別れ
その日の夜。
アレスの家に医者が訪れました。
「ずいぶん片付いたな」
「せっかく紹介していただいたのに申し訳ありません」
ぐずぐずと引越しの準備を引き伸ばしましたが、元から、アレスの荷物は多くなかったのです。
明日には、村を出て行くつもりです。
「お世話になったお礼には程遠いですが、この薬は置いていきます」
「イリーナの結婚が決まったよ」
危うく、ポットを取り落としそうになりました。
医者が来るときはカウンター越しではなく、家の中に招いて、お茶をしながら、村の情報を仕入れるのですが、あまりのことに医者を凝視してしまいまいた。
「やっぱり知らなかったのか。……親が、君との仲を勘ぐって、急いで結婚を決めたらしい」
「別に仲がどうのこうのと気にすることはない」
たった5分の、それもカーテン越しのお茶会です。医師と茶を飲みながら世間話をしているよりずっと短い時間です。
お茶をごくりと飲み干すアレスに医者は告げます。
「二つ先の村だ。お前どうする気なんだ。このままじゃイリーナは嫁いでしまうぞ」
☆
「村二つ離れているだけなら、仲直りすれば毎日会いにいけるね」
まあ、この世界の交通手段も、村二つの距離もよくわからないが。
「いや、俺がお仕事に行っている間に、もし母さんが昔の男友達と会っていたら、茶を飲むだけでも嫌だぞ」
「じゃあ、イリーナちゃんとイリーナちゃんのお婿さんとアレスの三人でお茶会したら大丈夫だね」
「それは……混沌しか生み出さないような」
と、その時、地を這うような女性の声が……
「あんたは、子供にな~に吹き込んでいるのかな?」
「いたっ」
妻に後ろから髪を引っ張られた。
「あんたは私の浮気を疑っているの! そんなめんどくさい事するくらいなら、昼寝するわっ!」
睡眠LOVEの奥さんらしい発言だが……
「こっ、広辞苑で叩くな!」
「仲よしだね」
娘はなぜか生暖かい視線を向けると、部屋を出て行った。
こら、見捨てるな。助けろ~!
☆
お話は七日前、イリーナが『ほんの少しだけ、待ってください』と言ってアレスの家を出た直後に戻ります。
どうすれば、村人とアレスの溝を埋める事ができるか……
そんなことを考えていたので、遠くでイリーナを見ながらひそひそ話し合っている女の人達などまったく目に映っていませんでした。
「あの男と関わるのだけは止しなさい。噂になったらどうするの?」
帰るなり母親からそう言われてイリーナは首を傾げます。
誰のことか問いただそうとして、すぐに思い当たります。
たった5分とは言え、毎日、男の人の家に通うのがはしたないと言われればそれまでですが、やっと会話が成立するようになっただけで、水色のカーテンは未だ二人の姿を隠しています。
母に咎めだてされるようなことは何もありません。
「アレスさんは……」
そこで言葉に詰まってしまいます。
『アレスは噂ほど悪い人ではない』。 それとも『アレスとはなんでもない』?
