呼び方の距離
鳥の声がする。遠くで教会の鐘が鳴り、板張りの廊下を誰かの足音がきしませていた。
――朝だ。
目を開けると、黒く太い梁が視界を横切り、その奥に白い天井があった。
(ここは……どこ?)
蜜蝋の匂いが、僕の部屋ではないことを告げてくる。下級民の獣脂でもなく、伯爵邸の香油でもない。上級な家の匂いだ。
昨夜の記憶が、そこで一気に戻った。
特別製のビール。歪んだ視界。路地の冷たさ。
とっさに胸元を押さえる。シャツのボタンはいくつか欠け、外套はない。腰の布袋も消えていた。
(夢だったらよかったのに)
喉がひどく渇いている。頭を少し動かしただけで、こめかみがずきりと痛んだ。
視線を巡らすと、部屋の隅に机があり、女の人が座っていた。黒い上衣に、きちんとまとめた髪。男装がよく似合う人だった。
彼女は羽ペンを置き、こちらへ歩いてくる。
「目覚めたのね。調子はどう? 吐き気は?」
長椅子から身を起こすと、一瞬めまいがした。
「ここは?」
彼女はすぐには答えず、僕の顔をのぞき込んだ。目の焦点を確かめるように。
「喋れるなら大丈夫そうね。よかった」
口元がほんの少しゆるむ。その小さな変化に、肩の力が抜けかける。
しかし、昨夜の笑い声がよみがえった瞬間、緩みかけた肩がまたこわばった。
まだ安全と決めるのは、危険かもしれない。
昨夜、笑って杯を差し出した男たちだって、最初は悪い人に見えなかった。
彼女は椅子を引き、僕の正面に座る。
「私はアーデルハイト。この商会の女主人よ。あなたは?」
「……ジャスパーです」
その名を耳にすると、彼女の声がやわらいだ。
「いい名前ね。宝石と同じ名前だなんて、素敵だわ」
そんなふうに褒められたのは初めてで、張っていた気持ちがゆるんだ。
「赤い髪の色からつけたのかしら」
「そのとおりです」
アーデルハイトは机の砂時計に目をやり、すぐに僕へ視線を戻した。
「じゃあ、ジャスパーくん。まず確認。あなたはどうしてここにいるのか分かっている?」
分かっている。思い出したくないくらいに。
僕は昨日の出来事を、痛む頭の中から引き摺り出した。魔法学院の先輩を名乗る男たち。馴れ馴れしい笑い声。特別だと言われたビール。妙に甘かった後味。視界が歪み、足が動かなくなって――。
「毒酒を飲まされました。二人組の男に。入学前日だと思って油断してたんです。外套とお金を奪われて……店横の路地に捨てられました」
言葉にすると、昨夜の悔しさと、情けなさと、恐怖がいっぺんに戻ってきた。
「今、『入学前日』と言ったわね。魔法学院の新入生なのかしら?」
「はい。今日、入学です」
「新入生を狙うなんて、たちが悪いわね」
アーデルハイトは短く頷いた。表情は変わらないのに、どこか納得した気配があった。
「アーデルハイトさんが、僕を助けてくれたのですか?」
「半分はあたりで、半分は外れよ」
彼女は首をすこし横に傾けて、息を吐いた。疲れがにじんでいる。
「路地で倒れていたあなたを見つけたのは、娘のリーゼロッテ。連れてきたのも娘よ。そして、酒に混ぜられていた毒を抜いたのが私」
「もしかして解毒の魔法……ですか?」
「私が闇の紋持ちでよかったわね。遅かったら呼吸が止まっていたかも」
闇。
その言葉だけで、胸元の線が頭に浮かぶ。
(気づかれてないだろうか)
思わず胸を押さえかけて、途中で手を止める。襟元の布がひやりとした。
でも、まずはお礼を言わなければ。
「助けていただいて、ありがとうございます。解毒の魔法まで使っていただいて。おかげで、生きて朝を迎えられました」
僕の言葉に、アーデルハイトは少しだけ目を細めた。誇るでもなく、わざとらしく喜ぶでもない。ただ、僕が生きていることにほっとした顔だった。
「礼はあとで娘にも言ってね。リーゼロッテも同じ学院の一年生なの。奇遇よね」
そう言って、アーデルハイトは口元をゆるめる。
「娘と、仲良くしてくれたら嬉しいわ」
「もちろんです」
「じゃあ本題ね」
部屋の空気がぴんと張った。アーデルハイトが姿勢を正すのと同時に、僕も背を伸ばした。長椅子が軋む音がやけに大きい。
「聞きづらい話をするわ。うちの商会と娘を守るために」
その前置きで、背中がさらに強張った。
「昨夜、あなたを介抱したとき、胸の模様が見えてしまったの」
僕はとっさに胸元を押さえた。けれど、もう遅い。
「ごめんなさいね。寝ている間に確認したの。こすっても落ちないし、刺青でもない」
アーデルハイトの目は胸元ではなく、僕の顔を見ていた。逃げ道を塞ぐような視線だった。
「あなたが女性なら、闇の紋だと思ったでしょう。でも、あなたは男性。あれは何? 本物の闇の紋なの?」
