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サラ

『別れ』の時にちらっと出ていた人。

 私が彼と最初に出会ったのは、私が10を過ぎた子供の頃。


「良かったら、一緒に本を読まない?」

「文字読めないよ」

「大丈夫だよ。僕が先に読むから、続けて読んで」


 きれいな顔立ちの男の子。一つか二つ年下だろうか。少し私より背が小さい。



 だが、物語の中程まで読み進めた頃に親が迎えに来た。

 最後まで読みたいのにと言うとその男の子は……

  

「次、遊びに来たときは、文字覚えよう。そうしたら、続き読めるようになるから」


 指切りと一緒に互いの名前を交わした。


 その時の本の題名は……


 『湖の妖精』



 その時の事を思い出したのは、父が「森の近くのあばら家の修理」を引き受けたからだ。


「なんでまた、あんな不便なところに?」


 新しく住む住民が、「人付き合いが苦手なんで、変に騒ぎ立てないように」

 とさんざん念を押されたらしい。


「来るのは、隣の村の教師の息子だそうだ」

 

 まさか。まさか。


「名前は?」

「名前までは知らないが、親父さんは別嬪だから、息子もきれいなんじゃないか?」

 

 家の修理が完了した直後から服やらなにやら精一杯の気合を入れて、花束まで用意して、友人と一緒にり込んだ。


 彼の意向で、村をあげての歓迎会などはやらない方針だそうだが、一人くらい彼の引越しを祝ってあげても良いじゃないか。


 ☆


 数日後、その男はひっそりとあばら家に現れた。


 家の前で医師と親しげに言葉を交わしている。


 背はさほど高くない。

 記憶にあるものよりどこか冷めた表情だが、間違いなくあの少年だ。


 彼はこちらに気づくと少々緊張した顔で私に手を差し出す。


「はじめまして。ここに新しく住まわせてもらう……」

「アレス君?」 


 私の言葉に彼は首を傾げる。


「一度だけあなたの村に行ったときに遊んでもらったサラよ。久しぶり!」


 そう言って、私は彼と抱擁を……


 身体を引き離されたと思う間もなく、蹴り倒された。


 友人が悲鳴を上げる。


 彼は呆然と私を見下ろしていたが、その悲鳴に急いで私を助け起こそうとする。


「申し訳なかった。ああいうことされたことなかったので……」


「もう……いいわよ」

 

 私は伸ばされた手を払いのけ、あばら家を後にした。


 恥ずかしく、悔しかった。



 私と一緒にいた友人は、『女を蹴るような危険な男が村の端に住み着いたようだ』と友達の一人に伝えた。


 噂はあっさり広まった。被害者わたしの名前は伏せて……。

 

 たった数ヶ月の間に、アレスが引越し早々に起こした事件に加え、彼が子供に大怪我させた上に「殺す」と脅したという噂まで広がった。


 当のアレスはそれらの噂を否定することもせず、ただ黙っていた。



 それからしばらくして、イリーナが他人の家の前に立って、年配の女性と言い争っているのが聞こえた。

 言い争いは、どうやらイリーナの負けで終わったようだ。


「『毒薬』とか聞こえてきましたけれど、どうしたんですか?」


 最初から現場を目撃していた近所の女性達にたずねた。


「森の近くに住んでいる変人がいるでしょ? その人の畑を荒らすなってイリーナちゃんが乗り込んできたのよ」

「雑草くらいで目くじら立てなくていいのにねぇ」

「なんで、イリーナが?」

「そんなの……“特別な関係”ってことでしょ?」

「彼女が、変人の家のほうに向かうのを見たって人もいるしね」


 噂好きな彼女達は互いに忍び笑いを漏らす。 


 (あんな暴力男の側にイリーナがいる)


 悔しく腹立たしく思った。


 (今は仲良くやっていてもいつかは手の平を返すように裏切るのだ)


 自分が捨てたその場所に……

 

 (今から私がすることは正しいことだ)


 なぜ……勝手にいるのだ。何が違ったのだ。


 彼女を心配する心と嫉妬の心、二つの心が一つの入れ物の中から溢れる。

 

 私はどうしても彼と彼女が許せなくて……


 彼女の親に『娘さんは森の側に住んでいる男と親しくしているようだ』とただそれだけを告げた。


 それを聞いた彼女の親の対応は早かった。数日も経たないうちにイリーナの結婚が決まったのだ。



 イリーナが嫁ぐ前日、彼女が別れの挨拶に訪れた。

 村人達はイリーナを見てこそこそ噂をしている。

 私は、アレスとイリーナを引き離せれば良かっただけで、別れた後までイリーナが晒し者になることは望んでいない。

 私は村人の視線をさえぎる位置取りで立ち、彼女に話しかける。


「結婚おめでとう。あなたもあんな野蛮な男なんかと噂になっていい迷惑だったわね」


「野蛮ってそんなこと」

「あるわよ」


 イリーナは力なく否定するが、彼女は彼の良いところしか見ていないのだ。

 蹴られたことを思い出して、声に棘が混じってしまったが、何とか表情を取り繕う。


「幸せにね」


 本心と、ほんの少しの嘘を混ぜて、私は微笑んだ。


 

