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『くべきほど 時すぎぬれや 待ちわびて 鳴くなる声の 人をとよむる』
(相手が来るはずの時が過ぎたのか、待ちわびて泣く声が他人の心を騒がせる)
いづれの御時にか。
麗らかな春の陽射し、刹那に咲き誇る瑞々しい桜、歓喜の歌を捧げる鶯、花なき里へ帰る雁……随筆にするまでもないありふれた日常が流れる―――はずだった。
「何考えているんですか、崚王」
激怒に上がった熱が急速に冷めたのは、初更の涼しげな春風のせいではないだろう。代わりのように、呆れた声が思わず漏れた。
いつのまにか義務化してしまったご機嫌伺い……いや、これだって仕事だ。そう思い直す。毎年恒例の桜狩りが諸事情で中止になり、その事後報告を兼ねて訪れたはずの邸で、散々な目に遭うだろうことがわかっていても。
「赫映様がいまだ常世からお戻りではないなどと、無茶もいいところだ!」
「ええ」
きっぱりと否定してやったのだが、檜扇で口元だけを隠した表情が友好的にしか見えない微笑みを返してきた。確信犯だ。手に負えない。だが、だからといって恨みの言葉が消えるわけではなかった。
「わかっているならさっさと改めさせてくださいっ。だいたい、なんなんですか? 常世から女人を拾ってきたというのは。誘拐ですか? このまほろばで出自を証明できないのであれば、どこの娘とも知れぬ奴婢やら、税逃れの賊などという扱いにされかねないんですよ」
「しかし、『赫映様のご意思』なのですよ、琥珀……いえ、新耀宮大夫殿」
「………………」
なんでもかんでもその名前を出せばいいと思っているのが間違っている、だが、実際そういう風習は太古から受け継がれているせいで、崚王を睨みつけたが反論の言葉は思い浮かばず、開きかけた口をしかたなく閉じた。
まさに鶴の一声、倭皇の勅にも等しい。
(ったく、都合のいい言葉だな。『赫映様のご意思』ってのは)
燈台の揺らめく明かりに照らされた、南東の螣蛇舎の主である崚王は、脇息にもたれかかって余裕とも思える表情を崩していなかった。その微笑からは何も読めない。何を考えているのかと尋ねはしたが、簡単に悟らせないし、素直に教えるはずもなく、また推測するだけ無駄というものだ。
雲立涌の文様をあしらった指貫と、躑躅の襲ねの直衣。表の蘇芳は紛れもなく至高の色である禁色のひとつだが、今はその風雅も憎らしさに変換された。
「まだ耀宮大夫になどなっていません。内々にしかたなく、仮にということで引き受けてるだけなんですから」
「そうですか、それは失礼。あれほど渋っておられた内大臣殿もついに折れて承諾したと聞き及んでおりましたが、私の思い過ごしでしょう」
「………………」
情報が早すぎる上に、正確だ。琥珀は早々に諦めることにした。そもそも、この崚王を口で負かそうなどと思ってはいけなかった。挑戦するだけ時間の無駄。無意味だ。
「―――わかりました。赫映様のご不在はなんとかなるでしょう。しかし、常世からの客人などというのは難しいのではありませんか?」
そもそも本当にその女人というのは常世の民なのだろうか。常世の存在そのものは疑うべくもない真実だが、そこから本当に誰かがまほろばにやってくるとなると話は違う。
かといって、崚王がここまでの大嘘をつくとはさすがに思えないし、琥珀相手にそんなことをしても不利益だろうと客観的に考える自分もいる。
常世といえば、まほろばと対をなす大地。
誰かが渡った話もそこから帰郷したという話も、あまりにも少ないだけに推測だけが広まり、肥沃な土地と金銀財宝で築かれた楽土とまで言われている、双子国のことだ。
「そこで新耀宮大夫殿のご配慮をお願いしたいのですよ。このままでは神祇官に権限が渡ることは必至です。こちらに身柄を渡していただくには口実が必要なのです」
口実―――珍しく取り繕わない直截的な物言いをする。
だが、神祇官?
