2
真夜中に撮影を終えた維月絳牙は、ホテルの自室に戻っていた。
まほろばに住む彼には、常世に家がない。その点、芸能人という職業は、簡単にホテル暮らしができるから楽だ。超高級ホテルの従業員という役柄のため、フロアひとつを借り切って撮影をしているのもちょうどよかった。
マネージャーたちと別れて一人になると、ようやく媚の仮面を取り外すことができる。
冷蔵庫の日本酒を開け、窓際の椅子に座る。まほろばのものと味は少し異なるが、酒は酒だ。
―――綾姫はまだ、見つからない。
(……誰かが、『赫映』を捕らえた)
だが、彼女が常世の陰陽使いなどにたやすくかどわかされるとは思えない。綾姫が自ら赫映のふりをして敵の中に飛び込む選択肢を取ったのだと、絳牙は確信していた。
綾姫は『赫映』の影であり、護衛だ。陰陽のほとんどを封じた絳牙は、普段はまったくの無防備といっていい。特に命じられない限り必ず絳牙か崚のそばにいた綾姫が、独断で赫映として表で動いているのだとすればそれは、絳牙の身に危険が迫っているということだ。
手がかりに近づいている……その自覚はある。
だが、それ以上でもそれ以下でもなかった。まだ。
(涼風め……俺を常世に売ったつもりか)
邑を滅ぼした赫映への恨みを消化しきれなかった、前耀宮大夫の涼風。彼女が情報源だとすれば、ほかの危惧が広がる。
相手が『赫映』を手に入れたと思っているのであれば、次にほしがるものといえば。
(……月夜媛か。ちっ、やっかいだな)
絳牙と違って、彼女はまほろばにいないはずの存在。だが、涼風から情報が漏れているのだとすれば、当然相手もそこを狙ってくるはずだった。まほろばに置いてきて正解だった。崚がいれば下手なことにはならないだろう。
綾姫を囮にしたつもりはない。けれど、彼女が囚われたことで、絳牙は自由に動くことが出来る。それでもなお、手がかりは少なかった。
(―――常世の陰陽使い、か)
少し侮っていたのかもしれない。そんなつもりはなくとも。
いまは崚の式神もそばにいない。
それを不安に思うことはなくとも、やはり自分だけでできることの少なさを歯がゆく思うのは仕方のないことだった。
そのとき、何気なく眺めていた窓の外にふと、小さな黒いものが横切った。ここは二十五階だ。鳥くらいしか横切らないだろうが、なぜか気になって注視する。
夜景に浮かび上がる、黒く儚いもの。
それは、懸命に飛ぶカラス―――の折り紙だった。
(形代、か?)
しかもカラス。崚のものではない。
(八咫烏? 賀茂の……)
無視してやろうかと一瞬思って残っていた酒を飲み干した。
(………………)
だがその黒い影は、絳牙の視界の隅をうろうろと飛び続ける。―――目障りだ。
(そうだ、目障りだからやめさせに行ってやる)
誰にともなく言い訳を胸中でつぶやき、絳牙は部屋を出た。あくまでそこは、あせらずに。
エレベーターは、ほとんど待つことなく扉を開ける。なんとなくそれも癪に障った。
「維月くん。お疲れ様」
「―――お疲れ様です」
先に乗っていたのは、マネージャーの倉橋だった。上のフロアにはスタッフの何人かが泊まっているから、明日の打ち合わせと名目をつけて飲んでいたのだろう。だが、彼の表情は傍目には酔っているように見えなかった。
「明日も朝早いんですから、夜更かししないようにしてくださいね」
「コンビニに行くだけですよ」
たわいない話は、長く続かなかったが、沈黙のあとすぐにロビーのある一階に着いたから、絳牙は余計な気を利かせる必要がそれ以上なくなった。愛想笑いも長く続けていれば疲れるのだ。
倉橋はフロントに確認事項があるようでそちらに向かい、絳牙はサングラスをかけながら正面玄関から堂々と外に出た。
罠かもしれないという一抹の警戒心で周囲を注意深く確認しながら、自分の部屋の窓があった方角へ向かう。終電が過ぎたせいか、そのあたりには誰もいなかった。
ホテルには花壇があり、春から夏に変わるこの時期には、様々な花が咲いていた。そこに、カラスの形代はいた。
なぜそれが常世にいるのか、理由は一目で知れた。
おもわず大きな溜息が漏れる。
(なんでこんなところにいるんだ、バカ女め)
やはりカラスなど無視しておけばよかったと絳牙は思った。ここまで来て、これを見てしまったら立ち去ることはさすがにできないではないか。
花壇の中には、花に埋もれるようにして月夜媛……紗夜が倒れていたのだ。