第10話 ねこネコ
ーーあの時、こうしていればよかった。
そんな後悔が、僕を包んでいた。
でも今は、どっちでもいい。
……いや。
違う。
僕は、手を伸ばした。
ネコと暮らして、十日目——?
視界は霧で覆われたようにぼやけていた。
ゆっくりと、ピントが合っていく。
伸ばした手の先に、
見慣れない天井と、白い蛍光灯。
耳に残る、ブレーキ音の残響。
それを、規則正しい電子音が塗り潰していく。
口の違和感。
……酸素マスク?
病院?
状況が追いつかないまま、
さっきの記憶を呼び起こそうとする。
でも——
何も、返ってこない。
十日間の記憶が、
頭の中で、二重に重なった。
どっちが、本当なんだ。
その時、カーテン越しに影が揺れた。
「瑞生?」
母の声だった。
慌ててカーテンが開き、
僕の手を、強く握った。
「良かった……」
「母さん……? 俺……」
「ちょっと待ってて。
すぐ先生呼んでくるから。」
離れようとする手を、
思わず、強く握り返した。
「ネコは?」
母は、一瞬きょとんとしてから、
少しだけ笑った。
「そうそう、ねこちゃんもさっきまでいたのよ。
連絡してあげないと。
それと、もう少しで、瑞生の会社の社長さんも
くるのよ。
毎日、仕事終わりに来てくれていたんだから。
……その前に先生呼んでくるね。」
そう言って、手を離し、
病室を出ていった。
僕はゆっくりと起き上がった。
身体中に巻かれた包帯。
でも、不思議と痛みはなかった。
「……大袈裟だな。」
そう呟いて、視線を横にやった。
椅子の上に、綺麗に畳まれた服。
その上に、パーカー。
フードの部分が、
少しだけ、膨らんで見えた。
ベッドから降りて、
そのままフードに手を当てた。
期待していた感触は、
そこになかった。
ゆっくり、覗き込むと
グレーの毛が、数本残っていた。
柔らかい感触。
——確かに、そこにいた感触。
気づいたときには、
僕はパーカーに袖を通していた。
病室の扉を開け、廊下へ踏み出した。
ナースステーションで、
母が看護師と話している。
「本当に良かったですね。
十日も意識が戻らなかったのに……」
その声は、もう遠かった。
僕は、そのまま病院を出た。
外の空気が、少し冷たかった。
音が、耳を刺激した。
車の音。
風の音。
誰かの話し声。
全部が、ちゃんと近くにあった。
——こんなに、広かったんだ。
駅を横切ろうとした時、足が止まった。
視線を上げると、いつもの駅員さんがいた。
——ちゃんと、目が合った。
一瞬。
小さく、笑った。
向こうも、笑った。
それだけでよかった。
改札の向こうから、正装に身を包んだ見慣れた歩き方の男性が僕を見て、足を止めた。
僕は軽く会釈をして、夕日が射す方へと駆け出していった。
公園から楽しそうに出てくる小学生達。
バスケットボールを手に、談笑しながら歩く
部活帰りの中学生たち。
軟らかい笑顔でカラオケボックスに入って行く
高校生カップルたち。
希望に満ちた目で語り合う男女。
目に焼き付く現実。
目を逸らさず走った。
気がつけば、あの場所にいた。
白いガードレール…。
思わず足が止まった。
帰宅ラッシュで行き交う人々。
渋滞で少しづつ進んでいる車。
1つ、また1つ灯っていく街灯。
心の何処かで期待している金色の世界。
感じられない背中の感触。
"どっちでもいい"から会いたい
いや、
"どっちもいい"だから、どっちも会いたい。
その時、向こう側の歩道のガードレールのポールの上に見覚えのある、太々しい背中が視界に入った。
「ネコ?」
コチラに背を向けたまま、ガードレールの下を歩いていく。
僕は横断歩道を探しながら、平行に歩く。
もう…
迷わない。
「ネコ…。
もう一度、一緒に暮らそう!」
そう放った言葉の方へ走り出そうとしたその時、
「えっ?」
聞き覚えのある声をこぼしながら振り返る女性の姿
ーーねこ?
足が止まった。
斜め前の横断歩道。
まるでスポットライトのように女性を照らす街灯。
そこには、親近感溢れるパーカーを着たねこの姿。
僕はゆっくりと一歩を踏み出す。
青に変わる信号。
立ち止まったままのねこ。
僕は階段を登るように、横断歩道を渡った。
彼女の目が薄っすらと滲んで、開きそうになった
口に僕は人差し指をあてた。
「ごめん。
嘘をついてた…
本当は別れたくなんかない。」
ねこは言葉を飲み込み、涙で答えた。
僕は思わず、ねこを抱きしめた。
「ブォッフ!」
聞き覚えのある音と、異臭が僕たちを包み、
思わず手を離した。
「やだっ。
せっかくカッコよかったのに。」
「違うよ。僕じゃないよ。」
泣き笑うねこの顔の横から、悪い顔が出てきた。
つい笑みがこぼれた僕はネコを指さした。
「犯人いたよ。」
その瞬間、ネコはフードから抜けて僕たちの足元に降り立った。
「やだっ!可愛い!いつのまに?」
その瞬間、ネコは僕たちに擦り寄った。
僕は思わずねこの手を掴んだ。
でも、空っ風は吹き抜けず、視界も変わらなかった。
さっきまで期待していたのに、今は安心している。
「どうしたの?」
「えっ?
何もないよ。
ちゃんと、いるんだなって。」
「なにそれ。」
「コイツ、どうする?」
「瑞生が決めてよ。」
瑞生はネコを抱え
「じゃあ、連れて帰ろう。」
「……。」
「名前はネコ。」
「私と一緒?」
「こっちはカタカナだから。」
「わかんないよ。
でも、いいね…。
なんか、すごくいい。」
やっと自分で選べた。
抱えられたネコの目に映る瑞生の目に
もう、
迷いはなかった。
ブォッフ。
完




