カーテンとクッキー
翌日、会社から帰ってから、急いで『5分のお茶会と半分の月』を読んだ。
本当は行き帰りの電車の中で読んだほうが効率的だったんだろうけど、無警戒で読んで、もしスケルトンやゾンビが出てきたら、電車の中で悲鳴を上げることになりかねない。
ざっと読んだ限りでは、最初が過激なだけで後は子供に読み聞かせても大丈夫だろう。
それにしても娘が望むようなスケルトンやゾンビがわんさの展開でなくて本当に良かった。
夜、続きを読み聞かせて自分が手洗いに行けなくなったら困る。
☆
女の人は地面に倒れてしまいます。
アレスは急いで、いつもお薬を買ってもらっているお医者様の所へ女の人を運んでいきました。
揺れるたびに女の人の髪が頬に当たるのをうっとおしく思いながらも、太陽の光をたっぷり受けたオレンジのような髪はやけに眩しく、目に焼きつきました。
アレスが女の人が大嫌いだと知っているお医者様はたいそう驚きました。
お医者様が診ると、幸い女の人は気絶していただけでした。軽い火傷を負っていましたが、それもすぐに消えると言う話でしたので、アレスは女の人が目覚めるのを待たずに家に帰ってしまいました。
翌日、お医者様がお薬を買いに来る以外、ほとんど訪れる者のいないアレスの薬屋に人が訪れました。
「あなたが有名な偏屈な薬師さんだったんですね」
薬の受け渡しをする小さな窓は、カーテンで仕切られていて若い女の人の声だけが彼に届きました。
アレスはこの村に引っ越して来た日に、歓迎してくれた村の女の人を怪我させて以来、ほとんど人前に姿を見せていませんでしたので、アレスの名前は有名ですが、アレスの顔を知っている人はほとんどいません。
同じようにアレスが顔と名前を知っている人はごくわずかです。
「御用は?」
アレスはお客と話すことに慣れていません。
不機嫌な声でそれだけ言うと女の人は消え入りそうな声で言います。
「お医者様から火傷のお薬が切れてしまったから、自分でこちらに買いに……」
おそらくお医者様が女の人に教えたのでしょう。この女の人は昨日アレスが助けた女の人だったのです。
火傷の薬は二日前にお医者様に売ったばかりで、まだお医者様の所にたくさんあるはずです。
アレスはお医者様の考えがわからずに首を傾げましたが、黙って火傷の薬を作りました。
薬を小窓から差し出すと代わりに大きなバスケットが押し入れられました。
「これは薬の料金か?」
お金の払えない人が、野菜などで代金を払うことはよくあることです。
でも、バスケットの中にはクッキーのほかに布に丁寧に包まれたお金も入っていました。
「助けていただいたお礼です。一緒にお茶でも飲みませんか? アレスさん」
柔らかな声がカーテン越しから聞こえます。
カーテン越しとはいえ家族以外の女性から間近に名を呼ばれたことがなかったアレスは不愉快そうに答えます。
「悪いが帰ってくれ」
と言って、バスケットの中から、お金だけ受け取り、バスケットを押し返します。
「5分だけで良いですから」
「礼と言うなら、ここに二度と来ないことが一番の礼だ」
「私、見ました。バチバチ光った蛇が男に噛み付くのを。その後、その蛇が私に噛み付きましたよね」
とても穏やかな声で、女の人は言います。
「俺に助けを求めたのが不運だったな。また大怪我したくなければ、薬を受け取ってとっとと帰ってくれ」
と脅して追い返そうとしますが、女の人は重ねて言いました。
「最初、見捨てる気でしたよね?」
その言葉に、アレスは一瞬言葉に詰まり、「女の甲高い声は苦手なんだ。最後は助けたのだから帳尻は合うだろう?」と言い訳すると、カーテンの向こうから小さな笑いが漏れます。
「少しくらい嫌がらせしないと帳尻が合いません」
カーテン越しの押し問答の末に、結局折れたのはアレスのほうでした。
「まあ、5分くらいなら」
うっとうしいのがたった5分で退散してくれるのなら、と思い頷いたのです。
女の人は「イリーナ」と名乗りました。
その声は最初に出会った時のような甲高い声ではなく、女の人にしては低い声でした。
たぶん『女の人の高い声が苦手』と聞いて気を使ってくれたのでしょう。
早くイリーナを追い出したいアレスと彼が乱暴者という情報しか知らないイリーナ。
カーテン越しで相手がどんな表情をしているか探りながらのお茶会は楽しい雰囲気ではなく、どちらかというとぴりぴりした感じでした。
アレスが食べたクッキーはあまりおいしくはなかったのですが、本当のことを言ってイリーナの機嫌を損ねるのは愚かです。機嫌を損ねた彼女に長々と居座られたら困ります。
感想を求められたアレスはがんばって良いところを見つけて、「焦げていない」「土の味のシチューよりかまし」と答えました。
「土のシチューよりかまし」なんて褒め方をされてはイリーナも押し黙るしかなく、結局、お茶会の“一回目”は5分を待たずに終わりを告げました。