「戸籍を管理するのは治部省でしょう」
こんなこと、琥珀が指摘するまでもない。彼は皇統に連なる王氏であり、正三位大納言という高位にいるのだから。
「先日の、日の蝕尽をお忘れですか?」
「それは覚えていますが……」
昼間に月が太陽を隠してしまう現象。けれど、夜のように真っ暗になったのはたしかに珍しいことだった。
日の蝕尽、様々な神事を統括担当する神祇省。そして、『赫映』の突然の常世滞在。
それらが意味するものを悟り、琥珀は思わず崚王を凝視していた。
(なんてことだ。本当に月夜媛様を探し出してきたのか……?)
日の蝕尽が起こると、常世から月夜見尊の意思を受けた媛がまほろばに現れるというのは有名な伝承だ。数十年から百年に一度しか起こらぬ吉事である。
それが真実だとすれば、戸籍のない庶人以下の扱いなどもってのほかだが、かといって大々的に発表すれば『赫映』は近々露顕するのだと公言するのに等しい。
月夜媛は、その特質上、当然のように赫映のものであると人々は考えるからだ。
(何か不都合でもあるのか? 別に堂々と露顕したらいい)
琥珀の隠そうともしない怪訝な様子に、崚王は口を開く。
「ほかならぬ赫映が、それを拒否しているので」
「拒否っ? 露顕を、ですか?」
「と、いうよりも、月夜媛がまほろばに滞在すること自体をも、です」
「なんですかそれは」
そんな我侭が通るのだろうか。月夜媛は常世で生まれるが、まほろばの者。赫映を公私にわたって助けるために存在すると言われる。
「その理由は、直にお会いになれば知れるでしょう」
崚王はそれ以上を話すつもりはないようだった。彼すらも躊躇わせるような、どうにもならない事情があるらしい。
(庶人に知られてはまずいことがあるのか……?)
崚王も琥珀も官人だ。彼らが恐れるもののひとつは、庶人の後ろ向きな噂。それによって広がる暗い念。憂慮がある限り、内密であるに越したことはない。
納得はした。だが、前例のないことを押し通すのは、いくらその免罪符的な名前を掲げようとも難しいのもまたたしかだった。
「わかりました……神祇官には手を回しておきます。戸籍も作らせましょう」
「よろしくお願いいたしますね。近々さるお方の養女にするつもりですので」
「はあ……さる、お方……ですか……」
耀宮大夫などというのは、ただ損ばかりをする役回りだと琥珀は実感していた。
(常世からの媛様、か。どのような方なのだろうか?)
数日前に保護したという常世からの女人について、崚王が琥珀相手に正直に事実を話したことは少々意外ではあったが、厄介事に自分を巻き込もうとしているだけのような気もする。だが、残念なことに耀宮大夫にほぼ内定してしまった身としては、放っておける事柄でもない。
「……で、その『赫映様』は?」
一段下がった廂に座っているが、御簾を隔てずに対面しているせいか、目上とわかっていてもつい自然な口調になる。そもそも彼はまだ若く、琥珀と一つしか違わないのだ。
母屋の畳に悠然と座る崚王は、琥珀の無礼に顔をしかめるでもなく、なれなれしく口にしたその名前にも表情を変えなかった。
「媛には今のところ干渉しないそうです。無関心を装っていますから」
「……ったく、人騒がせなことだ」
思わず愚痴が漏れた。
崚王は否定も肯定もしなかった。だが、赫映が媛に干渉しなくて、いったい誰がするというのだろう。
(今のところは、ということだろうな。慎重になるのもわかるが……)
赫映はその猩猩緋の瞳をもって、現世に転生する。だが、だからといって必ずしも月夜媛が常世からまほろばにやってくるというわけでもない。過去の文献を読んで学んでいる琥珀は、それをすでに知っていた。
表情からは米一粒ほども滲み出ていないが、この崚王もおそらく戸惑いや躊躇というような一般的で殊勝な思いもあるのだろうと推測した。いや、期待、した。
