第五話 散りました。
僕が北陸地方の戦国大名へ救援を求めに旅立っているころ、
くノ一より伝達が入った。
僕の御屋敷に何者かが進入、火を放たれ全焼したらしい。
(菊姫ちゃんを本多忠勝お兄様のもとに送っておいて良かった)
僕はほっと胸をなでおろした。いやまてよ!
「竹千代は大丈夫なのか!」
「石田三成様を先導に脱出をはかりましたが、捕縛されたとの目撃情報が。」
「なんと!・・・・」
僕の息子、竹千代が人質として捕まったらしい。
柴田勝家の柴田派、羽柴秀吉の秀吉派どちらかの武将の手によるものだろう。
「他に情報はないのか!」
「申し訳ございませぬ。殿の大事なお子様を守れませんでした}
「・・・・・」
僕は誰かに息子を誘拐された。
僕は唇をかみ拳を強く握りしめ、目に涙をためてぐっと耐えた。
くノ一に八つ当たりしても
起きしまった事は仕方がない。
必ずどちらかの陣営より連絡がくるだろう。
□ □ □
僕は使者を待ったが連絡は入らなかった。
柴田勝家が羽柴秀吉に和議を申込為(戦争を停止する約束)、前田利家を使者として送った。
これが戦いを左右する事になろうとは
前田利家は秀吉さんと若き頃より親交があり、また柴田勝家にも恩義もあり
大変苦しんだそうです。
1月に柴田勝家の陣営が秀吉に反撃の狼煙を上げた。
柴田勝家を支持する 滝川一益 が進攻を開始し、
伊勢地方の秀吉さんのお城を次々と落城させていった。
2月に羽柴秀吉も反撃を開始、滝川一益に
落城されたお城を次々と奪還していった。
柴田勝家が北陸地方から雪がまだ溶けていないなか出陣!
織田信孝も三度、美濃地方より挙兵します。
両者の対決の日は刻一刻とせまっていた。
□ □ □
4月 賊ヶ岳の戦い
琵琶湖の北にある 賤ヶ岳の大岩山で羽柴秀吉は砦を築城して
北陸から進軍してきた柴田勝家の軍と真向に向かいあいます。
両軍は動かなくなった。
前田利家と織田信孝と滝川一益の軍が柴田勝家の軍と合流した。
戦況は数で勝る柴田勝家の軍が有利であった。
柴田軍の佐久間盛政が大岩山砦を猛攻撃により秀吉軍は崩壊、
中川清秀が討ち死に羽柴秀長が敗走します。
大勝利に気をよくした、佐久間盛政は柴田勝家の後退するよう伝令を
送りますが応じず、逆に柴田勝家の軍に進軍するよう求めます。
大岩山を制圧してそこに居座ってしまいます。
その間、前田利家は茂山砦に陣を敷いています。
大岩山砦を占拠された秀吉は「我、勝てり」と答えたと
伝えられています。
秀吉はあらかじめ大岩山砦が陥落することを予想して
大岩山へ大軍を送る為の、道路を整備していたのです。
道の脇には松明を並べ夜軍侵攻できる上、道中の各所に
水や食料を用意しておいてました。
通常、大岩山砦まで数日かかる道を秀吉の軍勢はわずか7時間で進軍します。
突然、現れた秀吉軍に佐久間盛政は敗走。
羽柴秀吉は逃げ遅れた柴田勝政へ総攻撃開始され、佐久間盛政も
反撃に試みますが、勢いは秀吉軍にありました。
この時、前田利家が中立の立場をとり戦線を離脱。
柴田軍は崩壊状態となりました。7000人以上いた柴田軍は
1日で半分以上の兵が脱走して3000人になったといいます。
このような前田利家の行動は「裏切ったものしか思えない」
と周り武将たちから言われましたが
柴田勝家は
「利家殿はもともと秀吉と親しい間柄であるから、
将来は和平して回復し、家の安泰を図られるがいい」と助言して去ったという。
重要な持ち場を任せられながら敵前逃亡した前田利家を許し
前田利家の人質も無傷で返したという。
柴田勝家軍が秀吉軍と戦闘を開始しましたが
敗走だらけの軍に指揮力もなく北の庄城に退却します。
そして城を包囲している秀吉軍が呆れかえるほど
城の中で大宴会を行った後、城に火を放ち、自害しました。
柴田勝家が自害したことにより、滝川一益、織田信孝が
秀吉に降伏しました。
そして、織田信孝は秀吉と織田信雄を通し自害を求められ切腹させられます。
信長様の後継者争いは一旦収束したかのようにみえました。
◻◻◻
鬼柴田の異名をとる柴田勝家の最後はこのように伝えられています。
城内で酒宴を行った後、信長様の妹、お市の方の子供、茶々、初、江を
場外へ脱出させ、お市の方様を殺し、自らも腹を切り、五臓六腑を
出してから介錯(首を切ってもらう)したそうです。
お市の方の句に対する辞世の句
「夏の世の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
夏の夜のように短く、はかない人生であった、山ほととぎすよ
私の名が後世に語り継がれるように雲の上まで運んで欲しい。