〝ごめんなさい〟
その日は朝から雨が降っていた。
夜になっても絶え間なく降り続く雨に打たれながら、少年は裏通りを覚束ない足取りで進んでいた。腹からは夥しい量の血が流れ、その小さな手では出血を止めることは叶わない。
逃げなければ。
少年はその一心で重い足を動かし、一歩でも前へ進もうともがく。雨に体力を奪われながらも、少年は頻りに背後を確認するように振り向いていた。そこには裏通りの細い道が雨に沈んでいるだけで、人影は見られない。
追手は来ていないようだ、と少年は安堵のため息をつこうとして、激痛に顔を歪めて歯を食い縛る。それでも少年は重い体に鞭を打って再び歩を進め始めた。
そうして無我夢中で逃げていた少年だったが、やがて限界がやって来た。
膝から力が抜けてよろめき、壁に背中を預ける。手足をだらりと投げ出した少年には、もう傷を押さえる力すらも残っていなかった。
雨に打たれて体が冷たくなっていくのを感じながら、少年は静かに息を吐く。
自分はこのまま死ぬのだろうか。
不思議と死に対する恐怖はなかった。咄嗟に逃げなければと考えて必死に逃げてきたが、考えてみれば命など惜しくはない。自分が死ぬかもしれないと言う現実を、どこか他人事のように考えながら少年はこれまでのことを思い出していた。
両親を知らず、スラムで暮らしていた少年は、生きていくために金を稼がなければならなかった。初めはスラムで身寄りのない子供たちと一緒に、協力して雑用などの仕事をしながら小銭を稼いでいたが、それにも限界はあった。仕事は毎日もらえるわけではなく、十分に食べることができないせいで死んでいく仲間も出てきた。
そこで少年が取った選択は、強盗だった。
毎日稼げるわけではなく危険が伴ったが、雑用をするよりも一回の稼ぎが大きかった。おかげで仲間たちは十分に食べることができるようになった。
しかし、それでも次第に仲間は減り、やがて少年は一人になった。
仲間の為に稼ぐ必要がなくなって、少年は強盗を止めた。代わりにまた仕事を探し始め、そんな折に出会った男から仕事をもらうようになる。
人を襲って金を奪っていた少年は、人を殺し報酬として金をもらうようになった。
今いる場所がどこなのか少年には判断できない。スラムへ戻ろうと逃げてきたが、まだたどり着けそうにないだろうことは感じられた。
男は自分を探しているだろうか。
今日の仕事も男にもらったもので、指定された人物を殺すといういつもと変わらないものだった。しかし、その人物に護衛がついていることを知らなかった少年は返り討ちに遭った。
少年にとって初めての失敗。
暗くなり始めた視界に、少年は男の顔をぼんやりと思い出していた。仕事を終えたことを報告すると男はいつも笑って金をくれたが、自分が仕事を失敗したと知ったらどんな顔をするだろうか。
少年はそんなことを考え、雨が裏通りを打ち付ける音を聞きながら意識を手放した。
目が覚めた時、温かく柔らかい感触を感じて、自分は天国に来てしまったのだろうか、と少年は目を開けた。
眩しさに目を細めて、光から逃れるように顔を背けると、少年は自分が見知らぬ部屋のベッドに寝かされていることを知る。慌てて体を起こそうとし、激痛に顔を歪めて背中を丸めた。腹に心臓ができたようにズキズキと脈打つ傷に手を添えて、じっと痛みが引くのを待つ。やがて痛みが和らいでくると、その傷が手当てされていることに気づいた。
一体誰が手当てをしてくれたんだろう。
部屋には少年の他に誰も居ないようだった。窓からは暖かな陽光が差し込み、少しだけ開けられた窓からそよ風が流れ込んできていた。少年の最後の記憶では雨が降っていたはずだが、窓の外の空はすっきりと晴れ渡っている。
