深紅の留め具
馬車の車輪が石畳を叩く音が近づいた。
黒い幌。ソナタ男爵家の紋章が付いていた。
扉が開き、一人の少女が地面へと降り立つ。
その瞬間、世界が光に包まれた。
アイボリーのガウンに、浅い緑のマント。
その合わせ目を留める小さな深紅――ガーネットのブローチが陽の光を受け輝いている。
小さな留め具ひとつなのに、目がそこから離れない。
深紅の一点が、装い全部を支配していた。
〈大袈裟ねぇ〉
頭の中で、女の声が笑ってる。
(もうっ! 黙っててよ)
せっかくの気分が台無しだよ。
ここはフライブルク伯爵邸の玄関前。フォルテと僕は、ソナタ男爵家令嬢のピアノの到着を待っていた。
僕たち三人の行き先は、公都ウルムの魔法学院。
魔力紋が出た十五歳の男女は、魔法学院で学ぶことが帝国法で定められている。
ピアノが馬車から降りると同時に、僕の横で腕組みしていたフォルテがさっと前へ出た。甘い笑顔を貼り付け、自然な動きでピアノ嬢との距離を詰める。
「お待ちしておりました、ピアノ嬢。今日の君も、まるで朝日みたいにまぶしい。
こんな旅路を一緒に過ごせるなんて、僕はなんて幸せなんだろう!」
「フォルテ様、ご機嫌よう。先日の結婚式以来ですわね」
先日、異母兄アパッショナートと、ピアノの姉ドルチェの結婚式があった。
「俺に敬称を使う必要なんてないさ。俺たちは親族なんだから、お互い呼び捨てで呼び合おう。俺のことはフォルテと呼んでくれたまえ」
「まぁ、ありがとうございます。フォルテ様。それよりも、後ろの方を紹介してくださいませ。同じ道中をご一緒する方を、知らないままでは失礼ですもの」
丁寧な笑顔のまま、ピアノはするりと話を逸らした。
「ああ、もちろんだとも」
そう言って、フォルテがちらりと僕を見た。目は笑っていない。
「おい。挨拶は?」
背中を押されるように、僕は一歩前へと進み出た。
ピアノの笑顔は、姉のドルチェの雰囲気とよく似ている。やわらかく美しい。なのに、先日の失敗プロポーズを思い出してしまい、ピアノの顔を正面から見ることができない。
「ピ、ピアノ様、お初お目にかかります。フライブルク伯爵リートの庶子、ジャスパーと申します。今後とも――」
そこで言葉が切れた。
気づいたら僕の目は、彼女の胸元へ吸い寄せられていた。
深紅の留め具。
赤が沈まないガーネット。薄緑のマントの色も、間違いなく狙って合わせている。
〈コーディネートのセンス、素敵ね〉
(だよね!)
僕もそう思う。見ているだけで興奮してきた。
「そのガーネット、きれいな赤ですね。濁っていない。薄緑のマントに、その赤がすごく映えてる」
自分でも驚くほど、声が弾んだ。
「まぁ、ジャスパー様。この留め具は私のお気に入りなのです。褒めていただき嬉しいですわ」
ピアノは少し驚いた後、イタズラっぽく笑った。
「もしかして、わたしにもプロポーズしていただけるのかしら?」
ピキッと音を立てて世界が割れたかと思った。
「め、滅相もない! どうかご勘弁を」
「あら、残念。姉はとっても喜んでいましたわよ。『かわいい男の子からプロポーズされちゃったわ』って」
あんな熱烈で真っ直ぐなプロポーズを私も受けてみたいわ、とピアノがさらに僕をからかってくる。
「ピアノ様みたいに綺麗な方、僕にはもったいないです」
僕の頭が真っ白になりかけた、そのとき。
「庶子のジャスパーが、ピアノにだと? ありえない。ふさわしいのは――俺だ!」
フォルテの声が跳ね、玄関先に静寂が落ちた。
ピアノは困ったように息をつき、それでも笑顔を崩さず言った。
「からかっただけですわ。怒鳴る殿方は――女性に嫌われますわよ」
護衛の誰かが、わざとらしく咳払いをした。
「出発の時間です」
ピアノがソナタ家の馬車に乗り込んだ直後、フォルテが僕を睨んできた。
「ジャスパー、分をわきまえないと、痛い目に遭うぞ」
捨て台詞を吐いて、フォルテは自分の馬車へと乗り込んでいった。
「そんなこと、言われなくても分かっているよ」
僕の声は、虚しく空へと消えていった。
何も言い返せないまま、僕は馬車へ乗り込んだ。
さっきの脅し文句が、まだ耳の奥に残っている。
* * *
馬車がフライブルクの街を進んでいく。
石畳を踏むたびにカタカタと音が鳴り、お尻が小さく突き上げられる。
魔法学院があるウルムまで6泊7日。
長い旅の道中、フォルテが一緒だと思うだけで、気が滅入る。
〈ねえ、さっきの子。可愛かったね〉
瑠璃さんの声が、気楽に笑う。
今は幻聴を聞きたい気分じゃない。
〈じゃあ、プロポーズしなさいよ。姉妹コンプでも狙う?〉
はぁああ?!
