その首飾り、僕にください
「その首飾り、僕にください——じゃない。僕と結婚してください!」
胸が高鳴る。これが運命ってやつに違いない。
僕の理想が目の前にいる。胸の奥で、祝福の鐘がカラーンと鳴った。
返事もすぐだ。「はい」と、たった一言。
……のはずだった。返ってこない。
もしかして照れてる?
そう思った瞬間、舞踏会の空気が、ひゅっと凍った。
楽団の弓が止まり、笑い声が消える。
シャンデリアの蝋燭が燃える音だけが、やけに大きい。
あれ? なんか、まずい。
遅れて、声のさざ波が押し寄せた。
「え?」
「いま……結婚って……?」
「あの子……フライブルク伯爵家の……?」
無数の視線が、針みたいに突き刺さる。
そうだった。ここは社交界。十五歳になった僕の舞踏会デビュー。全員が僕を見てる。
目の前の当人――ドルチェ嬢は、頬を少し赤らめて困ったように微笑んでいる。胸元にエメラルドの緑が映えて、とてもまぶしい。
「あの、フライブルク伯爵家の、ジャスパー様……ですよね?」
『ですよね?』と確認されてしまった。つまり彼女は、僕を知らない。
たしかに僕も、ドルチェ嬢とは初対面だ。
それでも運命は運命だろ? ね?
「は、はい! ジャスパーです! えっと、その……結婚?」
口が勝手に動く。なんで疑問形なんだ。
頭は真っ白なのに、喉だけが妙に元気。
――どうして、こんな空気になった?
さっきまで祝福されてる気分だったのに。
答えは、数分前にある。
【数分前】
「ソナタ男爵家ご令嬢、ドルチェ様がお見えになりました」
召使いの声とともに扉が開いた。そこから入ってきたのは、絵本の挿絵みたいに綺麗なお姉さんだった。
淡いプラチナブロンドが肩に落ち、白い肌が光を透かす。背筋がすっとのびていて、歩き方に迷いがない。
綺麗だ。息を呑むほどに。
なのに、僕の視線は彼女の顔よりも先に、胸元へ吸い寄せられた。
首飾り。
僕は昔から、人より先に宝石を見てしまう。
細い金のラインに、小さな石が途切れず並ぶ。中心に位置する深緑の長方形が、シャンデリアの光を受けて、すっと暗く沈み……次の瞬間、鮮やかに輝いた。
エメラルド。
森の奥の湿った影、朝露の冷たさ、春先の若葉の匂い。あらゆる緑を閉じ込めている。
左右には、万緑を思わせる蔓草の細工が走り、最後に雫型の石がひとつ、ドルチェ嬢の胸で小さく揺れた。
その揺れを見た瞬間。左手の薬指が、じわりと熱を持った。
「え?」と思って自分の手を見る。
白い手袋の下。指の付け根のあたりが、ほんの少しだけ温かい。
わけがわからない。
ただ、身体の奥の何かが、宝石によって目を覚ました。そんな感じがした。
そこから先は、もっとおかしい。
周りのざわめきも、笑い声も、楽団の曲も遠のく。
僕の世界は、あの緑の光に満たされていた。
(すごい)
綺麗、なんて一言じゃ足りない。胸が躍る。これが運命ってやつに違いない。
出会った瞬間、恋に落ちた。
(行かなきゃ)
誰に命じられたわけでもないのに、足が動く。
礼儀作法? 知らない。習ったはずなのに全部抜け落ちた。
人垣を割って、僕は彼女の前に出た。
「ドルチェ様!」
振り向いた彼女の顔に気づく前に、僕の視線は胸元の深緑に落ちていた。
首飾り。
光を受けたエメラルドが、星みたいに輝く。そのきらめきを見た瞬間、僕の中の熱が一段と跳ね上がった。
僕は首飾りに恋している。
わかっているのに、目が離せない。
次の瞬間、左の薬指が熱く脈を打った。
指輪。花嫁。結婚。考えるより先に、口が動く。
そして僕は、最悪のプロポーズをした。
「その首飾り、僕にください——じゃない。僕と結婚してください!」
そして今。
静寂を破ったのは、誰かのくすくす笑いだった。それが合図になって、ざわめきが一斉に広がる。
ドルチェ嬢は困ったように微笑んだ。
胸元を押さえたせいで、エメラルドの緑が小さく揺れる。
僕の目はその揺れに奪われている。
「あの、ジャスパー様。お言葉は光栄です。でも……」
彼女の指が、そっと胸元に触れた。僕の視線から首飾りをかばうように。
「その……私ではなく、エメラルドを……見ていらっしゃいましたよね?」
言葉が胸に突き刺さった。見抜かれていた。僕の目が、彼女ではなく石を追っていたことを。
そして、僕が答えを返す前に、背後から冷たい声が斬りかかってきた。
「おいおい、妾腹のくせに、ずいぶんと大きく出たな」
振り向くと、同い年の異母兄——フォルテが、薄く笑って立っていた。
目が合った瞬間、僕は理解した。こいつ、楽しんでる。
「知らないのか? ドルチェ様は——」
フォルテはわざとらしく、舞踏室全体に届く声で言った。
「明日、アパッショナート兄様の花嫁になる方だ」
終わった。いろいろ終わった。
フォルテの実兄。つまり、僕の異母兄の花嫁。そんな相手に僕はプロポーズしたのか……。
穴があったら入りたい。いや、埋めてほしい。
顔が熱い。視界がにじむ。その中で、深緑の首飾りだけが鮮やかに浮かんでいる。それが、ぱきん、と音を立てて砕けた気がした。
何か言おうとしたけど、言葉が見つからない。探すより先に、足が勝手に後ろへ下がっていた。
背中に刺さる視線が痛い。笑い声が痛い。
何より、ドルチェ嬢の困った微笑みが痛い。
「ご、ごめんなさい」
その言葉を残して、僕は逃げた。
階段を駆け上がり、廊下を曲がり、息も整えないまま自室の扉を閉めて鍵をかける。
背中を扉に預けた瞬間、足から力が抜けて座り込んだ。
「何やってんだ、僕」
手袋を引き抜いて、左手を見る。薬指に、もう熱はない。
なのに、さっきの光景がやけに鮮明に戻ってくる。
困らせてしまった。あんな顔をさせたかったわけじゃない。
どうして、あんなことをしたんだろう。
でも、はっきりしていることが一つある。
僕を動かしたのは、ドルチェ嬢じゃない。胸元の緑だった。
首飾りが視界を奪って、頭の中が真っ白になった。
そして僕は、宝石に求婚した。
馬鹿だ、僕。
「もう二度と、舞踏会なんて行きたくない」
そう思いながら僕は目を閉じた、その夜。
緑の光の向こうで、僕の知らない声が命じた。
「伏せろ!」