自分はどれだけ寝てしまったのか。
不安に思いながらふと目をやると、枕元に自分の荷物が置かれているのを見つけた。ひったくるように胸元に引き寄せる。まだ湿っているポーチの中を確認し、一緒に置いてあった物を確認した。
それは少年の手には不釣り合いな大きさのナイフだった。少年の大事な仕事道具であり、生きていくために必要な物だ。そして荷物が全て無事なのを確認し、ナイフを胸に抱いて少年はほっと息をつく。
その時、部屋のドアが開いたので、少年はハッとして身構えた。
「あ!」
顔を出した少女と目が合った。くりっとした幼い瞳が少年を見つめ、少年も驚いて硬直したまま少女の瞳を見つめた。
「起きてたのね! 具合はどう?」
言いながら歩み寄って来た少女は、栗色のボブヘアーを揺らして少年の顔を覗き込む。少年は警戒して少し身を引いた。ナイフは毛布の下に隠してあるが、いつでも抜けるように手は添えたままだ。
「覚えてるかな? あなた、私の家の裏に倒れてたのよ。兄に運んでもらって、傷はお医者様に手当てしてもらったの」
少女の言葉を聞いて、少年は今自分が置かれた状況を把握する。
「お医者様がしばらく安静にしているようにって言ってたから、大人しく寝ててね。あ、おなかすいてる?」
少年は戸惑いながら首を横に振った。
目の前の少女は何者なのか。
何が目的で自分を助けたのか。
少年の頭の中で尋ねることのできない疑問が浮かんでは消える。
「そう。おなかがすいたらいつでも言ってね」
そう言って少女は微笑んだ。
男の笑った顔とは違う柔らかな笑顔に、少年は戸惑いを大きくする。
「ほら、ちゃんと寝てなくちゃだめよ」
少女に促され、少年は傷を庇いながら横になった。少女は安心したように微笑んで、ベッドの傍らの椅子に腰かけた。
少年は改めて少女を観察する。同じ年頃に見えるが、落ち着いた挙動から少年より少し大人びて見えた。
もし同い年ならば10代半ばといったところだろうか。
そう思いつつも、少年は自身の正確な年齢を知っているわけではないので、それ自体に確証はなかった。以前、男にそれぐらいに見えると言われたことがあったのでそう思い込んでいる。
少女の栗色のボブヘアーはしっかりブラッシングされているようで艶もあり、上質なワンピースには汚れもない。指先もきれいだった。
住む世界が違う人間だ、と少年は目を逸らした。
「ねぇ、あなた、お名前は?」
その問いかけに、少年は再び少女に目をやる。
「あなたのことなんて呼んだらいいかなって思って」
はにかむように笑う少女に、少年は何と答えるか迷った後、首を横に振った。少女はその意味することが分からないようで首を傾げる。
「教えたくない?」
少年は首を横に振る。
「えっと……名前ない、とか?」
少年はまた首を横に振った。
少女が混乱している様子で首を捻っていると、部屋のドアがノックされた。
「入るよ」
「あ、兄さん」
部屋に入って来たのは少女と同じ栗色の髪をした青年だった。兄と呼ばれたその青年は、二人の元へ歩み寄ると、少年の顔を覗き込んだ。皺ひとつないスーツに身を包んでいて、少女と同じ世界の住人なのだと感じる。
「思ったよりは元気そうだな。裏で見つけた時は死んでるかと思ったが」
笑いながら言う青年に、少年はどう反応していいかわからず困惑していた。
「それで、この子のことは何かわかったか? 名前とか、住んでいる家とか」
青年に問われ、少女は目を伏せた。
「……話してくれないの」
「どういうことだ?」
「わからないけど……」
二人の視線を受けて、少年は気まずく思いながら、自分の喉を指さして首を横に振った。口も開けて何度か開閉させてみせる。それを見た青年が目を見開く。