それをやったら、フォルテとの仲がよけいに拗れる。
〈あれ? ピアノちゃんに受け入れてもらえる自信があるってこと?〉
逆だよ。お断りされる自信ならある。
〈それなら問題ないわね〉
問題しかないよ。
姉妹に続けて断られた男なんて、笑いものだよ。
〈別にいいじゃない。だってこれ、私の見てる夢なんだから〉
ずっと気になっていたんだけど、「瑠璃さんの夢」ってなんの話?
〈寝てる時の夢。朝起きたら消えてなくなる。だったら、面白い方がいいじゃない〉
ちょっと待って。僕の幻聴が何を言っているの?
〈幻聴ってなに? 私、夢の中でジャスパー君を見てるんだけど〉
あーもうっ! 訳のわからないことを言わないでよ。
じゃあ、瑠璃さんはどこか別のところに生きてて、今眠ってるの?
〈そうよ。私は日本の自宅で寝てる。あなたは私の夢。はい、おしまい〉
そんなわけあるか。ニホンなんて地名、聞いたことない。
〈はあ? 日本を知らない?〉
シュヴァーベン大公国にも、神聖ドイツ連邦帝国にも、そんな場所はない。
〈……やっぱり変。私の知っている国名じゃない〉
反論を探したところで、馬車がガタガタと小刻みに震え、急に止まった。
「次!」
外の声が聞こえる。衛兵が書類を確かめている気配がする。城門の検問だ。
瑠璃さんへの言い返しは、喉の奥で引っ込んだ。
その空白の時間で、思い出した。
そうだ。僕も、瑠璃さんの世界を夢に見ている。
ねえ、ちょっと待って。瑠璃さんの世界、魔法あったじゃん?
〈はあ? ないわよ、魔法なんて〉
エメラルド鉱山の坑道はライトの魔法で照らされていたよね。
〈蛍光灯よ。魔法じゃないわ〉
それだけじゃない。三日前に見た夢で、瑠璃さんは落盤事故に巻き込まれてた。
潰されるはずが、潰されなかった。
瑠璃さんにのしかかる岩を、何かが支えていたみたいだった。あれって魔法じゃないの?
〈え? 待って……〉
瑠璃さんの声が、ふざけた調子を失う。
〈……その記憶、ある。落盤の直前、頭の中で「危ない」って。でも、医者は『運が良かった』って……〉
瑠璃さんは魔法なんてないって言うよね。だけど、何かが瑠璃さんを守ったって僕はあの時思った。
〈ねえ、もしかして〉
瑠璃さんの声が、少し震えてる。
〈あの時「危ない」って叫んだのはジャスパー君だった? そして魔法で守ってくれたの?〉
叫んだ。確かに、叫んだ。
ただ、守ったのかどうかは分からない。僕は手を伸ばしただけ。夢の中で。
僕が守ったというより、何かに守られたように見えたんだ。
〈じゃあ、ジャスパー君は……実在してる?〉
僕の背中に、ぞわりと衝撃が走った。たぶん、瑠璃さんも同じだろう。
答えが出た気がする。瑠璃さんは、僕の幻聴じゃない。
別の場所で、ちゃんと生きている。
〈……ねえ。私たち、夢の中で繋がってる?〉
返事を探した瞬間、左の薬指が、答えみたいに熱く脈を打った。
***
次話:第二章「偽の輪、真の印」/第六話「呼ばれなかった名前」
「フォルテ様、ようこそウルムへ」
その列の中で、僕の名前だけが呼ばれなかった。




