呼ばれなかった名前
ガラガラガラ、と石畳を叩きながら、僕たちの馬車列がウルムの伯爵邸の門をくぐった。
門の内側は、空気が違う。街の雑多な匂いが庭木の香りに上書きされる。
さっきまで馬車が走っていたウルムは、僕の知っている街とは別物だった。
人が行き交い、露天商の声が弾む。焼きたてのパンの甘い香りに家畜の臭いが混じり、屋根の向こうには教会の尖塔が何本も突き出ている。
(すごい……大都会だ)
フライブルクも大きいと思っていたけど、ウルムは比べ物にならない。
こんな場所で二年間も学ぶのかと思うと、胸が少し浮き立った。
伯爵邸本館の玄関前には、使用人たちが整列して僕たちを出迎えていた。
いや、正確には僕たちじゃない。フォルテを、だ。
「フォルテ様、ようこそウルムへ。
この館をリート伯爵よりお預かりしております、家令のハイセンにございます」
きっちりした服装の初老の男が、深く頭を下げる。
フォルテは馬車を降り、こちらを一瞥もしないまま、余裕ぶった声で答えた。
「ああ。これから二年間、世話になる」
そのまま、さらりと手を伸ばす。
「ハイセン。こちらはソナタ男爵家の令嬢、ピアノ嬢だ。今後、何度も館に招く。覚えておきたまえ」
こういう場所のフォルテは、腹が立つほど様になっている。
小さい頃から貴族の所作を学んできた成果だ。そう分かっていても、凛々しいとさえ思ってしまう自分が、悔しくもある。
――で、僕の紹介は?
ピアノの紹介が終わった後も、フォルテが僕を指す気配はない。
(また、無視か……)
その沈黙を拾ったのは、ピアノだった。
一瞬だけ困った顔をして、けれど、すぐにいつもの微笑みに戻る。
「ジャスパー様。道中で伺ったエメラルドのお話、あれが忘れられなくて。ウルムでも、また聞かせていただけますか?」
「はい……。落ち着いたら、いくらでも」
そう答えても、胸の奥の苦さは消えなかった。
ピアノの声に少しだけ救われたのに、フォルテの不機嫌がすぐ頭の上にのしかかってくる。
ピアノは一度だけ、整列した使用人たちとフォルテの横顔を見た。それから僕の袖口へ視線を落とした。
「……あ。ほこりが」
言うが早いか、ピアノは僕の袖口をつまむ。
次の瞬間、袖を返す動きに合わせて、ピアノの指が僕の手に触れた。
――あたたかい。
手だけじゃない。胸の奥まで温かくなる。
さっきまで空気みたいだった僕に、彼女が輪郭をくれた気がした。
道中でもフォルテの嫌味が飛ぶたびに、彼女はさらりと話題を変えて助けてくれた。
そのことが、ふっと頭をよぎる。
「失礼しました。つい……」
ぱっと手が離れる。
遅れて、使用人たちの視線が一斉にこちらへ揃った。
ピアノは何事もなかったように顔をあげ、今度は家令のハイセンに向き直る。
「ハイセン様。ジャスパー様のお部屋は離れですよね。お荷物も、そちらへ? ご案内が漏れては困りますわ」
荷の段取りを確かめただけ。
それなのに、玄関前の空気がぴんと張りつめた。
僕の名前が出た途端、その場の全員が、はじめて僕の方を見た。
そうなると、フォルテも知らないふりではいられない。
「……ああ。こいつは離れだ」
フォルテは僕の方へあごをしゃくり、口元だけ薄く笑った。
「妾の子のジャスパーだ」
***
次話:第七話「鏡が映した印」
鏡に映ったのは、顔じゃない。
――僕の胸元の、見覚えのない印だった。