「螢国で禊ということになっていますから、当分は誰にも会わずにすみますしね」
「いい方便だな」
今後の神祇官とのやりとりを推察していた琥珀は、思わず何も考えずにそう答えてしまってから、はっと顔を上げた。―――即座に後悔したが、遅い。公式の場でなかったことだけが救いだが。
崚王の視線とまともに対峙する前に、素直に頭を垂れる。
沈黙の意味―――琥珀は自分の無意識の呟きがあまりにも非礼だったことを認めた。
「……いや、失言でした」
「かまいませんよ。事実ですから」
耀宮大夫、つまりこの邸を管理する職事官として、琥珀は公式に耀月珠穂宮を訪れていることになっている。その彼にとって、その現状確認も仕事の一つだ。
取り繕うのが苦手な琥珀は、最初からつい崚王の名を呼んでしまい、彼も無礼と批難することもなかったから、自分の流儀を通している。とはいえ、あからさまな無作法をしていいということではないのだ。
「そういえば……」
柔らかい面差しに、少しだけ甘やかな色を足した崚王の声に、別の厄介事あることが思い出されて琥珀は少し目を逸らす。心中を悟ったのか、その玉眼を和らげてさらに笑みを深めるのが気配でわかった。
これ以上墓穴を掘る前に退出すればよかった。……が、よぎる後悔は、先に立たず。
「こちらへは、桜の姫君とご一緒だったのでしょう?」
「不本意ながら! 成り行きで! 別に俺のせいではありませんっ!」
何を言われるかわかっていたから、間髪入れず速やかに否定した。琥珀の要望であったかのような物言いにはさすがに我慢できなかった。言外に真実でないことばかりが含まれているように聞こえる。
好き好んでいるわけではないことをここぞとばかりに強調しておかなければ、誤解が尾ひれをつけて明日には耀京中を一人歩きすること間違いなしだ。この男は自分の高い地位や整った顔を上手く利用してとんでもないことをしかねない……琥珀は新年明けてからそれをひしひしと感じていた。
「美福門で小袿の女人が左衛門府の衛士と言い争いですよ? 俺が通りかかったからよかったものの……」
その『姫君』は容貌もきらきらしく、ご丁寧に薄花桜の襲ねで目立つことこの上なかった。顔も隠さず門を通せと口論……というよりも一方的な我が侭を押し付けているところに、運悪くというべきか居合わせてしまった琥珀には、彼女を促して早々にその場を立ち去る以外の方法が取れなかったのだ。
何も知らない地下人たちの、好奇の視線がかなり痛かったことだけは確かだ。おかげで沈着冷静な右中弁という印象も台無しだ……とまで口に出すのはさすがに自尊心が許さなかったが。
「そんなことよりも貴方は倭皇様のほうをなんとかしてください! 相変わらず、朝から内裏のどこにもいないとは……」
それでも国を預かる倭皇なのかと、公卿だけでなく殿上人からも溜息が漏れているのを琥珀は知っている。殿上の許されていない六位以下の地下人には隠し通しているものの、いつその噂が広まるか知れない。
「貴方の従兄弟でしょうが」
倭皇はこのまほろばを最初にひとつにまとめた素戔嗚尊の末裔であるが故に、神の血を引く天子である。
そして彼は、親王宣下を受けていないものの、倭皇の父の弟の子、つまり倭皇の実の従兄弟にあたるため、崚王と王氏で呼ばれるのだ。
「琥珀殿は、ご自分の血縁者ならば誰でも助けるのですか?」
何気ない一言だった。
とくに温度を感じさせない、まるで直衣の色を選ぶときのような気楽さすら滲ませて。
だが、琥珀にとってはあまりにも意外な質問で、返す言葉がすぐには浮かばなかった。
ゆっくりと息を吐き、答える。自然に。
「……私に血縁者はおりませんから」
「そうですか」
当たり障りのない会話に聞こえた。客観的には、きっと。
是と答えても否と答えても、同じ語調の言葉しか受け取ることはなかっただろうと、琥珀は脳裏の片隅でなんの感慨もなく気づいた。