「もしかして、声が出せないのか?」
少年は頷いた。少女の驚いたような視線が向けられる。
「怪我か? もしくは病気でか?」
少年は首を横に振った。
「じゃあ、生まれつきか?」
少年は頷いた。
「そうか……なら家族は? 心配しているんじゃないのか?」
少年が首を横に振ると、少女と青年は顔を見合わせて黙ってしまった。
何か余計な反応をしてしまっただろうか、と少年が不思議に思っていると、ドアをノックする音が響いた。
「坊ちゃま、お電話です」
「あ、あぁ。今行く」
青年はドアの向こうに返事をして、少女に向いた。
「彼のこと、頼むな」
「うん」
少女が頷いたのを見て青年は微笑むと、足早に部屋を出て行ってしまった。
残された少年と少女はしばし無言のままだったが、やがて少女がためらいがちに口を開いた。
「……声が出せないって、辛くない?」
言われて少年は首を傾げた。
少年は物心ついた時から声を出すことができない体だった。生まれつきなのかどうかは親に聞いてみるしかないが、生憎その親もいない。辛いか、と言われてもこれまでそんなことを考えなかったので、少年はその問いに答えを出せなかった。
少女は悲しげに目を伏せていたが、パッと顔を上げて笑顔を向けた。
「お医者様にお話ししてみたら治せるかもしれないわ! ね? 相談してみましょう」
勢い込む少女に対し、少年は複雑な表情を浮かべ、首を横に振る。
少年は声が出せないことを不便だと感じてはいなかった。仕事をする上で必要なコミュニケーションはボディランゲージで十分事足りていたし、医者にかかれるほど余裕もなかった。
そこで少年は、医者に傷の手当てをしてもらったという少女の言葉を思い出した。徐にポーチを漁り、わずかばかりの硬貨を取り出すと少女に差し出した。医者に診てもらった以上、少なからず金はかかったはずだ。少年の手持ちで足りるかどうかはわからなかったが、助けられた以上何かしらの礼はするべきだろうと考えた。
「え? お金?」
少女は少年の意図がわからないようで目を瞬いて少年の顔を見返した。少年は腹に巻かれた包帯を指さし、もう一度硬貨を差し出す。
「……もしかして、お医者様に診てもらったお金ってこと?」
少年が頷くと、少女は苦笑して硬貨を少年の手に握らせた。
「お金はいいわ」
少年は怪訝そうに少女を見た。
「気持ちだけで十分よ。それより、早く良くなってね」
それだけ家が裕福なのか、または少年の身なりを見て気を遣ったのか。
笑顔で言う少女に、少年は呆然と自らの手に戻された硬貨を見つめていた。
「ところで、その傷が誰かに襲われたものなら警察に話をしてみた方がいいかもって、お医者様が言っていたわ。あなたが起きたら聞いてみなさいって言われたんだけど、どうする?」
少女のその提案を少年は拒んだ。
警察がスラムに住む人間でしかも声が出せない少年を真っ当に扱ってくれるとは思えなかった。下手をしたら少年が逮捕されかねない。
「そう……本当にいいの?」
不安そうな少女の瞳から目を逸らして、少年は頷く。
「……ねぇ、さっき家族のこと聞いたけど……気を悪くしたらごめんなさい。家族はいないの?」
少年は頷いた。
「じゃあ、帰る家は?」
少年は少し考える素振りを見せて曖昧に頷く。
男の元が帰る場所と言えるのかどうかは少年にもわからなかった。
黙り込んでしまった少女を横目に少年は毛布の下に隠したナイフをそっと撫でる。少女に敵意があれば迷いなく抜く気でいたが、そんな素振りは欠片も見られず少年は結局動けずにいた。
本当に少女は何が目的で自分を助けたのだろうか。
金が目的かと思ったが、渡そうとした硬貨は少年の手に戻ってきている。見返りを求めずに他人を助けて何か得があるのだろうか、と少年は眉根を寄せて少女を見た。
