5
その日、廊下の向こうから足音が聞こえた瞬間、俺の背筋にぞわりと嫌なものが走った。
母はにこやかに姿を現した。
俺は即座に悟った。
リシェルが上機嫌な日は、だいたいろくなことがない。
そして、その両手には小さなガラス瓶。
中には、透き通るように青い液体が入っていた。
見た目だけなら綺麗である。
宝石みたいだ。南の海の一部をこっそり切り取って瓶に詰めました、と言われたら、わりと信じるかもしれない。
ただし、この家において綺麗な色は信用ならない。
むしろ危険信号である。毒物って、なんでこう、無駄に見た目が美しいんだろうな。美意識があるの、腹立つんだよな。
「レイス、今日はあなたの誕生日です。だから、とっておきのものをプレゼントさせてください」
小瓶を持つ手つきは、息子に大切な贈り物を渡す普通の母親そのものだ。
『上機嫌な母ちゃんが一番危険なんだよこの家……。頼むから、普通は花束とか絵本とか積み木とか、そういう方向でとっておきを出してくれ……』
青い液体が瓶の中でゆらりと揺れる。
いやな予感しかしない。
というか、予感の段階はもう過ぎている。嫌な確信である。
リシェルは微笑んだまま、説明を始めた。
「これはですね、夜泣き姫の花弁と、深淵草の根、それにガルゼルバルダの毒腺を混ぜ合わせた特製ブレンドです」
夜泣き姫。
深淵草。
ガルゼルバルダ。
『何と、何と、何だよ! 固有名詞の圧が強い! ぜんぶ“絶対口に入れちゃいけない側の素材”みたいな名前してるじゃねえか!』
どれもこれも、名前だけで嫌である。
夜泣き姫ってなんだ。赤ちゃんにトラウマでもあるのか。深淵草も嫌だ。雑草感覚で深淵を生やすな。ガルゼルバルダに至っては、もはや生き物なのか呪文なのかもわからない。
「舐めれば、大人でも一滴で死に至ります」
時が止まった。
『…………は?』
『一滴?』
『一滴で?』
『死ぬ?』
『大人が?』
俺は小瓶をしっかり見る。目測で——約50mlほどだ。小さいガラス瓶に、透き通った青い液体が入っている。禍々しくて、美しい。
『えっと……』
『一滴が約0.04mlだとすると……』
『50ml ÷ 0.04ml = 1250』
『ち、致死量の1250倍!?!?!?!?!?!?』
『暗算ができる五歳児で良かった! いや良くない! 計算できたせいで絶望がより具体的になった! 知りたくなかった! 無知は幸福だった!』
リシェルは相変わらず笑顔だ。だが、手に握られているのは、俺を確実に殺せる毒薬。人間を1250回殺せる殺人兵器だ。
『この人、本当に母親なのか? 俺、拾われた子じゃないよな? 実子だよな? ちゃんと母の産道から出て来たんだよな? 途中ですり替えられてないよな?』
しかし飲まないという選択肢は俺にはなく、拒否権など最初から用意されていない。選択肢は一つ。「はい」のみ。YES一択。NOという文字は辞書から削除されている。
『俺の人生、選択肢が無さすぎる! ゲームなら「はい」しか選べないやつ。「いいえ」を選んでも「そんなこと言わずに~w」って言われて結局「はい」を選ばされるやつ!』
でも……断れない。
絶対に断れない。
あの時の"お仕置き"がトラウマだから……。
俺は三歳の時のことを思い出す。あの日、人生最大の過ちを犯した日のことを。記憶から消したいのに、消せない。鮮明に覚えている。何度でもフラッシュバックする記憶。
あの時、俺は紫色のスープを見て、思わず口走ってしまった——反抗してしまったのだ。
「もう毒料理はいらない。普通のご飯が食べたい」
たったそれだけの言葉。子供なら誰でも言いそうな、ごく当たり前の要求。「野菜嫌い」とか「ピーマン食べたくない」とか、そういうレベルの可愛い反抗だろう。
今思えば、あれは人生最大の失敗だった。取り返しのつかない過ちだった。
その言葉を発した瞬間、空気が凍りついた。
使用人たちの動きが止まる。時が止まる。世界が静止する。動画の一時停止ボタンを押されたような、そんな静寂が部屋を支配した。
リシェルの表情が消える。いや、消えたのではない。笑顔のまま、何かが変わったのだ。口元は笑っている。でも目だけが笑っていなかった。
『あ、これアカンやつや……』
俺は後悔した。すぐに後悔した。だが、すべては遅かった。発言にロールバック機能は無い。人生にCTRL+Zは用意されていない。発言の取り消しはできないのだ。
「あら、レイス。毒がいらないなんて、誰が決めるのですか。それを決めるのは貴方ではないですよね?」
声は優しかった——だがその優しさが、何よりも恐ろしかった。
『すみませんでした! 今の無しで! 取り消します! 編集で消してください!』
心の中で土下座。全力謝罪。五体投地。額を床にこすりつける勢いで謝罪の意を示す。でも声に出ず、体が動かない。恐怖で硬直している。
リシェルは静かに、呪いのように囁いた。
「"お仕置き" ですね」
『お仕置きィィィィ!? その単語出た! 禁断の単語が出た! タブーワードきた! ピー音入るやつきた!』
次の瞬間、世界が歪んだ。
「──え?」
最初は圧殺だった。