琥珀は地方にある施薬院の出身だ。施薬院は孤児や病人を保護する公的施設で、記録も残っているだろうから調べればすぐにわかるし、琥珀も隠していない。崚王は知っていてあえてそんなことを言ってきたのだろう。
「ならば、かの姫はいかがです?」
「―――……は?」
「まとまりかけた縁談が無効になってからここ数年、艶めいたお話の一つもないようですけれど」
琥珀の生真面目な表情が、あっという間に崩れた。
何故この話題からその展開……? おまけに知られたくない過去まで暴露された。疑問符が広がる脳裏に容赦なく、崚王の言葉は軽快に響く。
「緋桜を妻になされば、もれなく赫映とも縁者になれますよ。嬉しいでしょう? ええ、わかっております。この縁談はこの上もない名誉ですから。まぁ残念ながらいまさら直接的な血のつながりは求められませんけれど、子ができれば血縁者ですし。御子はやはり姫がいい。きっと貴方のように可愛らしくていらっしゃるでしょう」
めでたきことですと笑顔で告げられて、琥珀は二の句が告げられない。
反論がありすぎて、すぐには何も出てこなかった。
赫映と縁者? ……とんでもない。人生終わりだ。成人した男に対して可愛らしいという表現も、大いに疑問だし気色悪い。……だがそれよりも。
沈黙は、三拍。
「―――お、お、俺の妻子の話など、どうでもいいだろうが! そもそもあんな破天荒な姫など、いるかっ!」
……が、無駄に律儀な反応を示したことがまた、いけなかった。
「―――……あんな、姫?」
はっと琥珀が気づいたときには、崚王の暖かい笑みはどこまでも深く変わらないはずなのに、その周囲から冷然とした殺気が放たれているのを、本能的に感じ取った。
「まほろば随一の美姫をそのように無碍にお扱いなさるとは、さぞかしご自分に余裕と自信がおありなのでしょうか」
位階は明らかに自分より上の大納言だが、皮肉か嫌味か……おそらくその両者に憐れみまでも含めて、崚王の口調は皇族か大臣に相対しているかのような慇懃すぎる敬語に変わる。
穏やかで丁寧であるのになぜか、敬意や好意などは一切感じ取れないから不思議だ。春も終わろうというこの弥生に、また冷気漂う冬が訪れたような心地さえする。
ほとんど風の入らない室内で、脇に置いてある几帳や文台がかたかたと音を鳴らしていた。
「……だ、だからって、むやみやたらと式神を殺気立たせないでくださいっ。崚王の陰陽道に太刀打ちできるやつなんかいないでしょうが!」
普通の精神力の持ち主ならここで、裸足で逃げ帰りこの邸は鬼門と位置づけて二度と門前すら通過しないのだろうが、幸か不幸か、琥珀には毅然と視線に応えるだけの意地はあった。
また残念なことに、このたった数日で彼のこういった非人道的態度には慣れてしまってもいた。この仕事を受ける前は、大納言などというのは雲の上にいるかのような存在であり、彼の噂は知っていてもこのように直に話す機会などなかったが、まさかこんな性格だとは思わなかったのだ。
崚王は、官人であれば誰もが知る有名人だった。その頭脳明晰さは、この若さで大納言という地位にいることからもわかるし、実際話してみれば自分では太刀打ちできないと気づく。また、倭皇の血縁であることから、陰陽道に優れているとも聞かれる。
だが、彼が有名なのはそれよりもむしろ、その穏やかな物言いや優美な外見、華やかな装いや気の聞いた歌など……とにかく完璧に理想的な貴族であり、言うまでもなく男性の官人らの醜い嫉妬を買い、世の女性らの羨望を浴びている。
琥珀もその程度の認識しかなく、とにもかくにも近づきがたい存在であろうとしか思っていなかったのだ。
この時点で、『まほろば随一の美姫』との文句は、とりあえず聞かなかったことにして棚上げする。
「これだから魑魅魍魎殿などと庶人にまであだ名されてしまうんですよ……」
赫映の住まいである由緒正しき耀月珠穂宮。
