ひとつ屋根の下で
「ただいま」
私は小さな声で告げると、暗いリビングのスイッチを探りながら、空いた手でネクタイを緩める。
明かりのついた室内。壁掛け時計の針は午後十一時を回ろうとしていた。
ダイニングのテーブルには、夕食の皿がラップにかけられている。
それらを電子レンジに放り込み、熱を通すと、私は黙々と一人きりの夕食を取り始めた。
私の目は、自然とテーブルの向こう、締め切られたドアの方へと向いていた。
あのドアの向こうには妻がいて、今頃は私が帰ってきた事も知らずに眠っているのだろう。
不意に私は箸を止めた。
一体、いつからこんな生活をしていたのだったか。
きっかけは、些細な口論だった。
妻に口では到底かなわない私は、早々に言い合うのを止めて無視無言を決め込んだ。
それが彼女の癇に障ったらしい。
彼女は、元々は二人の寝室だった部屋から私の荷物を全てリビングへと放り投げ、その部屋に閉じこもってしまった。
妻は私の呼びかけに一切応じようとしなかった。
その時になり、私はようやく自分のとった態度がいかに彼女を傷つけてしまったかに気づき、ひどく後悔した。
どれほど謝罪の言葉を述べても、閉じ切られたドアが開く事は無かった。
力ずくでドアを開ける事も考えたが、その行動はより一層深く妻を傷つけてしまうだろう。
私は自然にドアが開くのを待つしかなかった。
数日が過ぎた時だった。
私が仕事を終え帰宅すると、ダイニングのテーブルにはラップがかけられた夕食が用意されていた。
私は喜んだ。私が家にいない間であったが、妻がほんの少しだけドアを開いてくれたのだ。
久し振りに食べた妻の料理はうまかった。
それから新しい私たちの生活が始まった。
結婚前に二人で決めたお互いの分担をただ忠実に守り、こなすだけ。
一切の顔を合わせず。
一言も会話を交わさずに。
確かにそれは夫婦の生活としては奇妙なものだっただろう。
仮面夫婦というのも違う。家庭内別居というにも、近いが遠い意味を感じた。
そんな生活が二日過ぎ、三日が過ぎ、一週間となる前に、まるで、初めから両者の関係がそうであったかのように、私は自分でも驚くほど自然にこの生活を受け入れていたのだ。
何故か食が進まず、私は妻の作ってくれた夕食を半分以上生ゴミとして扱わなければならなかった。
少なくない後ろめたさを感じつつ、私と妻とを隔てるドアの前に立つと、私は静かに言った。
「ごちそうさま。おやすみ」
返事はなかった。
それから数日後。
私は食欲の不振に悩んでいた。
残された夕食を目にしたら妻はきっと悲しむだろう。
私は妻を悲しませないためにも、無理に食事をとろうとしたが、箸を運ぶそのたびに嘔吐感がこみ上げ、食べ物を口に入れても、中々喉を通らなかった。
結局、大半を残してしまった。
こんな日々が続いている。
使った食器を片づけていると、私はキッチンに卓上カレンダーがある事に初めて気がついた。
そのカレンダーは私と妻が奇妙な生活を始めた月から日付が進んでいなかった。
私はペラペラと何枚かページをめくり、今月に合わせてやる。
と、今日から数えて一週間後に、ピンクの蛍光ペンで文字が書かれていた。
妻の丸っこい字で、
『三回目の結婚記念日』
私は、自分の迂闊さを呪った。
ずっとキッチンにあった卓上カレンダーに気がつかなかった事もだが、私は自分たちの結婚記念日さえ忘れてしまっていたのだ。
意を決し、私は妻のいる部屋の前に立つ。
ドア越しの妻へ。
「来週は僕たちの結婚記念日だったね。どうだろう? 久しぶりに顔を合わせて話さないか? キミは僕の顔なんか見たくないかもしれないし、話す事なんか無いかもしれないけど、僕はキミの顔を見て話がしたいんだ」
やはり返事はなかった。
次の日。私は会社で警察からの電話を受けた。
その内容は唐突過ぎて、とうてい信じることが出来ない内容だった。
妻が、死んだ。
いや。正確には妻は『死んでいた』。
電話を受けてから数時間後。私は遺族ではなく容疑者として警察署の取調室にいた。
私は刑事に色々と訊かれ、また色々と聞かされた。
近隣の住民が数日前から腐敗臭のような異臭を感じており、最近妻を見かけない事を不審に思い警察に通報したそうだ。
大家と警官が踏み込んだ時、妻はすでに死んでいた。
刑事は細い目で静かに私の表情を窺いながら、
「それでは旦那さん。あなたは奥さんが昨夜まで確実に『生きていた』と、そうおっしゃる訳ですね?」
それは何度も受けた質問で、何度も答えたはずだ。
「はい。妻は昨日の夜、夕食の支度をしてくれました」
「だから旦那さん。それがもうおかしいんですよ。先ほど、遺体解剖の結果が出ましてね。奥さんの死体はだいぶ腐敗が進行しており、一部が白骨化してました。死後三週間だという事です。ひとつ屋根の下にいて、あなたが気がつかないはずないでしょう?」
死後三週間?
私は凍りついた。
三週間、前。
それは、妻が夕食を作ってくれるようになった時期と重ならないだろうか。
そう言えば、何故私は箸を止めたのだろう。
何故食欲がわかなかったのか。
家中に、ドア一枚では抑えきれない腐臭が充満していたからではないのか?
「どうしました? 旦那さん? 顔色が」
刑事の声は遠すぎてよく聞き取れなかった。
私は、一体いつから腐臭がするようになったのか思い出そうとした。
しかし、どれほど懸命に記憶を辿っても、思い出す事が出来なかった。
―― end.
2007年ごろに書いた作品です。
コンセプトは、
『詳細を多く語らず、読者の見方一つでどうとでもとれるホラー』
今読み返すと、漠然とさせるならさせるで、もう少し広げて作れば良かったですね。




