第5話 ナキネコ
ーーあの時、泣いてよかったんだ。
ネコと暮らして五日目。
仕事を終え、改札を抜けた。
ネコと暮らすようになってから、どうも“変なこと”が起きる。
それが起きるたび、周りの視線が気になってしまう。
だから今日は大通りを避け、一本奥へ入り込んだ道を選んだ。
街灯は少なく、
住宅の明かりがぽつぽつと道を照らしている。
空気は湿っていて、
線香の匂いが、微かに混じっていた。
ふと、前を見ると、
黒い服の大人たちが静かな声で話している。
白い大きな提灯が目についた。
——お通夜だ。
会館の中には沢山の人がいる。
でも、外に一人だけ、
拳を握り、俯いて立っている少年がいた。
肩が、小刻みに震え、その目に光はなかった。
会館の前を通ると遺影が見えた。
優しそうな顔の男性。
たぶん……この子のお父さんだ。
その瞬間、嫌な予感が的中した。
フードの中の温もりが、ざわつきだした。
「……っ」
瑞生は反射的にフードの口を、手で押さえた。
(バカ!今は、出るな……!)
中で、ネコが暴れる。
背中がぐにゃりとなる感触。
耳が折れる感触。
爪で引っかく感触。
「お願いだからやめてくれ……頼む……」
歯を食いしばり、耐える。
ネコの動きが、次第に弱くなっていく。
小さく、震える気配。
……勝った。
ホッと、息を吐いた、その瞬間。
「ブォッフ!」
秒で広がり鼻を刺す異臭。
「……っ!」
思わず手を離した。
ネコは、してやったりの顔でフードから飛び出し、
そのまま、少年の足元へ、すっと近づき、足に擦り寄った。
少年は驚いたように顔を上げ、
そのまま、しゃがみ込む。
ネコは、クソ生意気な顔で振り返り、
こちらを見る。
空っ風が、道を抜けた。
視界が金色に染まり、ビジョンが映し出された。
——数日前の少年。
病院の廊下は、静かだった。
消毒液の匂いと小刻みに鳴る機械の音。
ベッドの上で、父が笑っていた。
「男の子は、泣くな…」
弱った声なのに、
その言葉だけは、はっきりしていた。
「お父さんがいない間、お母さんを守ってくれ。
約束だぞ」
少年は、何度も頷き、父の手を強く握り返した。
「うん… 早く家に帰ってきてね。」
希望に満ちた声が廊下に響いた。
——数日後。
少年の願いは届かぬまま、
父は、少年のもとに帰ってきた。
お通夜の席。
少年は人目を気にせず、棺の前で父との思い出に浸り、呆然と立っていた。
母が、少年の肩にそっと手を置き
「泣いていいんだよ」
その言葉に、少年は反射的に答えた。
「……別に、悲しくないよ」
空気が、止まった。
大人たちの視線が喉に絡みつく気がした。
母の、困ったような顔が目に焦げ付く。
少年は、思わず、逃げるように外へ出た。
ビジョンが途切れた。
胸の奥が、じんわりと濡れた。
「……僕にもあったよ、全く一緒のことが…」
声にならない声。
ネコは少年の足に擦り寄り、颯爽と中へ駆け込んだ。
「バカ!駄目だよ!」
瑞生もあとを追おうとしたが金色が強く光った。
ーー数時間後
人が帰り、
母が玄関で見送っている隙に、少年は、棺の前へ戻った。
一人で棺にしがみつき、抑えていた感情を解き放った。
声にならない声と、棺の中が溢れそうなくらいの涙。
時間なんて、分からなかった。
「お父さん……
約束、破ってごめんね……
もう… 無理だよ……」
「でも……、 お母さんは守るよ…。」
その姿を、
母は、遠くから、黙って見ていた。
少年が落ち着いた頃。
そっと、隣に座り、寄り添った。
「1人じゃないから…」
別のビジョンが、重なる。
——瑞生の記憶。
病室。
細く、薄くなった父の掌。
僕に、何度も、何度もパスをくれた手。
力強いドリブルや、バスケットボールの魅力を教えてくれたこの手が…。
バスケに触れなくなった本当の理由…。
父との約束。
「せめて泣かない約束だけは守るよ。」
お父さんは家に帰ってきた。
もう、話せない、動かない、白い服で…
お通夜当日。
涙が、溢れそうになった瞬間、
母が言った。
「泣いていいんだよ」
瑞生は、咄嗟に笑ってみせた。
「別に悲しくないよ。
さっき、足ぶつけて痛いだけ」
それから、
父の側にいると泣いてしまいそうで、親戚の人達の冷たい目線をくぐり抜け、距離を取った。
泣かないように。
約束と母を守るために。
——でも、その言動と行動が
母との間に、溝を作った気がしていた。
でも……
「あの時、泣いてよかったんだ……」
言葉が、胸に落ちていく。
ちゃんと、お父さんに謝って。
怒って。
寂しいってぶつけて。
——もしかして、今までの、ビジョンは僕に気づ……
「ブニャーーーーーーーアアア!!!」
変な鳴き声と空っ風が、すべてを掻き消し、
現実に引き戻し、ビジョンが消えた。
少年はそこにいなかった。
残っていたのは、さっきの異臭とは違う異臭。
ネコの慌てて吹き消す声。
「フーッ! フーッ!!」
火が消える。
「だ、大丈夫か?
もしかして、ロウソクに触ったのか?
だから中に入るなって言ったんだよ。」
ネコは我慢していつもの顔をしている。
でも、ちゃっかりマンホールに肉球をつけていた。
瑞生は、スマホを取り出し、
震える指で、文字を打った。
《元気にしてる?
今まで言えなくて、
あの日強がってごめん。
本当は、お母さんを守る為に言っただけで。
泣きたかった。》
少しして、母から返信がきた。
《知ってるよ。瑞生は、強すぎるんだよ。》
視界が、滲んだ。
溝があると思っていたのは、自分だけだった。
涙が、止まらない。
「……今日は、泣いていいよな?
ネコも泣いていいよ。
熱かったろ?」
ネコは、何も言わない。
でも、目は潤んでいた。
小さく喉を鳴らし、フードに入った。
瑞生は、泣きながら、歩いた。
フードの中は、涙で冷たいはずなのに、何故か優しい温もりに思えた。
やっと、何かと一緒の方向へ進んだ気がした。




