかもが新鮮な気がするから不思議だ。いままで当たり前にあると思っていたものがなくなって、それを取り戻したとき、そのありがたみにやっと感謝できる。
だが、紗夜の服装はまだ着物で、それだけがまほろばというものを証明している。やはり、あれは夢ではなかったのだと主張するかのように。
(でもここは……どこ?)
紗夜のアパートの部屋ではない。もちろん実家でもなかった。
どこかのホテルの一室に見える。カーテンから漏れるオレンジ色の強い光が、今が夕方であることを示していた。紗夜が覚えているのは昼間だった。どれだけの時間が経ったのだろうか。
立ち上がろうとソファから足を下ろしたとき、がちゃりと奥の部屋のドアノブがまわされる音がした。
現れた人影にびくりと肩を震わせた。―――誰?
「―――遅い」
夢うつつの脳にも明瞭に届いた言葉。
それは沸騰したお湯も瞬時に氷になりそうなほど冷徹極まりない一言だったが、激怒よりも例えようもないほどの違和感が勝った。
少し長い、ラフな黒髪を揺らして、部屋に足を踏み入れたのは―――維月絳牙だったのだ。今はカジュアルスーツを着ていて、その姿は紛れもなくまほろばの人間ではなく日本人に見えた。
「……こ、絳牙さん……なんで」
「お前が勝手に来たんだ。俺は知らん」
「―――じゃなくて、崚さんも心配してるのに。緋桜も……。なんで戻ってこないのかって」
「……崚、が?」
「そ、それに……あの、ここはいったい?」
男と二人きりでホテルって、いったいどんな状況だろう。周りに激しく誤解されるような事態ではないのか。いやいや、けっしてやましいことなど何もないと、誰にともなく心の中で言い訳を繰り返した。
「ここは常世……日本の横浜だ」
「よこはま……本当に……?」
ここにはもう、焼けるような匂いはなく、新鮮な酸素だった。けれど、ソファのそばに置いてあった沓は焼け焦げていて、炭になった欠片が茶色のカーペットに落ちていた。
「崚なら心配いらん。あいつは何も言わんからまわりが苦労するだけだ」
「……えっと、それはどういう?」
だが、彼は無言のまま紗夜を一瞥しただけで、事細かい解説をするつもりはないようだった。
「着替えがある」
彼はクローゼットのほうを軽く指差しただけで、また奥の部屋に引っ込んでしまった。
紗夜がそれを開けると、桜色のシフォンのワンピースが一着入っていた。高そうに見えるが、もらってもいいのだろうか。とはいえ、こんな着物姿で出歩けない。ここはもう紗夜の知る日本のはずなのだから。
この着物に比べてずいぶん着替えが簡単だと改めて思ったワンピースに袖を通してからソファに座りなおしたとき、ちょうどコーヒーカップを手に持った彼が部屋から戻ってきた。
「……あの」
瑚月と緋桜はどうなったのか……。彼に聞いてわかるとも思えないが、聞きたい。そう思って口を開いたとき、扉をノックする音が聞こえた。
「維月くん」
「はい」
返事をしたその声に、やけに殊勝な色が混ざっていたような気がして、紗夜は訝しげな表情を浮かべる。先ほどまでの無愛想な態度はどこにいったのか。
絳牙が扉を開けてやると、そこに姿を見せたのは黒のスーツをきっちりと着こなした四十代に見える男性だった。隙のない完璧な姿勢が、やり手のビジネスマンのような印象を与える。
「おや、その子は」
「……あぁ、新しいスタイリストの見習いらしいですよ。別の部屋に携帯を忘れていたので、渡しに来てくれたんです」
「―――は?」
思わず声を上げてしまったのは、紗夜だ。まったく身に覚えのない話だった。
だが、その動揺に気づかないふりをしてくれたのか、彼は大人の余裕の笑みを浮かべて少し頭を下げた。
「こんにちは」
「は、はぁ……こ、こんにちは」
わけがわからないまま、同じように頭を下げる。
「水無瀬さん、こちらは俺のマネージャーの倉橋。スタジオのどこかでは見かけたことがあるかもしれないけれど」
先ほどの冷淡な言葉とは打って変わって、彼の応対は穏やかだった。変わり身が早すぎる上に変わりすぎだ。
(ていうか、水無瀬っていつのまにかあたしの苗字まで知ってるわけ?)
倉橋というマネージャーは優しい笑みで紗夜を見つめていたが、その眉を少しだけ潜めた。
「でも、維月絳牙のホテルの部屋に女性なんて、噂にならないように気をつけてくださいね。楽屋だけでも大変なんですから」
「あはは、ご忠告ありがとうございます。足がないっていうんで送ってくだけですから大丈夫だと思いますよ」
「じゃあお疲れ様」
「お疲れ様です」
倉橋は車のキーを手渡して、部屋を出て行った。
落ちる沈黙。
(楽屋? スタジオ? マネージャー? スタイリスト?)