だが、式神の気配は陰陽道の使い手でなくても勘が鋭い者なら感じ取ってしまう。その不穏な空気から、いつしか不名誉なあだ名が市井の間に広まった。まったく情けないとしか言いようがない。倭皇の住まう内裏と比べても遜色ないほど権威ある宮だというのに、今では強盗ですら恐れて近寄らないため、この邸には呆れるほどに警備をする耀宮舎人の数が少ないのだ。
「おや、よい名ですね。趣があり、特徴を簡潔によく捉えている」
「…………」
無理やりな話題転換を、崚王はあっさりと切って捨てた。まともにとりあって買い言葉を投げつけた自分のほうが悪いような気分にさせられる。
(趣、あるのかこれ)
田舎育ちの琥珀でも、和歌にしたためて千年語り継ごうとは思わない。
そもそも崚王に人の身の上話にいちいち涙するような可愛げがあろうはずもなく、昔話をさらに掘り返されてもたまらない。そもそも、田舎に住んでいたころのどうでもいい話まで崚王が知っていることのほうが不思議だった。
(……俺を調べたのか)
新耀宮大夫。
崚王にとって、去年まで右大史でしかなかった琥珀など眼中にもなかっただろう。異例の抜擢で耀宮大夫の任を得ることがほぼ確定し、同時に右中弁にまで昇進した。『赫映』に近づく者として、彼が個人的に不信感や警戒を抱いて、生い立ちなどを調査していたとしても責められることではなかった。
(特に前耀宮大夫殿があのような……)
思い出したくなくて、琥珀は軽く崚王から目を背けた。
「もういい。倭皇様のことは諦めますから」
「あんな野蛮人などおらずとも、国は成り立ちます。気にすることはありませんよ」
無礼極まりない言い方も、崚王ならではといえる。
「いちおう倭皇様なのですよ」
「……いちおう、あれでも、ね」
崚王の口調は身内ゆえとも取れるが、琥珀も倭皇という存在を盲目的に崇拝しているわけではなく、少し現実的だ。殿上を許されている身とはいえ、五位程度の太政官では倭皇にそうそう会えるはずもなく、一天の主であるという認識はあるが、どうしても自分とは関わりのない他人としか思えない。
「おや、噂をすれば……」
崚王はほんの少し、誰にもわからないほどの変化で、目元に艶めいた色を乗せた。反対に、琥珀の表情は誰が見ても明らかなほどに強張った。これを見越して無駄話を長引かせたのだと確信する。……絶対的な罠だった。
衣擦れの音とともにばたばたと近づいてくる足音。風流人には無粋よと眉をひそめられるだろうそれも、この邸ではなぜか駆け抜ける春風に溶け込んでいく。
そう容認してしまう自分も、もうどこか違う感性になってしまったのかもしれない。
「崚兄さまっ! もぉお話終わった~?」
琥珀が振り返ると、背中に垂れる御簾が小さな手によって持ち上げられて、簀子から幼い顔が覗いていた。
「終わったよ」
あっさりとそんなことを告げる崚王に、琥珀は一瞬だけ瞠目したが、その笑顔に反論する気は起きず、静かに諦めるしかなかった。結局仕事として訪れたのに、仕事の話などほとんどしていない。報告は一言。その愚痴を崚王に言ってもしかたないことはわかっているだけに、何の進展もないことを考えて、明日の自分の仕事量を憂えた。
「やった~。じゃあ、おそばにいてもいい?」
御簾の隙間から彼女とともに入る風が、こもった大気の色を変える。
春の定番である梅花とは違う薫物。小袿から香る麝香に気を取られている間に、唐渡りの白磁の瓶に挿された桜の枝から、数枚の花びらが揺れて落ちた。
「待たせてしまって悪かったね、緋桜」
何の躊躇もなく、姫は琥珀の横を素通りして崚王に近づき、その腕の中にすっぽりと納まった。崚王も当然のように彼女を片腕で抱きしめている。背の君―――とは聞いていないが、なんとなく見てはいけないような気がして、琥珀は気恥ずかしさで赤くなった顔をすっと背けた。
「じゃあ、明日は料理を作ってくれる?」
「いいよ」
あっさりと頷く崚王に、琥珀は眉を潜めた。―――料理?
