第3話 援軍が間に合いませんでした。
関ヶ原の地に到着した東軍総大将・徳川家康は、
苛立ちを隠そうともしていなかった。
霧に包まれた陣中。
太鼓の音だけが、湿った空気を震わせている。
「……おせえな」
家康は、低く唸った。
「秀忠の軍勢、三万八千。
とっくに合流しておる刻じゃろうが」
側近たちは顔を伏せる。
「おい、使者はどうした。 まだ戻らんのか?」
「はっ……申し上げます」
若い使番が、恐る恐る前へ出る。
「昨夜より雨が激しく、
神川が増水。
道が寸断され、使者の到着が――」
「言い訳はええ!」
家康の声が、陣中に響いた。
「雨で遅れるなど、戦では日常茶飯事じゃ。
それを見越して動くのが将じゃろうが!」
拳が机を叩く。
「秀忠め…… あやつ、また考えすぎておるな」
◇◇◇
【第二次上田合戦】
その頃――
徳川秀忠の三万八千は、上田城を前に足を止めていた。
「父上の本陣に遅れるわけにはいかぬ。
一気に叩くぞ」
短期決戦。
城下の稲を刈り取る。
「兵糧を断てば、真田も動かざるを得まい」
――狙い通りだった。
城門が開き、
真田の兵が飛び出す。
「今じゃ!」
本多忠政(忠勝の子)の号令。
伏兵が一斉に襲いかかり、
真田勢は崩れた。
「勝ったぞ! 追えぇ!」
徳川の先陣は、勢いのまま上田城の大手門へ――
その瞬間。
――ギギィ……。
門が、開いた。
「なっ――」
次の瞬間、
轟音。
鉄砲、鉄砲、鉄砲。
門内から、
城内から、
雨のように鉛が降り注ぐ。
「ひ、退けぇ!」
だが遅い。
追撃隊は本隊と分断され、
逃げる兵と進む兵が正面衝突。
そこへ――
「今じゃ! 出よぉおお!」
真田昌幸の声。
赤備えが突撃し、
徳川勢は完全に瓦解した。
さらに――夜。
秀忠の本陣。
「……何の音じゃ?」
闇の中、
突如、火花。
ドンッ!
鉄砲隊の一斉射。
「敵襲! 敵襲ぃ!」
真田の忍びが、
本陣に雪崩れ込む。
「殿! 馬を!」
家臣が秀忠を押し出す。
命からがら、小諸へ。
そして、最後の罠。
神川上流。
堤防。
合図と同時に、決壊。
濁流が、
人も馬も、
旗も鎧も、
すべてを呑み込んだ。
わずか一日。
第二次上田合戦は、
真田の完勝で終わった。
秀忠は、押さえの兵だけ残し、
関ヶ原へ急ぐ。
だが、間に合わなかった。
◇◇◇
この惨状は、こう記されている。
「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」
徳川家の、最大級の失態だった。
関ヶ原。
家康は、歯を食いしばっていた。
「……あやつ」
「三日じゃ。 三日は、顔も見とうない」
夜。
家康は、側近中の側近
本多忠勝を呼び出した。
「忠勝よ」
「はっ」
「大垣城…… どう思う?」
忠勝は、腕を組む。
「殿、
あそこは川と沼に囲まれとるでな。
正面攻めは骨が折れますわ」
「水攻めはどうじゃ」
「出来んことはないが……
日にちをかけるのは、まずいですな」
「なぜじゃ」
「毛利輝元が動きよる。 福島も黒田も、中田も」
家康は、目を細める。
「……じゃが、
吉川広家には話をつけたでな」
「へえ」
「毛利の兵は、動かさせん。
その代わり、所領は安堵する」
忠勝は、にやりと笑った。
「さすが殿。
あの男、
“見えん戦”なら動かん男ですわ」
「見えん戦……?」
「関ヶ原です」
家康は、しばし沈黙。
「……中田玄白の陣じゃぞ」
「分かっとります」
忠勝は、低く声を落とす。
「じゃが、 敵の腹の中に、
燻りを仕込んどりますで」
「燻り……?」
「小早川秀秋殿ですわ」
家康は、眉をひそめる。
「あの小僧…… 本当に裏切るか?」
「小さな火でも、
風が吹けば山を焼きます」
「……もし裏切らなんだら?」
忠勝は、はっきり言った。
「その時は、 殿も危うい」
沈黙。
やがて家康は、深く息を吐いた。
「……賭けじゃな」
「はい」
「疑心暗鬼か……相手も、こちらも」
家康は立ち上がった。
「行くぞ、忠勝」
「関ヶ原へ出陣じゃ」
陣太鼓が、鳴り響く。
霧の向こうで、
天下分け目の戦が、静かに、動き出した。
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【疑心暗鬼】
「疑心」は疑う心。「暗鬼」は暗闇の中の亡霊の意味
疑いの心があると、なんでもないことでも怖いと思ったり、
いもしない暗闇の亡霊が目に浮かんでくる
疑いの深さから、いらぬ妄想にとりつかれる仏教用語




