反故
「誤解を解くべきです」
「なぜ? 薬師を必要としている村は他にもある。ここに居続ける必要は無い」
「この村の薬のほとんどはあなたが作っているって知れば……」
「医者の評判が落ちるな。俺の怪しげな薬を何も知らない村人に売りつけたって」
「そんなこと……」
ない。
イリーナはそう続けようとして、先ほどの子供の親が『あの男の肩をもたないほうが良いわよ』言ったことを思い出します。
「それに、どんな良薬でも、薬に疑いを持てば、薬の効きが悪くなる。だから、医者の信頼を借りていたんだ。その信頼を俺が崩すことはしない」
「じゃあ、これからこの村は、どうやって薬を手に入れるのですか?」
「これまでどおり、隣の村の俺の実家から買うか、王都から高い薬を買うか。もしくは、危険な森に薬草を取りに行くか。どちらにしろ俺の知ったことじゃない」
☆
「同じ薬なのに、アレスから買うより、お医者さんから買ったほうが良いの?」
「うーん。アレスのところで薬を売ったら早いけれど、悪い噂が広まった後じゃあ、誰も買いに来てくれない。だから、代わりに医者に薬を買ってもらって、医者が患者にお薬を渡していたんだろう」
で、医者はアレスから買った値段よりも、ほんの少し高く売れば、その分は丸儲けだ。
「例えばな。作った工場は同じで、作るのに同じだけのお金がかかったハンカチが2枚並んでたとするだろう?」
「うん!」
「一方はミクの大好きな魔法少女○○の小さな刺繍があって、もう一つはいっぱいの花の刺繍がある。ミクはどっちが良い?」
「魔法少女の方が良い!」
「じゃあ、魔法少女のハンカチよりも花のハンカチの方が飴玉一個分安くて、花のハンカチ選んだら飴一個買ってあげるってママが言ったら?」
「うーん」
娘は真剣にどちらを選ぶか悩んでいる。
「少々高くても、自分にとってそこに価値があると思えば、そちらを選ぶ。俺にとって『魔法少女』でも『花』でも同じだけれど」
「ぜんぜん違うよ」
不満そうに見上げる娘の頭をなでてやる。
俺にとったら、例え娘とペアでも『どちらも選びたくない』と言う点だけは変わらない。
「『医者の薬を飲めば安心』って言う『ブランド』を信じて、村人は医者から薬を買うんだ」
☆
「ほんの少しだけ、待ってください」
「いいだろう。どうせ薬師を必要としている村を探さなければいけない。引越し先が決まるまでだ」
イリーナにはなんの策もありませんでしたが、とりあえず時間だけは稼ぐことができました。
◇
毎日のようにアレスの家に訪れていたイリーナがその翌日から突然来なくなりました。
一日目、アレスは急な用事が入ったのだろうと思いました。
二日目は、風邪にでもかかったのだろうかと、心配しました。
三日目は、風邪が長引いているんだろうかと考えました。
四日目は、彼女はここに来ることに飽きてしまったのではないかと……。
五日目、彼の元に三つ先の村から手紙が届きます。お腹の底に熱が溜まりはじめました。
六日目、彼はのろのろと引越しの準備を始めます。
七日目……
イリーナがアレスの家を訪れました。
イリーナは何も話さずに、お茶を飲んでいます。
重苦しい沈黙が、部屋に漂います。
イリーナが話さずとも苦しいなどと思ったことは一度もないはずなのに……
何か言いたそうな気配は伝わってくるのですが、アレスがどれほど待っても、彼女はしゃべりだしません。
なぜ一週間、イリーナがアレスの家に訪れなかったのか?
別に毎日、お茶会を開くと約束したわけではありません。
それでも、イリーナからなんの説明もないことをアレスは腹立たしく思いました。
かと言って、アレスのほうから理由を聞くのも、イリーナの訪れを待ち望んでいたようで嫌です。
元から彼女がぽつぽつ前日にあったことを伝えているだけでしたので、想像した通りきっと会話が楽しくなくなってきたのだと、アレスは思いました。
元から会話と呼べるほどのものではありませんでしたが。
もうすぐ今日の『5分』が終わろうかと言う時には、お腹の底の熱はぐつぐつ煮えたぎっていました。
アレスはゆっくり息を吐きました。
「もう、謝罪分は十分チャラになったと思うが?」
イリーナが息を呑む気配が伝わってきます。
アレスはほんの少し、カーテンをあげて、
「雷の蛇をぶつけてしまってすまなかったな」
彼女の目を見て言いました。
『まだちゃんと顔を会わせてお礼を言っていませんし、謝ってももらっていません』
イリーナは泣きそうな目で、絞り出すような声で
「お茶、おいしかったです。今まで、私の我が儘に付き合ってくださってありがとうございました」
それだけ言って、丁寧に頭を下げ、アレスの家から出て行きます。
『顔を合わせて謝ってもらうまで毎日5分です』
お腹の底で煮立っていたはずの熱は、すっかり消えてしまいました。
『5分』は終わり……
その日以来、彼女の来訪は途絶えました。