羨望
翌日、イリーナはもう一度、アレスの家を訪れました。
「なんで、またここにいるんだ? そんなひどい傷じゃなかったはずだが」
「まだ、ちゃんとお礼といえるような物を返していません」
「昨日のクッキー? とぉーってもおいしかったから、もう来なくて良いよ」
カーテンの向こうからは思いっきり小ばかにした声が聞こえてきます。
「すぐにばれる嘘を付かないでください」
「俺は、二度も砂糖なしのクッキーを笑って食べるほど心は広くない」
あきれたような声がイリーナの耳に届きます。
「あれはっ、た、たまたま、砂糖を入れ忘れただけで、一つだけ食べてみてください」
薄いカーテン越しから、ため息が伝わってきて、彼の気配が遠のきました。
しばらくじっと待っていたのですが、30秒ほど待っても、彼は戻ってくる気配はありません。
一瞬、イリーナの頭に『危険を察知して逃げる猫の図』が浮かびました。
(まさか、逃亡じゃ)
耳を済ませていると足音が戻ってきました。人が椅子に座る気配の後、カーテンの向こうから
ぱりっとクッキーを齧る音が聞こえました。
「昨日のクッキーよりかはましだ。さあもう用はなくなったろう?」
◇
「昨日のクッキーよりかはましだ。さあ、もう用はなくなったろう?」
「今日の5分はまだ過ぎていません」
カーテンの向こうから届くきっぱりとした声にアレスはわざとらしく目を丸くしました。
「5分は昨日だけのはずだ」
「まだちゃんと顔を会わせてお礼を言っていませんし、謝ってももらっていません」
「火傷を負わせて悪かった」
「顔を合わせて謝ってもらうまで毎日5分です」
「顔に興味あるのか?」
きれいな顔見たさにアレスに近づいてきた女の人を怪我させたことは一度や二度ではありません。
この村に引っ越したその日に乱暴者の噂が広まってしまったのも--
◇
アレスの責めるような問いに、イリーナは戸惑って、言葉を探します。
「それは……少しは興味ありますけれど……、」
噂ではアレスの顔はとても整っていると言う話でしたし、うろ覚えの彼の顔は整っていたような気はします。
せっかく見る機会があったのなら、もう少ししっかり見ておけば良かったとも思います。
隠されていると余計見てみたくなってしまうものです。
でも、本当に知りたいのは土台のほうではなくて、そこに浮かぶ表情であって……
答えを言葉にできないまま、イリーナは、別の言葉を言いました。
「あと、クッキーをおいしいって言ってもらっていません」
◇
「たった5分でいいんです」
イリーナにそう懇願されても、アレスの心には何も響きません。
雷の蛇に攻撃され、昨日も邪険にされたのに、それでもめげずにもう一度ここに訪れたイリーナをうっとうしいと思いながらも、ほんの少しだけすごいとも思っていました。
自分なら雷の蛇に襲わた時点で、危険から遠ざかり、近づこうとすら考えないのに。
自分にない勇気に報いて、お茶ぐらいは……と思っていたのですが、その勇気の元が自分に近づいてきた女の人達と一緒と思うと、ちょっとだけ落胆してしまったのです。
出会って、たった三日。イリーナの事を何も知らないのに、失望も羨望も自分勝手な思い込みだとアレスにもわかっていました。
☆
「せんぼうって?」
五歳児にはちょっと難しいか。一応間違ったことは教えたくないので、高校時代から愛用の辞書(大事に使っていた(=ほとんど使っていなかった)ので折れ目なし)を捲って説明する。
「うーん。『羨』望の『羨』は『羨ましい』って意味でな。平たく言うと自分にないものを人が持っていて羨ましく思う気持ちだな」
「人のもの欲しがったらダメなんだよ」
ありゃ、説明がわかりにくかったか?
「縄跳びで考えようか」
「うん」
娘が素直に頷く。
「幼稚園で縄跳びできる子がいるよな。その子がかっこういい、その子と同じように跳びたいって思ったらどうすれば良い?」
娘は最近、夕飯には同じ幼稚園の「えーこちゃん」の話題が多い。縄跳びできてかっこいいと言っていた。
「練習する!」
そう、娘の最近の日課は縄跳び練習だ。いつも、最初の一回で引っかかってしまうけど。
「羨ましいって気持ちが、がんばる気持ちを生むきっかけになると思う。
そりゃ、羨ましすぎて、その子を縄跳びできないように怪我させるのは悪いことだけれど、ミクがその子に近づきたいって思うのは悪いことじゃないと思うよ」
こんな説明でわかったのか、娘は「うん!」と元気よく頷いた。
「そうだな。次の休み、パパと縄跳びの練習しようか」
もう20年近く縄跳びなんてやってないから上手く跳べるかわからないが。
「うん!」
娘は元気よく頷いた。
視点が入り乱れてわかりにくいけれど、今回はこれで。