いきなり天井が落ちてきて、巨大な石の塊が俺の体を押し潰していく。骨が軋む音が聞こえ、内臓が圧迫される感覚があり、息ができない。目玉が飛び出しそうだ。痛い、痛い、痛い、助けて、誰か、お願いだ。
そして死んだ。
だが、次の瞬間には生き返っていた。
「────ハッ」
俺は即座に思い至った。
これは幻覚魔法——リシェルの得意とする魔法と聞いたことがある。視覚、聴覚、触覚、痛覚、全ての感覚を操る魔法で、見ているものは幻だが、脳はそれを現実として認識する。理屈では分かる、これは幻だと。だが痛みは本物だ。恐怖は本物だ。死の感覚は、どこまでも本物なのだ。
今度は殴殺だった。見知らぬ男たちに囲まれ、殴られ続ける。誰だよお前ら。顔が潰れ、歯が折れ、鼻が砕け、眼球が破裂する——死んだ、生き返った。
絞殺。首を締められ、視界が暗くなり、舌が飛び出す——死んだ。
刺殺。ナイフが腹に突き刺さり、内臓が裂け、血が溢れる——死んだ。
射殺。銃弾が頭を貫き、脳漿が飛び散る——死んだ。
焼殺。炎に包まれ、皮膚が焦げ、肉が溶ける——死んだ。
爆殺。体が四散し、手足が吹き飛ぶ——死んだ。
撲殺。鈍器で頭を叩き割られ、頭蓋骨が砕ける——死んだ。
溺殺。水の中に沈められ、肺が水で満たされる——死んだ。
何度死んだのか分からない。十回か、百回か、千回か——時間の感覚なんて無かった。自分が誰なのかも分からなくなり、ただ殺され続けた。途中から、もう抵抗する気力もなくなった。どうせ死ぬのだから、どうせ生き返るのだから。心が壊れていくのを感じた。
俺は何者なのか。どこにいるのか。なぜ殺され続けているのか。そんな疑問すら浮かばなくなった。これは悪夢ではないのか。目を覚ませば、前世の平和な日々に戻れるのではないか。何度もそう願った。
幻が解けた時、俺は床に倒れて失禁していた。呼吸が荒く、心臓が破裂しそうで、涙と鼻水と涎で顔がぐちゃぐちゃだった。
俺は何度も謝り続けた。声が震えて言葉にならない——ただ、許してほしかった。もう二度と、あの地獄を味わいたくなかった。「ごめんなさい」という言葉が、もはや意味を失っていた。ただ音として発するだけで、何に対して謝っているのかも分からなかった。ただ、許されたかった。
「……分かってくれたかしら、レイス」
リシェルの声が聞こえる。その声には、今まで聞いたことのない震えが混じっていて、顔を上げると彼女も泣いていた。翡翠色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちている。
『やった本人が泣くな。お前が加害者だろ。被害者面すんな』
その涙を見た瞬間、俺の中で何かが崩壊した。憎しみでもなく、怒りでもなく——ただただ、深い諦めだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、レイス……私もつらいのです……」
リシェルは俺を抱きしめた。その腕は温かく、母の体温が俺の体に伝わってくる。
「でも、でもね……私は、あなたを守りたいのです。この世界は残酷よ。弱いものは、すぐに殺されてしまう。だから、誰よりも強くならねばいけないの……」
『……いや強くなる方法完全に間違ってるから。普通は剣術とか魔法とか教えるもんだから。なんで毒スタートなんだよ』
母の涙が俺の頭に落ちる。ポタリ、ポタリと。温かい。 俺に苦痛を強いたことを後悔しているのだろう。心が痛んでいるのだろう。だが、やめることはしない。
それがヴァルダード家の愛の形なのだ。愛しているから苦しめる。守りたいから傷つける。この矛盾した論理が、この家では真実として通用していた。
『いやいやいや、それDV彼氏の「殴るのは愛してるからだ」と同じ理屈じゃん! 洗脳されてる! 俺、洗脳されてる!』
それでも適応せざるを得なかった。なぜなら、ここで生き延びるには、それしか方法がないからだ。
「慣れるか、壊れるか」
この二択しかなかった。そして俺は、「慣れる」方を選んだのである。壊れてしまえば楽かもしれない。でも、壊れたら本当に終わりだ。
『生き延びるためだ……仕方ない……これは生存戦略なんだ……DV彼氏に耐える彼女も、生存戦略でやってるんだよな……分かるよ、分かる……共感できるよ……俺たち仲間だよ……』
リシェルは優しく俺の頭を撫でた。何度も、何度も、まるで壊れ物に触れるように。
「毒を飲むのは、あなたのためよ。私は、あなたを愛しています。本当に、本当に……」
『愛の形が歪みすぎてんだよこの家族。普通の愛をくれ! ハグとかキスとか! そういうやつ!』
「うん、ありがとう……お母さん」
俺は頷いた。頷くしかなかった。
そうして、あの日以来、俺は二度と逆らわなかった。
毒料理を拒否することも、文句を言うことも、一切しなくなった。
そして今——五歳の誕生日。
あれから二年が経った今でも、あの感覚は忘れられない。ふとした瞬間に、死の感覚が蘇る。
だから——
俺は、青い毒薬を拒否できない。拒否したら、また"お仕置き"が来る。また殺される。また地獄を味わう。
「さあ、レイス。お飲みなさい」
リシェルが優しく微笑む。
その笑顔は、愛と狂気とに満ちていた。
俺は——小瓶を受け取った。




