間 :約4000文字 :コメディー
ある晴れた日の午後だった。病院の中庭には穏やかな時間が流れていた。柔らかな陽射しが芝生や遊歩道を照らし、風が植込みの花々を揺らして、ほのかな香りを運んでくる。頭上では鳥たちが戯れるように飛び交い、軽快な鳴き声を響かせていた。
そんな中庭を二人の男女が歩いていた。
肩を並べ、ゆっくりとした足取りで進みながら、他愛のない言葉を交わしている。ふと視線が合うと、くすりと笑って目を逸らし、少しの沈黙を挟んでは、またぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。二人の間には、そんなぎこちなくも和やかな空気が流れていた。
やがて男の歩調が少しずつ緩み、二人の間にわずかな距離が生じた。それに気づいた彼女は足を止め、振り返った。
小首を傾げ、不思議そうに見つめる彼女。男はその場に立ち尽くし、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あの!」
思ったより大きな声が出た。しかも情けないほど震えていた。自分でもそれがわかり、男は誤魔化すように小さく咳払いし、ポケットに手を入れた。そして小さな箱を取り出すと、意を決したようにその場に跪いた。
「僕と……僕と結婚してください!」
二人が出会ったのは、およそ数か月前のことだった。
夕暮れ時。男はまっすぐに伸びた一本の道路をバイクで走っていた。郊外の道には他の車の姿がなく、両脇には背の高い雑草が生い茂り、風が吹くたびにざああと葉擦れの音を立てていた。橙に染まっていたアスファルトは少しずつ藍色へと沈んでいき、その気配を追うように周囲では虫たちが控えめに鳴き始めていた。
男はツーリングが趣味。休日になると目的地を決めずに気の向くまま遠出することも珍しくない。この日も朝からあちこちを走り回って、十分に満足して帰路についたところだった。
けれど帰り道になると毎回決まってどこか物寂しい隙間風が胸の奥をなぞる。今日見た景色や食べたもの、出会った人のこと――楽しかった一日の余韻を分かち合う相手がいない。
――まあ、それもまたツーリングか。
男はふっと自嘲するように笑い、そんな感傷に浸った。男は気づいていないが、これもほぼ習慣となっていた。
と、そのときだった。前方の路肩で女が両手を大きく振っているのが見えた。今にも車道へ飛び出してきそうな勢いだったので、男は思わず体を強張らせたが、冷静に周囲を確認しつつ速度を落とし、バイクを路肩に停めた。
すると彼女はふらふらとした足取りで駆け寄ってきた。事情を聞くと、彼氏とドライブ中に別れ話を切り出したところ激怒され、そのまま道の真ん中に置き去りにされたという。仕方なく町まで歩こうとしたものの、思った以上に距離があり、しかも途中で靴擦れまでできてしまったらしい。
町まで乗せてください――そう頼まれた男は快く引き受け、彼女を後ろに乗せて再び走り出した。途中で何度か休憩を挟み、会話を重ねるうちに、男は互いに気が合うことに気づいた。
そうして結局、町どころかそのまま彼女を自宅まで送り届けたのだった。
しかし――。
『お前、よくも娘を!』
『やめて、お父さん! この人は違うの!』
『何が違うって――うっ……!』
玄関先に現れた父親は、男が娘を置き去りにした張本人だと勘違いし、いきなり掴みかかってきた。ところが、拳を振り上げた直後、突然胸を押さえて苦しみ始めた。
彼女は慌てて救急車を呼び、落ち着いたら改めて礼をしたいということで、ひとまずその場は連絡先を交換し、二人は別れた。
それから二人は自然と連絡を取り合うようになっていった。最初は父親の容体を確認するためだったが、食事に行く流れになり、次は買い物へ出かけ、その次はまた食事に誘った。会話の最中にふと目が合うと、どちらからともなく照れたように笑った。まだ恋人と呼ぶには少し早い、けれども会うたびに距離は縮まっていく。そんなどこかこそばゆくて心地よい関係が続いていた。
そんなある日、男は彼女の父親に病院へ呼び出された。
『実は……私はもう長くはないんだ』
『えっ』
『娘にはまだこのことを話していない。どうか黙っていてくれないか』
『そんな……でも……』
『頼む』
『……わかりました』
『ありがとう。……それで、君に娘を任せたいと思っているんだ』
『えっ』
『君たちは互いに想い合っているだろう? 二人を見ていれば分かるよ。私と妻にそっくりだ』
『そんな、ははは……』
『妻には先立たれ、あの子には私しかいない。なあ、わかるだろう?』
『……』
『少なくとも娘は君に惚れている。だから、私の目が黒いうちに婚約してほしいんだよ』
『でも……』
『頼むよ』
『はい……お義父さん……』
『ふっ、気が早いな』
『あっ、はは、ははは……』
『ははは、任せたよ』
父親はそう言って小さく頭を下げた。その小さな肩と寂しげな笑顔を目にした瞬間、男は覚悟を決めた。
