いつかの優しい記憶
思考のうえにぴったりと黒い膜が張り付いてくる。その黒い膜はビニールでできているみたいだ。窮屈だ。とても。息ができない。僕の希望は思考のなかで窒息していく。まるで植物が枯れて行くみたいに。さわるとからからに乾いていて、手でさわるとバラバラに崩れてしまう。
僕がそのとき思い出したのは先月の友達の結婚式だった。先月僕は友人の結婚式に出席した。学生時代の友人が結婚したのだ。友人はみんなに祝福されて幸せそうに見えた。僕もそんな友人の幸せそうな姿を見て嬉しかった。でも、同時にどうしようもない寂しさを感じた。取り残されて行くような感覚を覚えた。学生時代の友人の多くが人生の新しいステージへと上がって行くのというのに、自分だけが同じ場所をぐるぐると周り続けているという徒労感、焦り。
黒い膜に覆われた思考は泡みたい膨れ上がって弾けた。一瞬、目の前から視覚が消えて行くように力が抜けた。そして今なら自殺していくひとの気持ちがわかるような気がした。自殺していくひとというのは考え抜いた末に自殺するのではなくて、きっと突発的に感情の迷路のようなものに迷い込んでしまって、そこから抜け出せなくなくなってしまって、自殺してしまうのだ。きっと。
僕は瞳を閉じると、瞼の内側に広がる淡い闇のなかに思考をゆだねた。淡い闇のなかにアパートの外に降る雨音が模様を描いて行った。さきほど比べていくらか弱くなった雨音は闇のなかにどこか優しくて懐かしい模様を描いて行った。そしてその優しくて懐かしい模様はいつかどこかで見た場所を思い起こさせた。その場所は最初逆光のなかで撮った写真ように白くぼんやりとしていて判然としなかったのだけれど、時間の経過と伴に明確な像を結んだ。あれは大学の学食だ。時間帯は昼の15時過ぎで、お昼時を過ぎた学食はどちらかという閑散としている。その学食に僕は深沢さんとふたりでいる。次の講義がはじまるで時間があって、僕たちはその待ち時間を学食で潰すことにしたのだ。窓の外にでは微かに黄金色の色素を帯びたような五月の日差しを浴びて、緑の木々が心地よさそうに風に揺れているのが見えた。
「ときどきね、自信が持てなくなるときがあるんだ」
と、僕はそのとき言った。
深沢さんはそう言った僕の顔をいくらか不思議そうに見つめた。そのとき、僕たちは小説の話をしていた。僕が深沢さんに自分の書いた小説を渡して、それでそんな話になったのだ。確か。
「小説なんて書いて意味があるのかなって」
「でも、西田くんは小説を書くのが好きなんでしょ?」
「まあ、そうなんだけどね」
僕は深沢さんの視線を避けるように僅かに顔を俯けて歯切れの悪い答えを返した。
「だったら、難しく考えないで書けばいいんじゃない。書きたいから書く。すごくシンブルなことだと思うけどな」
深沢さんそういってから悪戯っぽく微笑んだ。僕は深沢さんの微笑があまりにも素敵だったので、俯けていた顔を更に俯けた。
「だけどね」
僕は言葉を続けた。
「自分がものすごく苦労して書いた小説をあとで読み返してさ、それがすごくつまらなかったりすると、ものすごくがっかりしちゃうんだ。俺はこんなことに結構な労力と時間を費やしたのかと思うと」
「まあ、そういう感覚はわからないではないわね」
深沢さんは僅かに眉根を寄せて言った。
「わたしも自分で歌った歌をテープで録音してあとで聴きかすと、すごくがっかっりするもの。自分ではもっと上手く歌えてるつもりなのに、実際に聴いてみると、イメージと全然違うんだもん」
そう言った深沢さんの表情がいかにも不服そうだったので、僕は少し笑ってしまった。つられるようにして深沢さんも笑った。そして、
「だから得てしてみんなそんなものなんじゃない。自分が書いたり、歌ったりしたものってなかなか納得なんてできないものなんだよ。きっと」
深沢さんはにっこりとして言った。そして次の科白を探すように少しの間黙っていから、
「とにかくさ、難しいこと考えないで、書けばいいじゃない、小説。というか、書いてよ。わたし、西田くんの書いた小説読みたいしさ」
やがて深沢さんは口を開くと言った。そう言った深沢さんの瞳のなかには木漏れ日の光を集めたような穏やかな光があった。
ケータイの着信音が鳴ったのはそのときだった。僕は閉じていた瞼を開くと、なんだろうと思って机の上に置いてあったケータイを見てみた。すると、バイト先の女友達からのメールが届いていた。メールの文面にはこうあった。誕生日、おめでとう。一日遅れてしまったけど、素敵な一年になるといいね。
僕はその文章を二度読み返してからケータイを机のうえに戻した。こんな僕の誕生日を覚えていてくれるひとがいたんだな、と、単純に嬉しかった。
僕は再びパソコンのキーボードの上に両手を置いた。そして意識を集中した。頭のなかに散り散りになっていた物語のイメージがゆっくりとひとつの場所に集まってくるような感覚があった。
アパートの外にまだ雨音は響き続けていた。その雨音は何を悼んでいるであもり、何かを懐かしんでいるようでもあった。雨音のなかに色んな人の声が聞こえてくるように気がした。
僕は頭のなかに浮かんできたたくさんの言葉をゆっくりと書き込んで行った。
情けない僕はいつも思っているの最終話です。