第3話 オコネコ
本日のテーマは怒る
ーーあの時、怒ればよかった
ネコと暮らして、三日目。
仕事を終え、ロッカーの前で立ち止まる。
作業服のポケットを探るより先に、
自然とパーカーへ手が伸びていた。
フードの中には、
当たり前のように、ネコがいた。
こちらを見るでもなく、
丸まったまま、しっぽだけを小さく動かしている。
連日の出来事は、もう夢じゃない。
フードの縁をつまみ、
その重みを確かめる。
「……トイレは、どこでしてるんだ?」
返事はない。
けれど、確かに、そこにいる。
フードを被らないだけで、
街の音が、やけに近い。
人の咳払い。
靴底が濡れた地面を擦る音。
車のタイヤが水を弾く音。
全部が、耳に刺さる。
改札を抜け、ホームへ向かう。
今日も、駅員は僕に微笑まなかった。
……いや、
きっと、もともと微笑んでなんかいなかったんだ。
僕が、見えていなかっただけで。
電車が到着する。
フードを被らなくなって、ドライヤー以外で
僕の髪をくしゃくしゃにする存在が、
目の前に滑り込んできた。
車内は、今日は少し空いている。
背中を丸めて座席に腰を下ろすと、
吊り革が、ぎしりと鳴った。
雨は、いつ止むのだろう。
——そう思った瞬間だった。
背中の温もりが、
小さく、動いた。
ネコが、フードの中から僕の肩に前足をかけ、
顔を出した。
(っ。戻れって)
指先が、少しだけ震えた。
視線の先。
フードを被り、背中を丸めて座る、小学生。
「今、出てきちゃ駄目だよ。……バカ。」
小声で注意しながら、フードへ戻そうとした、その瞬間。
ネコは、僕の指に、噛みついた。
「っ……!」
痛みより先に、
懐かしい感覚が胸を掠める。
この感じ。
周りに気づかれる怖さより、
あの頃に、戻る気がした。
次の瞬間、
ネコは僕の肩からすらりと飛び出し、
小学生の足元へ擦り寄った。
そして、
太々しい態度で、こちらを睨みつける。
すると、頬を切るような空っ風が、
車内を吹き抜ける。
思わず、目を閉じた。
視界が、
金色に染まる。
——数時間前。
校舎の窓は、白く曇っていた。
濡れた傘の匂い。
雑巾の匂い。
湿った教室の匂い。
ランドセルを背負った少年が、
廊下の端で立ち止まっている。
フードを、深く被っている。
教室の扉が開く。
中から、いつもの声。
「おい、お前今日も被ってんの?」
「忍者かよ」
くすくす、と笑い声。
からかいというより、
軽いノリ。
でも、少年は、動かない。
「何だよ。忍法でも使うのか?」
その一言が弾けた瞬間、空気が、薄くなった。
笑い声が、
心と喉を、少しずつ潰していく。
ビジョンは消え、目の前に、ネコと少年がいた。
床に落ちた水滴が、
いつの間にか、靴のつま先を濡らしていた。
胸の奥が、じんわりと、濡れた。
「僕にもあったよ…… 全く同じ出来事……」
ネコは、
まだ僕を睨んでいる。
(帰ったら覚えとけよ。ご飯、あげないからな)
心の中で、そう思った瞬間。
ネコはもう一度、
少年の足に擦り寄り、僕に背中を向けた。
そして、
申し訳なさそうな視線を送り、
小さく、震えだす。
(……言い過ぎたかな)
その時だった。
強い金色の光が、僕を包み込む。
——昼休み。
雨は、
止むことを忘れている。
窓の外、
校庭は水たまりだらけだ。
誰かが言う。
「おい!忍者!
あの水たまりに飛び込んで修行してこいよ!」
雨より冷たい笑い声が、心を震わせる。
「何だよ。泣いてんのか?」
一人が、少年の顔を覗き込む。
フードの影から、目だけが見える。
鋭く、尖った目。
そして、
口が開いた。
「……じゃあさ、
雨の日に外でカッパ着て働いてる人、
みんな忍者なのかよ?」
一瞬、教室が止まる。
少年は続けた。
止まった分だけ、ネジを巻いたみたいに、言葉が溢れる。
「戦でもやるのかよ。
じゃあ雨の日に外で働いてる人は、
仕事辞めて、水たまりに飛び込むのかよ?」
——沈黙。
次の瞬間。
「……っ、なにそれ」
誰かが、吹き出した。
笑いが、
じわじわと、広がる。
腹を抱えるほどじゃない。
でも、確実に、空気が変わった。
「忍者、喋れるじゃん」
「つーか、今の、ちょっと面白い」
少年は、
まだ怒っている顔をしている。
でも、その怒りは、
誰かを殴る方向じゃなく、
言葉の方向へ、向いていた。
誰かが言った。
「……喋ったら面白いのに、
もったいないよ。
休み時間、忍者も一緒に遊ぼうよ。」
その言葉は、ずっと後になって、別の誰かから、
同じ形で返ってくる気がした。
別のビジョンが、
重なる。
——瑞生の昼休み。
「おい、ネズミ男。
今日は他の妖怪と戦わないのか?」
雨より冷たい笑い声。
「何だよ。
泣いてんのか?」
一人が、
瑞生の顔を覗き込む。
瑞生は顔を伏せ、
言葉を飲み込んだ。
(雨の日に外でカッパ着て働いてる人、
みんなネズミ男かよ。
ネコ娘と戦争でもする気か?)
僕が怒ったら、
相手はもっと怒る。
そう、思い込んでいた。
「怒ってよかったんだ……
あの時、ちゃんと言いたいことを言ってお……」
「ザッ!ザッ!ザッ!」
「???!!!」
空っ風が、ビジョンを掻き消す。
異臭が、現実を引き戻した。
少年はそこにはいなかった。
ネコの横に小さな黒い物体が、数個。
「!!!」
僕は慌てて拾い上げ、
カバンの中へ放り込む。
誰にも見られていないはずなのに、
なぜか、一番、顔が熱かった。
さっきの震えは、泣いていたんじゃなかった。
ネコは、
可愛い顔で首を傾げる。
まるで、
「どうだ?」
と、聞いてくるみたいに。
(何がどうだ?だよ。車内でこんな事しやがって。)
僕は、答えなかった。
答えられなかった。
ネコは何事もなかったように、
またフードの中へ潜り込む。
その重みが、
前より、はっきりと伝わってくる。
——毛並みが、また少し、濃くなった気がした。
雨音を聞きながら、
僕は歩き出す。
「家に着いたら、
しっかり怒ってやるからな。」
「ニャッ!ニャ~。」
「……怒らせたのは、お前だけどな。」
言葉は、雨に吸われて、消えた。
カバンの中の温もりと、異臭に、足を止めかける。
それでも、
フードの温もりが、背中を押す。
僕は、
もう一歩、踏み出した。




