第二話 前哨戦がありました。その2
東軍の福島正則と池田輝政始めとする
主力の大名たちは、岐阜城をはじめとする美濃の
西軍方の城を落とすことに決めた。
福束城、高須城、駒野城、津屋城と次々と陥落させ、
石田三成が援軍を出した竹鼻城までもが、
東軍 福島正則らの猛攻により一日で陥落。
そのような状況下で岐阜城では、軍評定が行われ、
城主 織田秀信の決断により木曽川にて迎え撃つと決まった。
織田秀信(三法師)は世継ぎ内乱の時、織田信長の後継者として
秀吉に囲われていた方です。
(岐阜城攻防戦)
木曽川で待ち構えていた織田勢は、
渡河してくる福島軍 池田軍に対し、
一斉射撃で応戦するも、数で圧倒され、
後退 後退。
織田の諸将が健闘し、一時を抑えるも、
東軍の猛攻に耐え切れず、
これまた後退 後退 後退。
織田秀信は岐阜城で籠城を選び
石田三成からの援軍を待ちますが
次の日には、福島正則の猛攻により
あっさり陥落します。
堅城の要塞として知られていた岐阜城で
したが岐阜城は色んな武将に使われていたため
お城の内部や弱点が知れ渡っていました。
織田秀信は福島正則に助命を願い出た為
断髪して出家 高野山へ。
彼はここで短い生涯を迎えます。
ミッチーの戦略がまた外れてしまったわけです。
まぁ世の中そんなに、思いで通りいかないよ。
僕が現代にいるころは毎日そうでしたよ。
宝くじ買わなきゃよかった・・・
◇◇◇
僕は関ヶ原近くの大垣城に入り関ヶ原の戦いに備え
西軍の武将さん達と合流していた。
九州から来た 島津義弘が
軍勢200名だったのを見てミッチーは
たったこれぽっちの人数かよと怪訝そうな顔した。
それを読み取った老将 島津義弘66歳
はふかぶかと頭をたれた。
「いや、申し訳ない、うちの馬鹿文官ごときが失礼な態度を
とりました島津家、島津義弘は織田信長様を穿ちぬけで追い払った
名将でございます。ぜひ関ヶ原の地ではいの一番に先陣を
きって頂きとうございます。」
「島津家ばそこまで、高こう評価して頂くとは至極感動いたしまいたぞ!」
(よしやる気だしてくれたぞぉおおー!!
僕の中で西軍で一番の戦力とみなしているのは
島津軍である石田三成はたった200ぽっちの
軍勢だと見下してしまったのが関ヶ原の敗因のひとつである)
ぼくは知っている敵中突破の伝説を、
この関ヶ原の戦いを左右する
ひとつの原動力だと思っている。
僕は関ヶ原の戦いの戦略を立て始めた。
島津軍はその後、援軍が到着1500名となった。
◇◇◇
【敵中突破】島津の退き口
関ヶ原の戦いで小早川軍の裏切りによって
敗戦濃厚となった西軍と島津軍は戦場まっただ中
に軍勢1000名が取り残されてしまします。
そこで家臣が
「殿は島津家にはなくてはならぬ御方。ここで討死されては御家の為になりませぬ。私が殿に代わってその役を相務めさせていただきます」
と身代りに死ぬと言います。
しかし島津義弘は、
「それはよくわかっておる。しかし譜代の臣数百人が討死し、戦い疲れた小勢にてどうやって遠く薩摩まで敵地を通過して帰り着けようか。追い付かれて見苦しい死に方をするより、大敵に当たって玉砕しようぞ」
と敵陣の中央無尽に、強行突撃をするのです。
敵中突破の激しさをみた猛将 福島正則でさえ二の足を踏み、
子の正之も家臣が
「死に狂いする敵に戦はせぬもの」と言い押しとどめられた。