頼まれたからだけではない。彼女を幸せにしたい――いつしか胸の奥に芽生えていたその気持ちを、男はこのとき改めてはっきりと自覚したのだった。
そして見舞いに訪れた今日、男は彼女をさりげなく中庭に連れ出し、こうしてプロポーズに踏み切ったのだった。
彼女は両手で口を覆い、目を丸くして黙り込んだ。
男はじっと彼女を見上げて次の言葉を待つ。心臓が激しく脈打ち、膝が震えて思わずよろめいた。それでも視線だけは彼女から外さなかった。
やがて彼女はゆっくりと手を下ろし、口を開いた。
「えっ、無理」
「……え?」
「え?」
「いや、え?」
「ん?」
「えっと、無理って何が……?」
男は呆然としたまま、ゆっくりと立ち上がった。
「結婚が」
「おー……。あの、僕のこと好きではなー……」
「い」
「おおー……あれ、一緒に食事に行ったのは……?」
「え? 普通に暇だったからだけど?」
「おー……えっと、君のこと助けたよね?」
「……え? 嘘、え、嘘でしょ」
「え?」
「嘘、待って。え? 嘘嘘嘘、は? だから結婚しろって?」
「え、いや、いやいや、違うって!」
「いやいや無理無理無理無理無理。怖っ怖っ怖っ怖うわうわうわうわ」
「いや、引かないでって! そういう意味じゃないから!」
「じゃあどういう意味? うわあ……」
「ちょっとした確認だよ、ははは、『助けたよね?』っていう」
「助けたんだから一生を共にしろって? 昔話じゃないんだから。それに、恩ならもう返したじゃない」
「え? 返したって?」
「クッキーの詰め合わせ」
「え? ……あー、あれってそういう……。ただ、お菓子作りが趣味なのかと思ったよ」
「違うよ。手作りでもないし。コンビニで買ったやつ」
「デパートやお菓子屋ですらなかったのか……」
「そういうことだから。じゃあ、お帰りいただいて……」
彼女は小さく頭を下げた。
「いや、あの……」
男は無意識に彼女へ手を伸ばした。だが彼女はあからさまに嫌悪の表情を浮かべ、素早く後ずさった。
「いや、実は……」
男は力なく手を戻し、頭を掻いた。
「君のお父さんに頼まれたんだよ」
「えっ、何を? 嫌がらせ?」
「いや……だからその、んー……ちなみに、普通に付き合ってくれる可能性は……」
「ぜー」
「ろー……?」
「うん。ゼロ。無理。無理すぎる」
「おー……」
男は口を半開きにし、ただ間の抜けた息を漏らした。何か考えるように腕を組みながら空を見上げ、次に地面を見下ろす。やがて小さく咳払いをした。
「えっと……あのときは陽が沈みかけていたね。暗くて、寒くて。君はきっとすごく心細かったよね」
「え? まあね……ほんと最悪だった」
「誰も通りかからなくて、気持ちを話せる相手もいなくて、自分はこの世界に一人ぼっちなんじゃないか。そう思ったよね」
「いや、そこまでは。置いていかれた怒りのほうが強かったし。ああ、思い出したらまたいらいらしてきた。あーあ! はーあ!」
「お、落ち着いて。その流れは本当に困る」
「で、何?」
「いや……バイクのライトが見えた瞬間、すごく安心したよね」
「ええ。さっさと帰ってシャワーを浴びたいなって思った」
「で、で、後ろに乗ったとき、すごく頼れる背中だなって思ったよね」
「いや、なんか臭いなって」
「おー?」
「それからブレーキを踏んで胸が当たるたびに、びくって体を揺らしてキモいなって。あ、家の前に着いてバイクから降りるとき、なんか変な動きしてたよね。あれって勃――」
「あの!」
「何……?」
「君のお父さん、もうすぐ死ぬってよ」
「は!?」
「心臓が悪いんだってさ。なんかもう無理らしい。終わりだね、うん」
「なに、急に。いったいなんなの……え、仕返し?」
「いや、そういうわけじゃないよ。だから、お父さんに君のことを頼まれたってわけ。まあ、もういいけど。断られたし。君って間が悪いよね」
「は!?」
「そもそもドライブ中に別れ話を切り出すって何? そりゃ置き去りにされるわ!」
「ほんとなんなの……あっ」
彼女がひどく顔を歪めたそのときだった。ポケットの中のスマートフォンがぶるりと震えた。
彼女はポケットから取り出し、画面を確認した。
「電話だ――えっ、シンくん!?」
画面に表示された名前を見た瞬間、彼女は目を大きく見開いた。
「え、シンくんって、あの元彼の?」
「もしもし……あ、うん、うん、気にしないで。うん。私のほうこそごめんね……つい、本気じゃなかったの……うん、うん……」
彼女はスマートフォンを耳に当てたまま、その場を離れていった。
ぽつんと取り残された男は、遠ざかる彼女の背中を呆然と見送ることしかできなかった。
と、そこへ看護師が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「あの、あれ、――さんは?」
「あ、今ちょっと……」
「お父様が倒れて……その、もう……」
「おー……」
男は彼女が消えていった建物の陰と息を切らす看護師を交互に見た。
それから小さく息を吐くと、ぽつりと言った。
「間が悪い」




