心の鏡
医者が帰った静かな家の中で、アレスは一人、小窓のカーテンを眺めていました。
カウンターについた染みはもうすっかり乾いています。
明日、イリーナが嫁いでしまうと……
たった5分の時間も永遠に消えてしまいます。
いつかはこの『5分』は終わってしまうとわかっていました。
別に多くを望んでいたわけではありません。
『5分』があれば、それだけで十分だったのです。
先に手放そうとしたのは自分なのに……『5分』が急に惜しく思ったのです。
彼女の姿を思い浮かべようとしますが……
強い生命力を感じさせる鮮やかなオレンジ色の髪しか覚えていません。
「見ることができる目があるのにろくに見なかったツケだな」
自分の心を知るのには短すぎましたし、何かを決断するのには遅すぎました。
☆
「自分の心がわからないの?」
ミクが不思議そうに聞く。
「なんでだと思う?」
「うーん。アレスはイリーナちゃんといるとうれしいんだよね? それで、イリーナちゃんが遠くへいっちゃうのが悲しいんだよね?」
振っといて悪いが、俺だって心理学者じゃない。
「うん。たぶんだけれど、パパからはミクの顔がわかるけれど、ミクは鏡を使わないと自分の顔がわからないだろう? それと同じで自分で自分の心がわからないことがあるんだよ」
ミクは俺の言葉を難しそうに、眉を寄せて真剣に聞く。
「鏡にはイリーナさんを気になる気持ちや女の人を嫌いな気持ちや、毎回話題を用意しなきゃいけないめんどくささとカーテン越しのイリーナさんがどんな表情をしているか想像する喜びと不安と、たぶんまだ訳のわからないたくさんの気持ちが浮かび上がってるんだけれど……昔の銅鏡って鏡知っているよな。博物館で見た奴」
「うん」
一ヶ月前に、家族三人で行った博物館のことを覚えてくれていたようだ。
行きたがってたのは奥さんと俺だけで、娘は遊園地に行きたがってたけれど……
娘は結局、恐竜の骨格標本に張り付いていたけれど。
「あれと同じでな、時間をかけてしっかり磨かないと自分の心が見えないんじゃないかな」
「……うん」
その言葉と共に娘はこてりと寝てしまった。
☆
今夜まだチャンスが残っているなら、あんな別れ方ではなく、彼女の幸せを祝福して別れを告げよう。
アレスが、家の扉を開けるとその先にイリーナが立っていました。
アレスは驚き、反射的に半歩分後ろに下がりました。
イリーナは最後の最後まで半歩分開いた距離を悔しく悲しく見つめているのですが、アレスは彼女の心に気づかずに用意していた言葉を言います。
「結婚おめでとう」
視線をわずかに逸らして、そう伝えるとイリーナは真っ青な顔で首を振ります。
冬が近づく秋の夜は、肌寒く感じます。
「そこじゃ寒いだろう。中に入るか? それとも婚約者が気に食わないから毒薬でも欲しいと?」
「ひどい! 私っ、そんな……頼ま……」
イリーナは距離を一歩二歩詰めて、涙声で訴えながらアレスの胸を叩きます。
「なら、ここに来る必要なんかないだろう」
泣くばかりのイリーナに、彼は目を合わせないまま続けます。
「君が押しかけてきた日々は、面倒ではあったけれど、起伏に富んで……全体を見れば楽しかった。ありがとう」
アレスは息を継ぎ、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返します。
「結婚おめでとう。幸せに」
ちゃんと伝えたいことを伝えたのに、胸の奥のつっかえは取れませんし、イリーナは泣いたまま首を振ります。
イリーナが静かに泣く音だけが聞こえ……
長い沈黙の後、彼はぽつりと呟きます。
「『5分』より、多くのものを欲していたわけじゃない。『5分』だけで十分足りていたんだ」
イリーナが顔を上げます。
「大それたものに手を伸ばすつもりなんて無かった。でも……今、手を伸ばさないとすべて失うのなら、全部掴む」
アレスはイリーナの涙をぬぐってやって、強い決意とわずかな揺らぎを秘めた瞳でイリーナの瞳を見つめます。
「いいか? 『5分』以外何も無くても」
イリーナは次から次へと溢れ出る涙を何度も拭い頷きました。
「『5分』さえあれば、あとは自分で何とかします」
アレスはイリーナの背に恐る恐る手を伸ばしました。