その時、
「そうだわ!」
と、少女が声を上げてポンと手を叩いた。少年が驚いて目を瞬いていると、少女はベッドに身を乗り出して、
「あなた、文字は書ける?」
突然の問いかけに少年は戸惑いながらも首を横に振った。スラムで育った少年には教育を受ける余裕がなく、文字の読み書きはできない。
「そう……ねぇ、文字の読み書きができれば、もっとお話ができるわ! 私が教えてあげる! 怪我が治るまでここにいてもいいから、少しずつ勉強していきましょう」
勢い込む少女に、なぜそんなことをするのか、と少年は思ったが尋ねることはできない。
目の前できらきらと微笑んでいる少女は本当に同じ人間なのだろうか、と少年は真剣に考え始めていた。
そのまま半ば強引に文字を教えられることになり、少年は諦めて大人しく少女の授業を受けることにした。どの道、傷が治るまでは一人で歩くことすらできない。
初めの内は安静にしていたが、少年がまともに食事をとれるようになった頃に、少女の授業が始まった。
真っ白な紙と真新しいペンを渡され、まずはペンの持ち方から始まり、試しに紙に適当な線を引いた。これまでペンなど持ったことがなかった少年にはペンの正しい持ち方ができるまでに相当の時間を要した。いざ紙にペンを走らせる段階でも、緊張したせいでよれよれの線を描く結果となった。
それでも少女は笑顔を崩さず、根気よく少年に教え続けた。
やがて少年がペンに慣れた頃に、少女は一枚の紙を取り出した。その紙には、整然と文字が並んでいて、少年は目を瞬く。
「文字をみたことはある?」
少年は頷いたが、目の前に並ぶ文字の数に驚きを隠せなかった。その様子を見て、少女は尋ねる。
「こんなにたくさんあるのは知らなかった?」
少年は素直に頷いた。
今まで少年が見たことのある文字は、街中の看板に使われている物がせいぜいで、実際に世の中に出回っている文字がどれだけあるのか、少年は考えたことすらなかった。
「一度に覚える必要はないから、ゆっくり覚えていきましょう」
少女は微笑んで、最初の文字列を指さした。
「まずはここだけね。見ながらでいいからその紙に真似して書いてみて」
言われるまま、少年はペンを走らせる。一通り書き終えて改めてみてみると、見本には到底及ばない歪んだ文字がデコボコと並んでいて、少年は首を捻った。
見本通りに書いているつもりなのになぜこんなに歪んでしまうのか。
そんなことに頭を悩ませながら、少年は再びペンを走らせ始めた。
そうして数日練習を重ねた結果、それなりの形にできたようで少女が次のステップへと授業を進めた。簡単な物の名前に加え、おなかがすいたや眠いなどの単語を教えてもらい、紙に書き写すという作業を続けていった。
一通り書き終えると、少女がペンを握り紙に何かを書いて少年に渡した。紙を受け取った少年は、それに視線を落とす。そこには見たことのない単語が一つ書かれていた。尋ねるように少女を見ると、少女は微笑んでその単語を指し、次に少女自身を指した。
「私の名前、アルマ」
少年は再び単語に目を向ける。耳に入って来た音と文字を重ね合わせて、頭の中で反芻する。
「ね、あなたの名前も書いてみて」
期待の眼差しを向ける少女に少年は頷いて、少女の名前の下にペンを走らせる。
「クルトっていうの?」
紙を受け取った少女が読み上げた音が正しいのを確認して頷いた。すると、少女はパッと目を輝かせて嬉しそうに微笑む。
「やっとあなたの名前が聞けたわ!」
そこまで喜ぶことなのだろうか、と少年はその眩い笑顔を見て困惑していた。