言葉が喉につかえた。
「……すみません。答えられません」
「命の恩人にも?」
責める声ではない。だから、言えない自分のほうが惨めだった。
「答えたくないんじゃありません。僕にも分からないんです。どうして男の僕に、ああいうものがあるのか」
アーデルハイトの視線が、今度は僕の左手へ移る。
「じゃあ、薬指の銀白も同じ?」
(そこも、見られていたんだ)
「はい。胸の模様も、左手も。そもそも魔力紋なのか、ただのあざなのかも、僕には分かりません」
しばらく黙ったあと、アーデルハイトが口を開いた。
「入学前。誓約もまだ。魔法は使っていないのね」
僕はうなずいた。
アーデルハイトは小さく息を吐いた。
「なら、真偽は学院で明らかになるわね。そこは保留にしましょう」
「わかりました」
「次の質問よ」
アーデルハイトから刺々しさが減り、声の温度が少しだけ落ち着いた。
「あなたの服、とても上等ね。どこの出かしら。ウルムではないわよね」
「はい」
「それに、話し方が貴族のものじゃない。あなた、平民でしょう?」
申し訳なさに、肩が少し縮こまる。それでも言わなければならない。
「僕の正式な名前は、ジャスパー・フライブルクです。フライブルク伯爵の息子です」
アーデルハイトの眉が跳ね上がった。
「待って。それはおかしいわ。フライブルク伯爵の御令息が今年入学すると聞いているけど、その方はフォルテ・フライブルク様のはずよ」
異母兄の名が出た瞬間、みぞおちのあたりがきゅっと縮んだ。
「……証明するものがありません。紋章付きの外套は奪われました。財布も」
彼女の表情からやわらかさが消えた。
「貴族の名を騙るのは重罪よ。それを承知で、伯爵家の御令息だと言うの?」
「僕は、妾の子なんです」
言葉にした途端、口の中が苦くなった。
「伯爵が僕を認知したのは、魔力紋が出てからです。それまでは……子どもの数に入っていませんでした」
アーデルハイトは黙っていた。だから僕は続けた。
「母は落籍貴族でした。僕は田舎の農村で育てられたんです」
「お母様の名前と家名は?」
「母の名はアメジスタ。実家はオーバーシュタイン家です」
「オーバーシュタインですって!」
彼女の声に、はっきり別の色が混じった。
「知っているのですか?」
「知らないわけないじゃない。ここは宝石商よ。オーバーシュタイン産のアメジストも、碧玉も扱ってるもの」
言った途端、彼女の声から刺が抜けていた。
「……わかりました。あなたが伯爵家の御令息だと信じます。ジャスパー様、先程までの無礼を、どうかお許しください」
アーデルハイトが立ち上がり、深く一礼した。
僕も慌てて立ち上がった。
「やめてください。命の恩人に、そんな――」
「ですが、礼式は大切ですよ」
やさしく諭す声だった。それが余計に困る。
「……お願いです。先程までの口調で話してください。僕は、そういう扱いに慣れていないんです」
アーデルハイトがまばたきをする。
「僕、平民になるものだと思って育ったんです。魔力紋が出てから急に世界が変わって、言葉も礼儀も、何もかもが苦しくて」
できることなら、アーデルハイトとは気楽に話したい。フォルテの嫌味を受け流すのは、もう限界だった。
「今は、気を張らずに話せる方がありがたいんです」
彼女は一呼吸置いて、わずかに目を細めた。
「本当にいいの?」
「はい、ジャスパーと呼んでもらえるほうが、嬉しいです」
「私、商人ですもの。遠慮しないわよ?」
「そのほうが助かります」
その返事に、アーデルハイトがふふっと笑った。
「わかった。これからは、ジャスパーくんね」
その呼び方だけで、胸の奥が温かくなった。
「その代わり、あなたも遠慮しない。いい?」
「もちろんです、アーデルハイトさん」
「よしっ」
彼女は椅子に座り直し、僕を見た。今度は女主人というより、叱る母親の目つきだった。
「まず一つ。護衛もつけずに外へ出ないこと。高い服で酒場なんて論外よ。『奪ってください』って言いながら歩くようなものだわ」
正論すぎて、ぐうの音も出ない。
「もっと自分の命を大切にしなさい。帰る場所があるのでしょう」
その一言が、思ったより深く沁みた。
「お母様が待ってるんだから」
思い出したのは、顔より先に家の匂いだった。叱られたあと、背中へ回る手の温もりも。
気づけば、口元が緩んでいた。
「ところで」
アーデルハイトが目を細める。
「私は説教をしているのに、どうしてジャスパーくんはニヤけてるのかな?」
***
次話:第十二話「男装仲間」
「お母さん、おはよう――」
扉の向こうから飛び込んできたのは、僕と同い年くらいの男装女子だった。




