男の印
「お母さん! 大変なの!」
ばたん、と裏口の扉が夜に響いた。十月も半分を過ぎたウルムの空は、もう墨色に沈んでいる。
宝石の色が濁らないよう、事務所の灯りは煤の少ない蜜蝋だ。机の上に落ちる光の中で、私は仕入帳を確認していた。
その静けさを破るように、リーゼロッテの声が階下から跳ねてくる。
トントントン。二階へ続く階段を駆け上がり、勢いのままに娘が顔を出した。頬が熱く、息が切れている。腰の鍵束が小さく鳴った。
「そんなに慌てて。どうしたの?」
私は帳面から顔を上げ、羽ペンを置いた。
「まずは報告。工房は何事もなかった?」
「うん! 封蝋も錠前も、ちゃんと。でも、それどころじゃないの!」
娘は喉を鳴らすように息を呑んだ。
「裏の路地で、女の子が落ちてた! 放っておけないから連れてきたの」
また大げさな言い方を。
リーゼロッテは昔から、拾い物の報告が多い。
綺麗な石や錆びたコインならまだいい。この間は犬を拾ってきた。
「今度は、子猫でも拾ってきたの?」
「違う! 人間の女の子!」
人間を拾ってきた?
私は額を抑え、息を吐いた。さすがに、ない。
「リーゼロッテ。うちは商会で、孤児院じゃないの。……分かってる?」
「分かってる! でも、死んじゃう。あのままじゃ、絶対に!」
訳がわからない。けれど、その必死さだけは、嘘じゃない。
そこへ護衛のクラウスが、重い足音を響かせて階段を上がってきた。
「アーデルハイト様、お嬢様の言う通りですぜ」
そういって彼が運び込んだのは、人だった——お姫様だっこで。
「ちょっと、クラウス……!」
長椅子へ下ろされたその子は、抜け殻みたいに力がない。
ズボンに、上質の白シャツ。襟の仕立てだけでも、下町の品ではないとわかる。
なのに上着がない。剥ぎ取られたのだろう。胸元は乱れて大きく開き、喉元から鎖骨のあたりが覗いていた。
細い首、華奢な肩。しかし、腰の線は女物の作りではない。
「……体つきは、男の子ね」
私が言うと、リーゼロッテがぱっと身を乗り出した。
「違う! ここ見て!」
娘の指が、覗いた鎖骨の少し下をぴたりと示す。
胸骨のくぼみから下へ、夜色の線が肌に沈んで伸びている。それは闇属性の魔力紋。
「女性の魔力紋ね」
「でしょ? 顔も小さくて可愛いし、三つ編みも似合ってる。男装している女の子よ!」
この街で女が男の格好をするのは珍しくない。そう考えれば、筋は通る。
クラウスが鼻を鳴らした。
「服も上等ですぜ。貴族か、いいとこの商人の娘でしょうな。保護しときゃ謝礼も……」
「お金の話は後よ」
私はしゃがみ込み、口元へ手を近づけた。
息はある。けれど、匂いが……おかしい。
酒気に混じる、妙な甘さ。さらにその奥に、薬草めいた苦味。
飲まされたのは酒だけじゃない。
「……嫌な匂いね」
「毒ですかい」
クラウスが顔をこわばらせる。
「でも、まだ間に合うわ」
リーゼロッテが唇を噛んだ。
「お母さん、この子、助けられる?」
「もちろん」
私は娘を見て頷いた。
「よく連れてきたわ、リーゼロッテ。ほんとうに。ここからは私がやる。少し下がっていて」
自分の胸元へ視線を落とす。鎖骨の少し下。私の闇の魔力紋。
こんなときに頼れるのは、闇だ。
右手を、その子の額へそっと当てる。熱はない。だが、肌の奥がざらついている――嫌な感触。
左手の指先で、自分の魔力紋をなぞった。
祈りは短く、刃のように。
「闇の神に請願す。我が手に毒を癒す力を宿したまえ——エントギフテン」
魔力紋が漆黒へと沈み、紫がかった闇煙がひとすじ立ちのぼる。
迷いなく右手へ絡み、額へと吸い寄せられていく。
光さえ呑む闇が、身体の奥に潜む毒だけを撫で取った。
ひと息。もうひと息。苦い甘さの気配が薄れ、残ったのは酒気の香り。
ふぅ、と息が漏れる。指先が冷えた。
「……終わったわ」
私は背筋を伸ばし、何事もなかった顔を作る。娘の前で崩れるわけにはいかない。
リーゼロッテがほっとした顔で、倒れた子を覗き込んだ。
「息が……落ちついた……?」
「ええ、今夜はここで寝かせましょう。クラウスもありがとう。あとは女手で足りるわ」
私は声を落として続けた。
「裏口と通りを見張ってくださる? 誰かが来たら、すぐ知らせて」
「へい。任せな」
「それと、このことは秘密よ。噂の種はいらないわ」
「うん」
リーゼロッテは真剣に頷いた。
その顔が、ほんの一瞬だけ幼くなる。怖かったのだ、と今さら気づく。
なのに次の瞬間、娘は倒れた子を覗き込み、小さく拳を握った。
「……この子、私より胸がない」
言った途端、耳たぶまで赤くなる。慌てて髪をいじっているのに、目だけは妙に勝ち誇っていた。
「リーゼロッテ、あなた……」
「だって! 女の子なら気になるでしょ?」
私はこめかみを抑え、ため息を飲み込んだ。疲れが背中にのしかかる。けれど、今は先にやることがある。
「お湯を沸かしてちょうだい。布と着替えも。まずは汚れを落としましょう」
リーゼロッテは私のそでをつかみ、つぶやいた。
「お母さん、あのね。……私、助けたかったの。本当に」
私は返事の代わりに、娘の背中へ手を置いた。
「助けるなら、最後まで責任を持つのよ」
「うん」
私は乱れたシャツの襟元に指をかけ、開いた胸元をそっと寄せようとした。
その瞬間、倒れた子の右手が力なく滑り落ちる。
蝋燭の灯りにきらりとしたのは、指輪ではない。
中指の付け根に刻まれた土の魔力紋――それは男に出る場所、男の印。
……え?
胸元には女の証である闇の紋がある。
それなのに、右手は男。
確かめるように腰へ手を回す。触れた骨盤は狭く、その下で乱れたズボンの前が不自然に浮いていた。
この子、女じゃない。
なら――あの胸元の紋は何?
***
次話:第十一話「呼び方の距離」
「ジャスパー様」
その呼び方だけで、僕の背筋が固まった。