「夕餉の支度ですよ」
琥珀の疑問に気づき、崚王はさらりとそう説明した。だがそれは、さらりと聞き流せるようなものではなかった。
「……って崚王がするんですかっ? そんな下男の用を」
なんの冗談なのか、それとも天変地異か。仮にも倭皇の従兄弟、親王の位を得てもおかしくない血筋なのに台盤所に立つなど、むしろその役目を持つ下人たちへの嫌がらせだろう。
「常世では、自分でするのが普通なのですよ」
「…………はぁ」
なぜ彼が常世の詳細を知っているのか疑問に思いながらも、恐ろしい世なのだろうと琥珀は見知らぬ大地を想像した。楽土などではないだろう。この崚王にすら竈の番をさせるのだから。
(ってなんで常世の話をするんだ? しかも行ったことがあるとでも言いたげな口調で……)
もうかつてとは違う。もう常世に誰でも行けるような時代は終わっているのだ。常世の現在の事情などを知る者もいないだろうに。
崚王の博識は誰もが認めるところだが、琥珀はその知識の出所を初めて疑問に思った。
「琥珀も明日、食べにくるのでしょ?」
いきなり話を振られて、退出の世辞しか用意していなかった琥珀は、即座に返答ができず、少し顔を上げてまっすぐに見つめてくる彼女の視線とまともに相対した。
こういうときの緋桜は、邪気の欠片も知らぬ顔をする。
あどけない幼女のようなのに、どこか銀の刃のような妖艶さを垣間見せる。成熟していない少女の、華と蕾の中間にある危うい均衡。
まほろば随一の美姫と崚王が称するのも、親近の贔屓目だけでないのがわかる。
大きな双眸は、猩猩緋。
魅力も甘美も強さも弱さも、すべてはその色から始まっているかのように。
「…………桜姫様」
だが、崚王に抱きついているさまは、背の君というよりも……子猫だ。
その姿に思わず溜息が漏れる。恍惚の、ではなく、諦念の。
「―――仮にも赫映様の御妹君が、私などに顔を見せてはならぬと申し上げているはずですが」
働くことのない高貴なる姫君は、身内以外の男性に顔を見せるなどというはしたないことはしない。そして緋桜は間違いなくまほろばで一、二を争う『高貴なる姫君』だ。たとえ衛士とつっかみ合いの喧嘩になりかけていようが……いちおう、これでも。
(そんな言葉がつく貴人ばかりだ……)
琥珀の胸中など察するはずもなく、むっと機嫌を損ねたような表情をした緋桜に変わって、崚王が口を挟んだ。
「さて? 『春霞 たなびく山の 桜花』……とも申します」
「―――『夢かと惜しむ ここちこそすれ』……でしょう」
試しているのかと訝しむ一瞬の間ののち、思いついたことを口にする。なるほどと彼はあっさりと頷いた。
地方で生まれ育った琥珀の教養では、崚王の才にとうてい太刀打ちできるはずもないのだが、間髪入れない即席の返答を気に入ったのかそれ以上の追求はなかった。
「え? なぁにそれ?」
緋桜には難しい話なのだろう、首をかしげて崚王と琥珀を交互に見やった。その眼差しすら、あどけなく美しい。……けれど、高貴なる仕草は残念ながら欠片もなかった。
「君は常世育ちだから、和歌集はあまり知らないかもしれないね」
「すべて暗記しろって言われてたよ。でも二十巻もあるんだもんっ」
その事実を、琥珀はいまさらながらに思い出す。
(……常世、か)
緋桜は去年までその幻の地にいたのだという。その事実を崚王から知らされたときには、さすがに耳を疑うほど驚いたものだ。朝廷ではほかの誰も知らない事実だろう。琥珀も職事官をして数年になるが、赫映に妹姫がいるなどという話は聞いたことがなく、常世で匿われていたというのもあり得る話かもしれない。
「崚兄さまだって常世にずっといたのにずるいっ」
「緋桜」
崚王が制する口調で彼女の名前を呼んだのは、琥珀が知る限り初めてだった。
だが、それよりも衝撃的な言葉を聞いて、驚愕に固まった視線を思わず不躾に崚王へ向けていた。その意味に気づいた緋桜が驚いた顔で崚王を見上げた。彼女の感情は直接的で移り変わりも激しい。
「崚兄さまってば、琥珀にも言ってなかったのぉ?」
「別に秘密にしていたわけではないよ。でも、公言することでもないからね」
「ん~、わかった。じゃあもう言わないね」
頬を膨らませる彼女だったが、素直に頷いた。その間、崚王は先の言辞を一度も否定しなかった。
(……常世にいた? 崚王も?)