久しぶりに呼ばれた自分の名前に、少年は特に感慨を抱かなかった。元々少年の名前を知る人間は限られていて、呼ばれること自体希なことだった。自分の名前であるという意識すら薄く、少年には名前一つでこんなにも喜ぶ少女の心境がまったく理解できなかった。
「入るよ」
声が割り込んできてドアが開くと、青年が顔を覗かせた。
「あ、兄さん。もうお仕事終わったの?」
「いや、また出ていかないといけないんだ。今は荷物を取りに戻った」
「そうなの……あ! 兄さん、この子の名前がわかったわ!」
少女は手に持っていた紙を青年に差し出す。
「クルトっていうのか」
「うん!」
「そうか、よかったな」
青年は目を細めて少女の頭を撫でた。微笑ましいその光景を別世界の出来事のように見つめていた少年は、本当に名前を教えてもよかったのだろうかと考える。
少年の名前と仕事を知っているのは、スラムの中でもあの男と交友がある極一部に限られるが、それでもどこから少年の情報が流れるかはわからない。場合によっては、男にも危害が及ぶことが考えられる。そのことに思い当たって、少年は不安になった。
これまで、情報について男が少年に注意したことはなかった。そもそも、少年は声も出せなければ読み書きもできなかったのだからいらぬ心配だったのだが。
気を抜きすぎていたのかもしれない、と不用意に名前を教えてしまったことを少し後悔しながら、談笑する二人を横目に少年はそっとナイフに触れる。
不都合なら消せばいい。
今までなら何のためらいもなくそう考えられたはずだが、今の少年には何か引っかかるものがあった。それが何なのかわからないまま、少年は青年が部屋を出て行くのを横目で見送った。
少女に文字を教わりながら療養していた少年も、自力で立ち上がることができる程に回復していた。ゆっくりだが歩くこともできるようになり、少女は少年の手を引きながらリハビリだと言って広い屋敷を案内した。立派な花壇の設けられた広大な庭を、ゆっくり散歩することが二人の日課になっていた。
外の様子や少女の話から、この屋敷は富裕層が住む閑静な住宅街の中にあり、あの日自分はスラムと逆方向に逃げてきてしまったのだ、と少年は理解した。
まだ傷が痛むものの耐えられないほどではなく、少女に手を引いてもらわなくても歩けるようになっていたので、少年はそろそろスラムへ帰ろうと考えていた。男の元へ戻ってもまた仕事をもらえるかはわからなかったが、それでもこのまま少女の世話になるつもりはなかった。
そのことを少女に伝えるべきか迷っていたある日、少年は少女の自室へ案内された。
「親戚の叔母様からお菓子をもらったから、クルトも一緒にどうかなって」
言いながらテーブルにティーセットを並べている少女はとても楽しそうに笑った。少年は大人しく椅子に座って目の前に並べられていく食器を眺めてから、部屋の中へ視線を移した。
少女の部屋に入ったのはこの日が初めてだった。部屋には机と本棚、小さな食器棚にクローゼットとベッドが置かれていて、部屋の中央には今少年が座っている椅子とテーブルがある。大きな窓にはレースのカーテンがかかっていて、柔らかな光が部屋に差し込んできていた。
「紅茶に砂糖はいる?」
少年が首を横に振ると、少女はティーカップに紅茶を注いだ。少年の鼻に芳しい香りが届く。
「このクッキー、叔母様が趣味で作っているんだけどとてもおいしいの。紅茶によく合うのよ」
言ってクッキーを一枚取って少年に差し出した。大人しくそれを受け取って、少年は遠慮がちに口に運ぶ。サクッとした食感と溶けるような甘さが広がり、少年は咄嗟にテーブルの隅に置いてあったペンを取り、紙に〝おいしい〟と書いて少女に差し出した。それを見て、
「お口に合ったならよかったわ」
