第9話 お寺を焼きました。
比叡山焼き討ち直前
夜。
比叡の山影が、闇に沈んどる。
松明の火が、風に揺れとる。
無数の兵の息遣い、鎧の軋む音。
山の上からは、読経の声が、かすかに流れてくる。
信長は、馬上で空を見とった。
「……笑えるわ」
誰に言うでもなく、呟く。
「仏や、救いや言うとるが、 その口で何人殺してきた?」
鼻で笑う。
「浅井をそそのかし、 一向宗に火つけ、都を裏から操っとるくせに」
拳を握る。
「わしはな、 神も仏も敵に回す覚悟で、ここまで来たんじゃ」
低く、尾張の訛りが滲む。
「中途半端が一番いかん」
「情けを残せば、 また刃を向けてくる」
一瞬、妹の顔が脳裏をよぎる。
「……市」
歯を食いしばる。
「お前が選ばんかった道を、 わしは進むだけじゃ」
視線を山へ。
「坊主も、女も、子供も、 “比叡”を名乗るなら同罪じゃ」
吐き捨てる。
「泣こうが喚こうが、 仏が助けに来るか、試してみろ」
太刀に手をかける。
「焼け」
短く、冷たい命令。
「山ごと、過去ごと、 きれいさっぱり、燃やせ」
比叡の山は、この日が初めて燃えたわけではなかった。
すでにこの山は、将軍・足利義教の時代に一度、
管領・細川政元の時代にもう一度、
武家と衝突し、炎を経験している。
祈りの山でありながら、槍を持ち、甲冑を着け、
政治に介入し、敵を選び、味方を売った。
仏の名を掲げた、武装集団としての比叡山。
それが、この時代の延暦寺だった。
比叡山に火は、放たれた。
選ばれたのは、政治に深く関与していた坊、
僧兵の詰め所、訴訟と武力の拠点となっていた施設だった。
夜。
松明が地に置かれる。
風がひと息、山をなぞる。
乾いた古木が、きしりと鳴いた。
「……火、か?」
誰かが呟く。
「待て、まだだ。話せば分かるはずだ」
「分かる? 誰が? あの織田にか?」
松明が倒れ、
油を含んだ梁が、低く唸る。
ぱち、という音が、
次の瞬間、連なった。
「やめよ! ここは仏の山だぞ!」
「仏? ならば、なぜ槍を持つ!」
「黙れ! 山を下りれば斬られる!」
堂の内、
経巻を抱えて走る僧が転ぶ。
「経を! せめて経を持て!」
「無理だ、煙で……見えん!」
煙が広がる。
咳が重なり、声が割れる。
「逃げろ! 谷へ!」
「待て、老僧がまだ中だ!」
「戻るな! 戻れば死ぬ!」
火は、選り分ける。
逃げ道を知る者は走り、
知らぬ者は立ち尽くす。
「ここまで来て……」
「比叡が、比叡が……」
ある僧は、門前に座り込んだ。
「我らは、何を守ってきたのだ」
「仏か、権か……」
答えは返らない。
梁が落ち、
火の粉が舞い、
夜が赤く染まる。
「助けは来ぬのか!」
「来ぬ……来ぬとも」
「朝廷は?」
「……静かだ」
誰もが悟った。
もう、守ってくれるものはない。
仏も将軍も、天も、
この夜には、来ない。
遠くで、法螺の音が一つ。
命令は短い。
「次へ」
火は、山をすべて呑むためではなく、
意思を焼くために置かれていた。
この夜、比叡は燃えたのではない。
比叡という“力”が、終わった。
この時からだ。
織田信長は、
「仏をも恐れぬ男」
「神仏を踏み越えた者」
そう囁かれ始める。
第六天魔王。
だが信長自身は、その名を誇りもせず、
否定もせず、ただ前に進んだ。
彼にとって重要なのは、
名ではない。
天下統一の道が開けたかどうかそれだけだった。




