第9話 敗走しました。
しかし一向に、毛利軍の勢いは止まらなかった。
倒れても、また来る。
退いても、次が詰める。
毛利の陣は、まるで潮だ。
引くことを知らぬ黒い波。
信長軍の前列が崩れた瞬間、
それは「敗北」ではなく、伝染だった。
恐怖が、走る。
「……前が、いねぇ……」
誰かが叫ぶ。
「後ろだ!後ろも来てる!!」
分進合撃。
散っていた毛利の部隊が、
左右、背後、同時に姿を現す。
逃げ場が、消える。
毛利元就は、その様子を静かに見ていた。
「……引くな、とは言わぬ」
追い込みすぎれば、敵は牙を剥く。
だが
もう、逃げる力も削がれている。
「圧をかけよ。 息をさせるな」
命令は短い。
毛利の兵は、黙々と進む。
鬨の声すら、もう少ない。
ただ足音だけが、地を踏み鳴らす。
「引けぇぇぇ!! 退却じゃあああ!!」
誰の声だったか。
だが、その一言で全てが決まった。
退却は、秩序があってこそ退却だ。
秩序を失えば。それは潰走。
尼子兵が倒れ、
織田兵がそれを踏み越え、
武器を捨て、鎧を脱ぎ、ただ走る。
「城だ!城へ向かえ!!」
背後から矢が飛ぶ。
石が転がる。
倒れた者は、起き上がらない。
戦場は、
もはや戦ではなかった。
狩りだった。
「……たわけが……」
信長は歯を噛みしめる。
「なんでや……
なんで言うこと聞かんのじゃ……」
怒鳴る力すら、もう残っていない。
血と泥にまみれた兵たちが、
信長の前を通り過ぎていく。
誰も目を合わせない。
「……上月城じゃ」
声は、かすれていた。
「上月城まで引く…… そこで立て直すぞ……」
命令は、ようやく通った。
上月城
山に抱かれた小城。
信長軍、尼子軍は、
なだれ込むように城へ入った。
門が閉じられる。
城外には、
毛利軍の旗が、無数に揺れている。
太鼓の音。
陣を敷く音。
包囲。
完全な、包囲。
城内は静まり返っていた。
傷兵のうめき声。
水を求める声。
仲間の名を呼ぶ声。
信長は天守から外を見た。
「……籠城戦か」
それは、
勝ちを狙う戦ではない。
生き延びるための戦。
毛利元就は、城を見上げていた。
「急ぐ必要はない」
兵糧は、城より多い。
人も、多い。
「時が、味方だ」
百万一心。
この戦いは、剣ではなく時間が斬る。




