第8話 ニゲネコ
ーーあの時、逃げなければよかった。
ネコと暮らして、八日目。
朝のニュースで、
大学の合格発表の映像が流れていた。
笑って抱き合う親子。
泣き崩れる親子。
「……。」
コーヒーの湯気はもうとっくに消え、トースターの中のパンも熱を失いかけていた。
別に羨ましくもない。
でも、視線をそらせなかった。
きつい臭いが時間を動かした。
振り返ると、ネコは悪い顔でこちらをみていた。
カバンに染みが出来ている。
「おい。いつになったらトイレの場所覚えてくれるんだよ。」
ネコは太々しい顔で砂かきをしている。
「代わりのカバンあったっけ?」
昨日、実家から持って帰ってきたピンクの箱を開け、ねこが使っていたリュックを手に取った。
「久しぶりに見たな。」
リュックの小さなポケットが、膨らんでいた。
「こんなとこに何か入ってるのか?」
指を入れると、
くしゃっとした紙袋が出てきた。
中には、合格祈願の御守りが二つ。
同じ色。
同じ神社。
一つは、まだ袋から出されていない。
「……。」
ネコが、フードの中に入ってきた。
瑞生は、何も言わず、
紙袋をリュックに戻し、
慣れない感覚のまま、玄関を出た。
「いつも気になってるんだけど、仕事中ずっとロッカーにいるのか?」
ネコは小さく喉を鳴らす。
「別に家にいてもいいんだぞ?」
返事は返ってこないが、フードの中の温もりが背中に伝わってきた。
最近、仕事があっという間に終わる気がする。
今日も、気付けば窓の外はオレンジに染まり、
終了のチャイムが響いていた。
帰り道、駅前のホームで制服姿のカップルがベンチに座っていた。
2人の膝の上、〇〇大学 獣医学部のパンフレットが瑞生の目に飛び込んできた。
足が止まった瞬間、フードの中からネコが飛び出した。
そのネコの姿は、最初に見た時より全体的に色が濃くなってる気がして、いつものネコじゃないみたいだった。
でも、いつもの悪い笑みを浮かべ、2人の足へ擦り寄った。
気のせいか?と思った瞬間、
空っ風がホームを吹き抜け、オレンジを掻き消し、金色に染めた。
ーー少し前の2人。
彼女は、ホームのベンチに腰を掛けるなり、彼を睨みつけ、
「どうして、一緒に行こうって言ってたじゃん。」
彼は、吹っ切れた口調で、
「俺は就職でいいって。
確かにやりたいとは思ったけど、他にやりたい事
が出来てさ。」
強くない声が、この話を早く終わらせたいようにも聞こえた。
「卒業して、一緒に住む部屋も見つけたのに?」
「そうだよ。丁度やりたい仕事がその大学の近くであったからさ。一緒に行けるし、一緒に帰れるからいいじゃん。」
「そういう問題じゃないよ。私との夢は?」
「……。」
彼はうつむいたまま、何も返さなかった。
ビジョンが揺れて、ゆっくりと消えた。
「僕にもあったよ……全く同じ状況。」
胸の奥が、じんわり濡れる。
ネコは2人が持っていたパンフレットを咥え、瑞生の方へ向かってきた。
「バカッ!何やってんだよ。」
カップルはその事に気づいていないのか、そのまま話している。
慌てて取り返そうとすると、ネコは瑞生の手を引っ掻いてベンチの方へ走って行った。
「っつ!何だよ。」
さっきの金色が一段と濃く光り、瑞生を包んでいった。
ーーその後のカップル。
うつむいたままの彼の肩に、そっと手を置いた彼女が口を開いた。
「大丈夫だよ。本当のこと、教えて?」
彼は決心したのか、うつむいていた顔をあげて、
まっすぐ彼女を見つめた。
「このまま受験しても、俺の学力じゃ行けないっ
て、先生にハッキリ言われたんだ。
でも、お前には夢を諦めてほしくないんだよ。
今さら、こんなこと言うの、恥ずかしくてさ…。」
強い視線を優しく受け止める彼女の目に映る自分を見て彼は自信を取り戻した。
「現実から逃げたいくらい恥ずかしくてさ。
でも、俺はお前の人生から逃げたくないから、
この選択しかなかったんだよ。」
彼女の目に映る自分がユラユラと滲み、大きな目から涙が落ちた。
「ごめんね。
……。
ありがとう。」
彼女の顔が肩に落ちた。
「今は頭を撫でることしかできないけど、
この先はもっとやってあげられることがきっとあ
るから。」
騒々しいホームに、2人は溶け込んでいった。
ーー瑞生の時。
うつむいたままの僕の肩に、そっと手を置いたねこが口を開いた。
「大丈夫だよ。本当のこと、教えて?」
僕はねこの顔を見るのも怖くて、自分の汚れたスニーカーを見ながら口を開いた。
「さっきさ、先生と進路の話をしたときにさ、
どっちでもいいですって言ったら、じゃあ、
就職だなって言われて…。」
「どっちでもいいって…。
一緒に獣医さんになるんじゃなかったの?」
本当は、後悔していた。
このまま努力しても行けるかどうか分からない。
自分の学力の無さを告白するのが恥ずかしかった。
だから、楽な言葉を使った。
“どっちでもいい”は僕にとって魔法の言葉だった。
今さら、そんな事をねこに言えるわけもなかった。
僕の目に映るスニーカーは、さっきより汚れている気がした。
「そっか。でも、一緒に住むのは諦めてないんだよ
ね。じゃあ、進む道は違うけど、いる場所は
一緒なんだね。」
笑って喋るねこの目に映る僕の姿は、何重にも重なっていた。
頭を撫でてやるどころか、僕はうつむいたままだった。
「あの時、恥ずかしさのあまり、ねこから逃げて
しまっていたんだ…。
逃げた僕を、ねこが優しく戻してくれ…。」
「ヴニャーーーーーアアア!!!」
「えっ?」
空っ風がビジョンを掻き消し、現実に戻った。
ベンチにカップルの姿はなく、背もたれと椅子の間に顔が挟まり、動けなくなったネコの下半身が暴れていた。
「何やってんだよ。」
ネコの身体を優しく掴み、ゆっくりと引き上げていると、
「ブォッフ!」
「っくっさっ。」
いつもの異臭が鼻に直撃したが、僕は手を離さず、そのまま引き抜いた。
ネコはまるで、「逃げずにやれば出来るだろ?」
という顔で僕を見つめ、フードへと入った。
足元に落ちていたパンフレットを拾い上げた。
僕は、また一歩踏み出した。




