闇の魔力紋
鏡の角度が、ふっと鎖骨のあたりまで落ちた。その瞬間、脳内で瑠璃さんの声が跳ねた。
〈あれ? ジャスパーくんの胸元に私と同じあざがある〉
「あざ?」
胸をぶつけた記憶はない。転んでもいないし、痛かった記憶もない。
そう思いながら鏡に目を戻した僕は、息が止まりそうになった。
鎖骨の間から指一本分だけ線が落ち、そこを起点に左右へ細い線が枝分かれして伸びている。
黒い。
ただの黒じゃない。光が当たっているのに、そこだけが光を拒むみたいに沈んでいる。縁にだけ、ごく薄い紫が滲んで見えた。
(……うそだろ)
女の魔力紋は胸元に出る。光・風・闇——そのうち闇だけが鎖骨の下に伸びる。
鏡に映る胸元の線は、教本の図そのものだった。
「闇の、紋?」
自分でも驚くほど、掠れた声だった。
瑠璃さんは、自分の胸元の紋と僕の胸の線を見比べているらしかった。観察だけは妙に正確なくせに、感想は呑気だった。
〈それにしても似てるわね。瓜二つよ。私のも鎖骨の間から下に伸びてる〉
瑠璃さんのと同じ形?
〈落盤のあと、着替えたときに見つけたの。てっきり、模様みたいなあざかと思ってたわ〉
落盤事故の直後から、その線は瑠璃さんの胸元にあったらしい。
〈へぇ、これって魔力紋だったんだ〉
弾む声が響くほど、僕の背中は冷えていく。
——男の僕に、女の魔力紋が顕れるわけがない。
なのに、鏡の中には闇の線がある。
〈もしかして、ジャスパーくん、本当は女の子だった?〉
くすくすと笑う気配。完全に僕をからかっている。
「黙って!」
ぜんっぜん笑えない。洒落にならないんだって。
落盤の夢を見たあの夜から、僕は用心してきた。
着替えも湯浴みも一人で済ませた。左手の銀白を隠すために。
だから、胸元の模様があの夜からあったとしても、今日まで見られていないはずだ。
……でも、これから先は隠しきれない。
魔法学院に入れば、稽古の支度も、着替えも、風呂もある。
服が少しずれれば、鎖骨の下なんて簡単に見える。
闇の紋が見つかったらどうなる? それも男の僕の胸に、だ。
(異端……)
いやな汗がどっと噴き出してくる。
妾の子の僕を、守ってくれる人なんて、お母様くらいしか思い浮かばない。
フォルテが知ったら? 教会が嗅ぎつけたら?
とたんに息が浅くなる。
〈ジャスパーくん、深呼吸。ほら、吸って、吐いて〉
「落ち着けって……!」
そんなことできるわけない、と言いかけて、僕は慌てて口を押さえた。
ここは伯爵家の離れだ。使用人が廊下を通るかもしれない。壁だって薄いかもしれない。聞かれるわけにはいかない。
僕は震える指で襟元を引き寄せ、シャツのボタンを喉元まで留めた。
〈でも、実際問題、隠すしかないんじゃない?〉
瑠璃さんがあっさり言った。
確かにその通り。今までだって僕は、左手を隠してきた。
手袋を外す。
薬指の付け根に絡みつく幾筋もの銀白。光の角度で、白にも淡い金にも見える。中央の太い光だけが、手首へ一直線に伸びている。
(消えない。ずっと、ここにある)
金属性の紋なら右手に出る。教本どおりなら、指輪みたいな小さな輪になる。
だから、ただの模様なんだと自分に言い聞かせてきた。
でも、胸にも魔力紋みたいなものがでた今、それで済ませられる気がしない。
——偶然で片付けていいのかな
〈ねえ、もう一つだけ言っていい?〉
(なに?)
口に出さず、頭の中で瑠璃さんに話しかける。
〈私の右手、中指にね、指輪みたいな黄土色の輪があるの〉
黄土色。右手・中指。
(それ……僕の土の魔力紋だ)
僕は反射的に右手を見た。
中指の根元に、輪がある。落ち着いた黄褐色の輪。指輪みたいに、ぐるりと一周している。
これが、僕が伯爵家に迎えられた理由。第三次性徴で顕れて、父に認知された証。
〈私の身体にジャスパーくんの魔力紋が写ったんじゃない?〉
なら、逆に瑠璃さんの「あざ」が僕に写ることだって……。
——ありうる、のかな?
僕たちは夢で結ばれている。
そう思えば、落盤の闇も、僕の土の輪も、互いの体に印なのかもしれない。
(つながってる)
そう思えば、少しだけ息が楽になった。
〈つまり、かわいいジャスパーくんとペアリングだね。やったー〉
そういう問題じゃない! 声を大にして叫びたかった。
だけど――
瑠璃さんの呑気さが、僕の喉元に引っかかっていた恐怖を、すこしだけ溶かしてくれた気がした。
闇の線はまだ鏡の中に浮かんでいる。
左手の銀白は、相変わらず答えをくれない。
右手の土のリングだけが、現実の重さを伝えてくる。
――隠すしかない。
少なくとも、今は。
***
次話:第九話「偽の輪」
「うちの自慢料理はハンバーグ。聖女グロリア様直伝の味なんですよ!」