 しかしアレスとイリーナは周囲の反対を押し切り結婚した。



 その八年後、彼らはこの村を離れた。

 下の子が、攫ってきた子だとかアレスが余所で産ませた子だとか噂が立ったせいだ。


 それからもう二十数年、手入れのされてなかったぼろぼろにあばら家が修繕され、数日後一組の家族が引っ越してきた。 


「きれいな人」

「隣の人、奥さんよね?」


 周りの会話はまったく耳に入ってなかった。その光景が30年前の光景を再現しているかのようだった。


 村長と親しげに話していた男性がこちらに向く。


「あなたアレスの息子の……」


 確か息子は二人いたはずだ。血が繋がっていないはずなのに、まるで双子のようによく似た兄弟。


「兄のレイです」




 夫婦と上の子が総出で大量の本やら、薬のビンやらを家に運び入れる。


 さび付いてしまった扉に昔のように鈴をつける。


 下の子が物珍しそうに狭い家の中を見て回る。その側に飼い猫がぴったりくっついている。


 レイ一家のそんな姿を見ながら、黒い薄霞のかかった記憶を掘り起こす。


 発端はあの蹴りだったが、悔しくって腹立たしくて……最初の噂を広めたのは私だ。それはやがて大きな黒いものになり村ぐるみで彼らを追い出したのだ。


「なぜ戻って来る気になったの?」


 当時の彼は六、七歳くらいだったはず。 全部忘れているのか、それとも……わかってなかったか。


「医者が足りないって聞いたから」


 彼は分厚い本を本棚にしまいながら、答える。


「本当は、少し迷いました。子供時分じぶんでもさすがにウチの家が、ちょっと遠巻きに見られていることぐらいはわかりましたから。……それでもここが僕の故郷なんで」


 困ったように、微笑む。


「父からの伝言です。『思い出せなくて悪かった』って言ってました」


 レイからほんの少し色あせた絵本を手渡された。

 一番上の紙にはタイトルと思われる大きな文字と、湖の上を舞う可愛らしい妖精の絵が描かれていた。

 文字を読んだことはない私でもここに書かれているタイトルはわかる。


「孫に……この子達に『湖の妖精』を読み聞かせて、思い出したそうです」


 レイは母親の後ろでこちらの様子を伺っている子供をなでる。

 アレスも息子二人にはよく頭をなでていた。


「お父様は?」

「……二年前に流行病で」


 何を言えば、罪は取り返せるのだろうか。 

 涙で視界がぼやけ、レイの言葉もよく聞き取れなくなる。


 

「本当はもっと早く戻ってくるべきだったのですけれど……」


 10年ほど前に村の医師が亡くなってからは、薬も医師も近隣の村に頼るしかなかった。

 二年前の流行病では、息子を連れて行かれた。


「もしその本を読みたいのでしたら、僕が文字をお教えします」

「人に頼むんじゃなくて、自分で手渡しに来なさいよぉ!」




 数日後--




「え? 何で! 何で生きてるのよ!!」


 私の目の前にいるのは、元気に孫を抱き上げている異様に顔立ちの整ったおじいさんだった。

 私はぎろっとアレスの息子を睨んだ。


「ひどい言われようだな」


 アレスは鋭い声で言う。

 孫にはそれなりに和らいだ表情だったのが、一瞬で氷のように冷たい表情になった。


「こら、威嚇しないの」


 結婚後、髪をばっさり切って、男装していたはずのイリーナは上品な老婦人になっていた。


「いや、あんなに号泣されたら、言えなくて」


 レイが困ったように言う。


「絵本を寄越せ。嫌なことはさっさと終わらせるに限る」


 アレスにすごい目で睨まれて、訳のわからないまま私は、大急ぎで家に本を取りに戻った。

 本を受け取ったアレスは、ぽいっと私の手に本を投げて寄越す。


 疑問符だらけの私に、アレスは相当不機嫌そうな顔で言った。


「手渡ししろと言ったのはそっちだろう」

「今のは、『手渡しした』じゃなくて投げたって言うのよ」

 イリーナが口を挟む。

 

「こんなところまで呼びつけておいて、顔面に投げつけられなかっただけましと思うんだな」

「わざわざ?」


 互いに老齢に差し掛かっている。

 彼がどこに引っ越したかは知らないが、本を渡すためだけに無理してこんなところに来ないだろう。


 彼はそっぽを向いて言った。


「息子の開業祝いのついでだ」 


 アレスは約束を果たしに来た。

 私もやり直さなければいけない。たとえどんなに遅く、無様で取り返しがつかなくても。


「ようこそ。ベイル村へ。私達(・・)はあなたを歓迎します。私はサラ。もし困ったことがあったら、気軽に声をかけて」


 差し出した手を、


「ああ」


 彼は無視することも振り払うこともなく、握り返した。

……ヒロインになり損ねた女。

絵本を読み聞かせて仲良くなる。家系ですね。

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