と嬉しそうに微笑み、クッキーを一枚口に運ぶ。少年は紅茶の入ったカップをそっと持ち上げて口をつけた。香りと渋みをじっくりと味わう。この家に来て初めて紅茶を飲んだ少年だが、独特な香りや渋みに最初は戸惑ったものの、最近では慣れてきていた。
「本当に砂糖は大丈夫?」
少年が頷くと、少女は感心したように少年を見つめる。
「クルトは大人ね。私はしばらく砂糖をたくさん入れないと紅茶を飲めなかったわ」
少年が首を傾げると少女は少し恥ずかしそうに笑った。
「甘くないとおいしいって思えなくて。でも今はそんなことないのよ」
言うとおり、少女のカップには砂糖が入れられていなかった。なぜ砂糖を使わなければ大人であると言えるのか少年にはわからなかったが、何も聞かずにもう一枚クッキーを手に取った。
しばらく他愛のない話をしながら時間を過ごしていた二人だが、少年がふと机の上に飾られていた写真立てに目を向けた。写真には笑顔を浮かべた初老の男女が並んで写っている。少女がそれに気づいて席を立ち、写真立てを持って戻って来た。
「これ、私の両親なの」
差し出された写真立てを受け取って、少年はじっと写真を見つめた。
「二人とも、もう死んでしまっていないんだけど」
写真立てを持つ自分の手が震えていることに少年は気づかない。
「クルトの両親は? 聞いていいかわからなくてずっと聞きそびれていたんだけど」
少年はペンを持つと紙に答えを書いた。
「……〝いない〟って?」
紙を覗いた少女が呟くと、少年は更にペンを走らせた。
「〝知らない〟……両親に会ったことないの?」
少年は頷いた。
「……ごめんなさい、私……辛いことを聞いてしまったわ」
目を伏せて言う少女に、少年は少し考え込んでペンを走らせ、その紙を少女に突き出した。
「〝いないのは当たり前だから謝らなくてもいい〟……そう、クルトにとっては当たり前のことなのね……」
少女は少年に紙を返すと、入れ替わりに写真立てを受け取った。
「私、両親が死んでからずっと塞ぎこんでいたの。兄にも迷惑をかけてしまったけれど今は普通に笑ったりできるようになったわ。でも、まだ時々寂しいとか辛いって思ってしまうの」
少女は写真をぎゅっと胸に抱く。
「クルトは強いのね。当たり前だなんて思えるくらいに……私もいつかそう思えるようになるのかしら」
悲しそうに目を伏せる少女に少年は何と答えていいかわからず、しばし考えてペンを走らせるとその紙を突き出す。
「〝大丈夫〟……そうね、クルトがそう言ってくれるなら、大丈夫ね」
言って少女は笑った。
その笑顔に少年は安堵する。そして無意識に安堵した自分自身に、少年は首を傾げた。
なぜ、少女の笑顔でこんなにも安心感を抱いたのか。
「どうしたの?」
少女の問いかけに、少年は〝なんでもない〟と答えて、クッキーを頬張った。
その日の夜は、なかなか寝付けなかった。
少年はベッドの中で窓に視線を向けたままじっとしていた。窓から月明かりが差し込んで、そんな少年を照らす。毛布を深く被って、少年は少女の部屋でのことを思い出していた。
少年は、初めて疑問を抱く。
これまで自分がしてきた仕事で、一体何人の人を悲しませただろうか。
少女に会うまで、少年の世界はとても狭いものだった。世界の外にどんな人がいて、どんなことを考えているのか、少年には知る由もなかった。
しかし、少女のあの悲しそうな顔を目にしてどこかがチクリと痛んだのを少年は感じていた。
それが何なのか、少年にはわからない。
ただわかるのは、少女には笑っていてほしいということ。
そして、自分の存在が少女の笑顔を曇らせてしまうこと。
少女からもらった温もりを失うかもしれない恐怖を感じ、そのことに戸惑いながらも少年は考える。