自分の住む世界とはあきらかに違う。
「……どんな冗談、なんですか?」
彼は是とも否とも答えなかった。ただ、少しだけ驚いたような視線を向けて、キーをもてあそんでいた手を止めた。
「冗談? それは俺が聞きたいんだが」
男のくせにやけに滑らかで、白く長い指先がポケットの中のサングラスをゆっくりと引き抜く。
玲瓏の光を背景にしても、傲然な美貌を失わずに立っていられる男。
今の日本で、紫色のカラーコンタクトといえば、一人しか名前が挙がらないほど有名になってしまった、その独特な瞳。しかもしっかりと芸能人らしさ全開オーラを出しているし。胸元に挟んだサングラスとか、もう必須アイテムだ。
その目で直接見られると、さすがに後ずさりたくなる。それはカラーコンタクトなどではなく、もっと深い色であると気づいたから。
「お前、常世に帰れと言えばまほろばに残るくせに、いきなり戻ってくるとはなんだ?」
今年、彗星のごとく現れた美貌の俳優としてあっというまに人気を不動のものにした維月絳牙は、彫刻のように完璧な口元を吊り上げて不機嫌そうな表情を作った。
けれどそれすら、顔の造形によく似合う美声で。
高くもなく、低くもなく、誰もが心地よいと感じるだろう絶妙な音。たとえそれが冷徹極まりない言葉の数々だったとしても。
(こんな顔に騙されてはやらないんだから……っ)
大きく深呼吸する。
それだけで、混乱していた思考が、少しだけ冷静になれる気がしたのだが、効果はずいぶん薄かった。
「あたしがそれ聞きたいんですけど……」
まったく身に覚えがない。瑚月と緋桜とともに市にいたはずだった。
(それでなんで、あたしが維月絳牙の部屋に? そもそもなんでまほろばから常世に来ちゃったんだろ)
簡単には行けないと言っていたのに。
ちらりと見上げた維月絳牙は相変わらずの迫力的な美貌で、思わず視線を逸らした。その態度はあからさますぎたかもしれない。けれど彼は何も言わず、サングラスをかけてその稀有な瞳を隠す。
それでもなお、じっと見おろされる。サングラスに隠されていてもその双眸は威圧的だし、その鼻すじから唇の造形、伸ばした前髪からのぞく秀眉……この顔なら、口の悪さも愛想のなさもマイナスポイントにならない。容姿端麗、眉目秀麗……普段使わないような四字熟語が思い浮かび、すんなりと当てはまるのだ。
何度見ても、同じ感想を抱くであろう容姿。
(女からしてみたらうらやましいかも……いやでも、女より綺麗ってどうなの。ちょっと嫌味なんじゃないのそれ?)
憮然とする紗夜の顔に、絳牙は珍獣でも観察するような目を向ける。ありえない美貌に息を呑んで身構えたが、それでも今度は逸らさずに視線を返した。
「まあいい」
「はあ?」
そっけなく踵を返される。
(―――さっきとずいぶん態度違ってないですかこのひと)
マネージャーへのあの真摯な受け答えに対して、紗夜にはやたらと冷ややかだ。
そもそも紗夜に関わる意味がわからない。
(実はなんかのスカウト? いやいやあたし別に芸能界とか興味ないし……っとかってそんな問題でもないし!)
そんな心情にはまったく気づいていないのか、彼は少し間をおいてから、仕方がないと言いたげに溜息を漏らす。
「ここにいつまでもいられん。のろまじゃないならついてこい」
「はぁ? ちょっと待って……っ」
だが、紗夜の言葉を絳牙はもう聞いていないようだった。あえて無視したといったほうが正しい態度だ。車のキーを投げられてとっさに受け取ってしまい、ボストンバッグを片手に扉を開けて出て行く絳牙を追いかけるしかなかった。
「ねえ、ちょっと……」
「ここに一人でいるのか? フロアにはテレビ局の人間が大勢いるからな、不法侵入者扱いされるぞ」
「え?」
そうだった。
そういえばあのマネージャーだという人に対してでさえ、維月絳牙がかばってくれなければ、紗夜は不法侵入者という扱いになっていただろう。
(そうしたら逮捕されたりニュースになったりするんじゃないのっ? 維月絳牙を追っかけた熱狂的なファンとか言われて? いやいやまったくないしそんなこと!)
とんだ濡れ衣だ。こんな場所で放り出されていいことは一つもなかった。
「所持金も携帯もないんだろ。うちに帰りたくても帰れないな。歩くなら俺は構わないが」
明らかに脅しだろうそれは……。
しかもこちらに拒否権なんてないではないか。何故付き合わされるのかの説明すら、彼にはする気がないようだ。
それでもたしかに、一人取り残されたらもっと困るだろうということはわかったから、しかたなく絳牙について廊下を歩く。
この日、関係者以外立ち入り禁止らしきホテルの一角で、何人もの有名人とすれ違うことになった。誰もが見知らぬ紗夜の顔に一瞬だけ不審な視線を送るが、絳牙がとなりにいるだけで咎められることは一度もなかった。
(このひとと一緒でよかった……)
一人取り残されていたら、間違いなく不審者だ。というか、彼がいなければそもそもこんなところに迷い込む必要がなかったのだが……。
(……なんで日本に戻ってきてまで不審者扱いされそうになるわけ)