彼の経歴を、琥珀はよく知らない。だが、常世はまほろばとはまったく異なる常識を持つ世だと言われている。そんな常世で育った崚王が、生粋の京人よりもはるかにまほろばの教養があるなどということがあろうか。
その所作は王氏に相応しく、雅びで洗練されたもの。知識ならともかく、そういった振る舞いは短期間で身につくものではないだろう。
(常世も本当はまほろばと似た場所なのだろうか?)
楽土などではなく―――?
神々のいた時代には、頻繁な行き来があったという常世とまほろば。だが今はもうひとの世になって久しい。まほろばの民にとって、もはやけっして辿り着けない未知の世であり、文献と赫映という存在だけがまほろばを真実へ押し上げているにすぎない。
(桜姫様に、聞いてみてもいいのだろうか?)
好奇心は尽きない。
だが、一介の官人でしかない琥珀が差し出がましく尋ねていい事柄ではないような気がした。
「ね? 桜と関係ある歌なんでしょ? いい意味なの?」
彼女は大きな瞳に春の微風のぬくもりをそのまま宿したような明るさで、軽く首をかしげた。そういう仕草をされると、琥珀も男である。愛らしいと思う気持ちが生まれないわけでもなかった。……だが、普段の行動を思い出すとその泡のような気持ちは、あっさりと冷水に流されて消える。錯覚だ。
「『春霞 たなびく山の 桜花 見れどもあかぬ 君にもあるかな』。桜はいくら見ても飽きぬという意味ですよ」
緋桜に促されたが、正式な解釈を真顔で言えずに、琥珀は端的に要約した。見て飽きないのは、本当は『桜花』だけでなく『君』なのだが……。
「へぇ? 風流ね」
彼女の口調は、とてもその風流に感動している様子ではなく、適当に言ったようにしか思えなかった。……が。
「あ、じゃあ琥珀のは? 夢かと……なんだっけ?」
「……う」
少しだけ顔を引きつらせた。『夢かと惜しむ ここちこそすれ』―――見えなければ夢かもしれないと逆に惜しむ気持ちも生まれるのだと告げた自分の句は、恥ずかしすぎてもう口に出せなかった。
「緋桜。歌の解釈をみだりに尋ねるものではないよ、礼儀に欠ける」
「はぁい」
崚王にたしなめられ、さほど興味があったわけでもないのか、緋桜はあっさり引き下がった。琥珀はほっと胸中で息を吐いたが、その助け舟に感謝する気は起きなかった。元凶が彼なのだから当然だ。
「ところで、その常世の女人は、いつ耀京へ?」
「気にかけてくださるわけですか」
「……あんたらに任しておいたらろくなことにならんでしょうが」
苛立ち指数が着々と上昇する。本来なら琥珀が気にする義理も義務もないが、『赫映』の所業を咎められるのは結局、回りまわって自分自身になることは少ない経験の中ですでに悟った。
「本当は貴方に迎えに行ってもらおうと思っていたのですが―――」
そう前置きされてさらりと告げられた言葉を、琥珀は聞かなかったことにしてしまいたかった。