これ以上、ここにいるわけにはいかない。
幸い、傷も治りかけている。ここからスラムまで距離はあるが、帰れない程ではない。少年は決心して、ベッドから起き上がろうとした。
部屋のドアが音もなく開いたのは、ちょうどその時だった。
少年は体を硬直させて、背後の気配を窺う。家人は皆寝ているはずの時間で、もちろん少女がここに来るはずもない。もし少女であるなら声をかけるぐらいのことはするはずだが、ベッドに近づいてくる人物は足音を殺して近寄ってきているようだった。
久しぶりに感じるピリピリとした感覚が少年の神経を尖らせた。知らず、掌に汗が滲む。
背後で鋭い殺気が膨れ上がった瞬間、少年はベッドから跳ね起きて床に転がった。
先程まで寝ていたベッドにナイフが突き立てられたのを、少年の目がはっきりと捉えた。月明かりを反射して光る刃を見て、そこに立っていた人物に目を向ける。
「……起きていたのか」
その人物は震える声でそう呟いた。
少年は身構えて相手を観察する。
そのナイフはどうやら果物ナイフらしい。それを持つ相手の手は震えていた。切っ先を向けるその姿勢も隙だらけで、少年は少し力を抜く。
相手はどう見ても素人だ、と少年は判断した。
次に部屋の中に視線を巡らせる。
今、窓を背に立つ少年は相手とベッドを挟んで向かい合っている。少年のナイフは、相手の背後にあるテーブルの上に置いたままだった。
「お前のことを、調べた」
重い声が少年の耳に入る。
「思っていたよりあっさりわかった……お前がどこの誰なのか」
少年の肩がピクリと震えた。
「両親を殺した奴が、よくここに居座れたものだな」
知られたことに少年は戸惑いながら、やはり名前を教えるべきではなかったと後悔した。
「妹も殺すつもりだったのか? あの子の優しさを、利用したのか!?」
叫んで掴みかかって来た青年の手をかわし、少年はテーブルの上のナイフに手を伸ばす。しかし、背後から肩を掴まれた少年は、テーブルを巻き込んで床に押し倒された。
背中を打ち付け、一瞬息が詰まる。馬乗りになった青年は少年の首に両手をかけた。ギリギリとしめあげられ、少年は必死にもがく。しかし、体格差のある相手に乗られていては、抜け出すことができなかった。
息苦しさと頭に血がのぼる感覚。
だんだんと視界が暗くなっていく中で、少年は死を意識した。
死にたくない。
仕事に失敗した時には感じなかった死への恐怖を、少年は感じていた。
死にたくない一心でもがく少年の手に、覚えのある感触があった。
考える前に手が動いていた。
少年は無我夢中でそれを掴み取り、青年に向けて一閃した。
一瞬の間があって、青年の首から夥しい量の血が噴き出す。首にかけられた手から力が抜けたのを感じて、少年は青年の下から這い出した。
咳き込みながら必死に呼吸を繰り返し、視界がはっきりしてきたところで青年を振り返った。
うつ伏せに倒れている青年の首を中心に、真っ赤な血だまりが広がっている。
「……っ……がっ……」
何か言おうとして口から血を溢れさせている姿を見て、どうやら彼の喉を切り裂いたらしい、と判断する。
血まみれのナイフを持つ自分の手を見下ろす。
刃に映った自分の姿は、血を被って赤黒く染まっていた。
「こ……のっ…………し……!」
青年が血を吐きながら何か言ったのを、少年の耳が捉えた。
近づいて傍にしゃがみ、耳を傾ける。
「……この……人殺し……!」
青年はそう言ったきり、動かなくなった。
時折痙攣を繰り返していたが、やがてそれもなくなり、瞳からゆっくりと光が失われていった。
憎々しげに見開かれた虚ろな両目が、少年を睨んでいる。
物言わぬ屍となった青年を、少年は冷めた目で見つめていた。