どちらの言葉も、喉から先には出ません。
アレスと知り合ったのはたった二ヶ月のことで、アレスの人柄を断言できるほど彼を知っているわけではありませんし、彼がカーテンの向こうで何を考えているのか、知る由もありません。
「あの男の名前を知っているほど仲が良いのが、問題なのよ。しばらく外に出てはいけません」
いえ、彼の名前、職業、彼の作ったクッキーや彼が入れてくれたお茶の味以外、何も知らなかったのです。
☆
「お友達の家に遊びに行くのがなんでダメなの? お話しているだけだよ! お母さんひどい! ケチ!」
画面に向かってぷんすか怒る娘。
娘の言い分もわかるが、まあ、親としては……
「あのな。俺だって『女性を殴った』とか『子供を殺しかけた』なんて噂のある暴力男の所に娘が通い詰めてるって聞いたら、止めるわ」
「次は、な~に吹き込んでいるのかな? ママがひどいとか、子供を--」
ひょっこりにこやかに笑顔を貼り付けて戸の陰から姿を現す奥さん。
「ナニモ吹キ込ンデイマセン。推定無罪デス」
「そう」
妻は軽く頷くとさっさと家事に戻って行った。
☆
イリーナはほとぼりが冷めるまで大人しくしていようと思っていたのですが、その間に物語は進んでいきます。
謹慎が解かれることは無く……。
七日後--
「喜べ。お前の結婚が決まったぞ! 明日には二つ先の村に嫁ぐんだ」
父親が喜色満面の笑みで告げた言葉に、イリーナは呆然とします。
「そんな。まだ……」
まだ、何も始まっていないのに。
約束を果たしていないのに。
「噂が広がりきる前に良いお話が見つかってよかったわ。今日で最後なんだから、お別れの挨拶してきなさい」
◇
数人の女友達や、お世話になった人達に、別れの挨拶している間、遠くで他の村人達がこちらを見ながらひそひそと話しています。イリーナがそちらに顔を向けると彼らは視線を逸らします。
「イリーナ」
イリーナよりも一つ年上の女性サラが、村の人の視線から庇うように立ってくれます。
サラとはあまり親しくは無かったのですが、その小さな気遣いにイリーナは心がほんの少し温かくなりました。しかし……
「結婚おめでとう。あなたもあんな野蛮な男なんかと噂になっていい迷惑だったわね」
別れの挨拶をすれば、二度に一度はそんな風に言われます。
同情を寄せるサラにイリーナは反論を試みました。
「野蛮ってそんなこと」
「あるわよ」
イリーナはサラの苛立たしげな言葉に、それ以上言い返せませんでした。
「幸せにね」
噂は良くなるどころか、悪くなっているようです。
◇
アレスの家に向かう足取りは重いものでした。
もう引越し先が決まって、村を出て行ったかもしれません。
そう思いながら、扉を開くと、いつも通りうるさい鈴の音と「はい」とアレスの声が聞こえました。
良かった。まだ居る。
そう喜んだのもつかの間、カーテンの向こうから伝わってくるのは怒気です。
『なんとかする』と大見得を切ったのに、一週間顔を見せなかった挙句、変な噂も立てられて……状況を悪化させた上に、何の釈明もしないまま逃げるのです。
今の状況を説明しようとして、口を開けますが、どうしても言葉にできません。
アレスにとってイリーナの結婚など関係ないことで、彼はイリーナのせいで更なる迷惑を被っている最中なのです。
言葉に迷っていると、アレスが先に口を開きました。苛立った声で。
「もう、謝罪分は十分チャラになったと思うが?」
謝罪の分、お茶に付き合ってもらう約束で始めた『5分のお茶会』。
カーテンが開けられます。
彼は憐れみと優しさを含んだ目で言います。
「雷の蛇をぶつけてしまってすまなかったな」
『顔を合わせて謝ってもらうまで毎日5分です』
たった、二ヶ月前のことですが、そう約束を交わしたのは、遠い昔のことのように思います。
もう何を言っても言い訳にしかなりませんし、アレス。
だから、せめて見苦しくないように……
「お茶、おいしかったです。今まで、私の我が儘ままに付き合ってくださってありがとうございました」
涙を堪えて、イリーナは深々と頭を下げ、お礼を言いました。
長いオレンジ色の髪が、彼女の表情を覆い隠してくれます。
『まだちゃんと顔を会わせてお礼を言っていませんし、謝ってももらっていません』
涙が一粒、カウンターに零れ落ち、小さな染みを作ります。
こうして、短くて長い『5分のお茶会』は終わりました。
☆
家に帰ってから、イリーナは部屋に閉じこもり、静かに泣きました。
いつかはこのお茶会が終わる日が来ると知っていました。
いつかは、遠くに嫁いで、ほんの少し垣間見たアレスの顔も忘れてしまうのだと、わかっていました。
それでも、アレスとの穏やかな時間はもう少しだけ続くのだと思っていました。
もう少し時が経ったら、アレスが女性の顔を見れるようになったかも……カーテン越しではないお茶会もあったかもしれないのに……
枕にいくつもの染みができます。
こんなに苦しいのに、きっとアレスは『面倒なことが終わった』くらいにしか思っていないのでしょう。
「ぐっ……結婚の報告をしていない」
アレスはもう結婚のことを知っているのでしょうが。
変な噂を立ててしまったお詫びも忘れています。
夜にアレスの家に行くなど人に見つかれば、それこそ噂の種になりますが、明日には自分はこの村から消えてしまうのです。
アレスに会う理由を心の中からひねり出して、イリーナはこっそり家を抜け出しました。