花の話
(さっさとこの5分を終わらせよう)
「今くらいの声ならかまわない」
そう言って、アレスは先ほど温めなおしたばかりのお茶とイリーナが焼いたクッキーのイリーナに渡します。
クッキーを渡された時点で、また理由をつけて長居されることは予想していましたので、二人分のカップを持って来ていたのです。
「一人では量が多すぎる」
昨日、砂糖なしのクッキーを何枚も食べたアレスは、あまりクッキーを食べたくなかったのです。
だから、この言葉も二人分のカップを用意した時から用意していたのです。
昨日よりか重苦しい空気の中、アレスとイリーナはお茶を黙々と飲みました。
クッキーを齧る音だけが、やけに大きく響きました。
◇
「あ、あの……」
お互い無言で茶を飲んでいましたが、イリーナはためらいがちにカーテンの向こうに呼びかけました。彼を怒らせてしまった原因はきっと「顔が見たい」と言ったからでしょう。
「私、小さな物音や声の調子からカーテンの向こうで噂のアレスさんがどんな表情を浮かべているか、想像するのが楽しかったんです。その、ちょっと意地悪してやろうって気持ちもあって、二度も押しかけてしまって。嫌な思いをさせてしまって、すみ--」
早口に言い訳をまくし立てて、余計に嫌われたら、どうしよう。
イリーナの心は重たい何かにぎゅーっと押しつぶされそうです。
ふっと空気が解けた気がしました。
「謝ることはない。少し落ち着いて。声が高くなっている」
笑った。
笑い声までは、聞こえませんが薄いカーテン越しに彼が確かに笑った気配が伝わったのです。
「どうせ、明日も押しかけるつもりなんだろう。次はクッキーではなくて別のものを……。クッキーを見ると昨日のクッキーを思い出してしまって」
「わ、忘れてください」
それから、たった5分の茶会は1ヶ月間、毎日続けられることになりました。
☆
毎日続けるには5分と言う時間はちょうどいい長さだったのでしょう。
イリーナは雨の日以外は毎日クッキーやらマフィンやらパイやらを持って、アレスの家に訪れましたが、彼に評価を求めると「最初のクッキーよりかはずいぶんおいしい」と思いっきり苦笑されました。
なので、一度、『クッキーを作って』と迫ったところ、翌日の茶会は野いちごのジャムを載せたクッキーやら、ハーブのクッキーやらが木の皿いっぱいに入っていました。
どれもが自分が作ったものよりおいしくて非常に悔しい思いをしました。
「最近作ってなかったから、いろいろ試してみたくて、つい作りすぎてしまった」
さすがに二人では食べきれず、ちょっと困ったように「悪いが余った分は持って帰ってくれ」といわれた時はどんな表情をしているか想像して、顔が緩んでしまいました。
カーテン越しの彼が同じようにこちらの表情を想像しているのではないかと思うと恥ずかしくもありましたが。
◇
最初はイリーナが話題を仕入れてきて、一方的に話し、彼はたまに「ああ」とか「そう」と短く相槌を打つだけでした。 イリーナも毎日、新しい話のネタを提供できるわけではありません。
結局「もうすぐ雨が降りそう」やら「今日はとても天気が良い」など、天気の話になってしまいます。
天気の話だけでも、彼はとても真面目に聞います。むしろ、アレスが一番熱心に聴いているのは天気のようです。
特に会話が弾むでもなく、ついに5分の時間でさえ話題が途切れた時は沈黙が息苦しく感じましたが、翌日、初めてアレスはぽつぽつと森で見た珍しい花の話をしてくれました。
どちらかと言うと、その花の美しさよりも、その花にどんな薬効があるかの話でしたが、アレスがはじめて自分から話題を振ってくれたことがうれしかったのです。
イリーナが花の話に喜んだのが、伝わったようで、翌日からカウンターには珍しい花が飾られるようになりました。
彼は無愛想なのは変わりませんが、いつもちゃんとお茶と花を用意して待っていてくれていました。
◇
アレスは話が途切れても、別に困るようなことはありませんでしたが、イリーナはそうではないようです。ひそやかに、息をついで次の言葉を探す様がカーテン越しに伝わってきます。
『会話に困るなら来なければ良いのに』とも思いましたが、それなりにおいしくなったお菓子と……天気の情報は興味があります。
アレスは少し迷って、森の話をすることにしました。
狼が出る深い森で見つけた小さな花の話を……。
彼女は花の話をたいそう気に入ったようです。
5分が終わり、イリーナが外への扉を開けた時、アレスは囁くようにいいました。
「無理に話さなくても、静かに茶を飲むだけでも良いんじゃないか?」
カーテンの向こうの彼女に届いたかはわかりませんでした。
翌日。
「これ、昨日言っていた毒の花ですか?」
カウンターに飾った花はきれいな紫色の花。
「いや、別の花だ。この花の根は、鎮痛効果があるけれど、花は畑の肥やしにしかなら、肥やしにする前に飾っているだけだ。それに、昨日の花は、たくさん食べると永遠に眠るだけで、少しだけなら安眠効果がある」
「きれい」
「触ってもかぶれたりしないから、気に入ったのなら持って帰っても良い」
それから、彼は森に薬草を探しに行く時は必ず花の付いた薬草を一株持って帰るようになりました。
☆
娘はぎゅっと眉を寄せながら、自分の考えを搾り出していた。
「アレスは、イリーナちゃんとお話したくないほどイリーナちゃんのことが嫌いなの? それなのにお花飾るの?」
娘は、『話をしなくてもいい』と『イリーナのために花を飾る』に矛盾を感じているようだ。
常に『5分間』を彼女のために用意している。それ以上はあっても良いが、別に無くても彼は構わない。 『5分間』は変わらず用意されている。
「うーん。それは、どうだろうな。パパが一言もミクに話しかけない日があっても、パパがミクを嫌いになったわけじゃないだろう?」
帰りが遅くなって、ミクと話せないときもあるし、疲れて休日丸一日眠ってしまうこともある。
それで、ミクが文句を言うことはほとんど無いが……
「でも、パパが遊んでくれるとうれしいよ」
ああ、そういう風にお願いされると……
「じゃあ、今週の日曜日は公園に遊びに行こうか」
って言ってしまうんだよなぁ。