殺されそうになったから殺しただけだ。
頭の中でそう繰り返す。
しかし、少女の大切な人をまた奪ってしまった、という罪悪感で少年の目が揺らいだ。
少年の脳裏に過去の光景が思い浮かぶ。
一年前、名前も知らない男から受けた仕事。
指定された時間に、指定された場所に来た人物を二人、殺せと依頼された。
理由は聞かなかった。
聞く手段を、少年は持っていなかった。
言われたとおりに言われた仕事をした。
報酬も受け取り、それで食い繋ぐことができた。
ただ、それだけのことだった。
だから、少年は今まで忘れていた。
あの時、ナイフで心臓を刺した男の顔を。
倒れた男に泣きながら縋りつき、すでに死んでいる男を殺さないでくれと懇願した女の顔を。
少年はあの時殺した二人の顔を再び目にし、記憶を掘り起こされた。
少女の手に大事そうに抱かれていた、一枚の写真によって。
床で絶命している青年を見下ろして、少年は不安を覚える。
少女がもし、自分が両親を殺した犯人だと知ったら、青年のように自分を殺そうとするのだろうか。
もう、あの笑顔を向けてくれることはないのだろうか。
「兄さん?」
その声が耳に入って来たと同時に部屋のドアが開き、少女が顔を出した。
物音に目を覚ましたのか、目を擦りながら部屋に入ってきて、その足が青年の体に触れた。
少女は足元に倒れている青年を見下ろし、ゆっくりと顔を上げて少年を見つめ、再び視線を落とした。
部屋の惨状を目にした少女は、一瞬で眠気が飛んだようだった。
「兄さん……兄さん!」
青年の亡骸にすがりついて必死に呼びかけるが、当然それに答えることはない。
死体に顔を埋めて泣いていた少女は、不意に顔を上げて少年を見上げた。
返り血を浴び、血が滴るナイフを持って立ち尽くしている少年を。
「……どうして……なんで、ねぇ……どうして……!」
少年はじっと動かずに少女を見下ろす。
「返して……兄さんを、返してよ!」
その悲痛な叫びに、少年は無意識に肩を強張らせる。
「……人殺し……人殺しぃ!」
先程の青年と同じ言葉をぶつけられ、少女の顔に青年の顔が重なった。
自分を睨む、憎悪に満ちた表情と射殺そうとするような瞳。
その瞳に貫かれながら、少年はナイフを持ち直す。
もう彼女は自分に笑顔を向けてくれることはないのだろう。
少年はそう諦めてナイフを握ると、体が動くのに任せて目の前の体を切り裂いた。
二つの屍を前に、少年は呆然と立ち尽くす。
ナイフを握った手が震えているのに気づかないまま、少年は屍の傍らに膝をつき、少女の頬を撫でた。
少年に笑顔を向けてくれたその少女はもう動くことはない。わかっていても、名残惜しそうに少年の手は少女の頬を撫で続ける。
少年に温もりを教えてくれた少女からは、もう温かさは失われていた。
少年は声が出ないことも構わずに叫んだ。
その口からは空気が漏れるだけで、音が紡がれることはなかった。
それでも胸の内から湧き上がる衝動に叫び続けた。
少女を手にかけたその瞬間、少年の中で何かが壊れてしまった。
それが何であるのかもわからないまま、少年は手に持ったナイフを自らの喉に突き刺した。
喉に刃が食い込む感覚を感じながら、痛みに意識が飛びかけて、少年の体から力が抜ける。
少女の隣に倒れた少年は、自らの体から流れ出た血が少女の血だまりに混ざっていくのをぼんやりと眺め、無意識に手を伸ばしていた。
血だまりに指を沈め、少女に教えてもらった言葉を血で紡ぐ。
霞み始めた視界に少年は力を抜いて目を閉じた。
瞼の裏に少女の笑顔を思い浮かべながら、少年は眠りにつく。
傍らに添えられた言葉は、一言だけだった。
2012.07 執筆
2013.07 修正