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下級メイドマリと物覚えの良い人々による恋愛偶像劇

作者: wag
掲載日:2025/11/15

すいません、悪ふざけしました。

大人の恋なんて、ままならないもんだよなぁ。


たっぷりの水をつけたフロアモップで床をごしごし擦りながら、

王城メイドのマリは浅いため息をついた。


昨夜の一幕が脳内をリフレインする。


『婚約が・・・決まりましたの』

『・・・そうでしたか。・・・おめでとうございます』


昨夜、マリは夜会番だった。

夜会の中で給仕やら案内役をするのは上級メイドや侍女クラスだが、何か粗相があった際の清掃だったり、お手洗いのこまめな清掃だったり、気分を悪くしたゲスト用の客室の設えや清掃だったり・・・まぁ主に清掃係として、マリのような下級メイドも数人夜会番として控えているのである。


デセールが床に落ちてクリームで床が汚れたというものだから、陰のように密かに現場へ出向き、かまいたちのように素早く床を拭わんとしたその時、重厚な緋色のベロアのカーテンの陰からただならぬ雰囲気の男女の声を聞き取ってしまい、マリは体を硬直させた。


『ですから、あなた様のことは、・・・今宵で忘れることにいたします』

『・・・それがよろしいでしょう』

『でも、今宵だけ。今宵だけは・・・』



見つかってはまずい。貴族様の色っぽい雰囲気を下級メイドがぶっ壊しでもしたら、ろくなことにはならない。マリは動きを止め、何なら呼吸も止めた。ちらりと声のほうを確認すると、二人の姿は見えなくてほっとを息をつく。


「!」


思わず息を飲む。・・・直接は見えなかったが、夜の闇を写した大きな窓にその姿が映っていた。安心するにはまだ早かったのだ。

ベージュの髪を深紅の髪紐で緩く後ろで束ね、クリーム色のスーツに髪紐と同じ深紅のタイをした青年。相手の女性は見事な黒髪をサイドに垂らし、胸元を強調するきらびやかな水色のドレスを身にまとっている。


女性が青年にしなだれかかり、彼が身じろぎした瞬間・・・ガラスの反射ごしに、青年と目が合った気がした。


マリは動いた。つむじ風よりも速く床を拭い、隙間風より静かにその場を去った。セーフであったと自分に言い聞かせながら。


・・・その際の床の拭き上げが不十分で、クリームの固まった汚れが落ちていなかったと翌朝メイド長からお叱りを受け、今床掃除のやり直しをしているところである。



大人の恋っていうのは、ままならないねぇ。

昨日のふたりはどうしたんだろ。あの後、情熱のまま最後の思い出を作ったんだろうか。


まぁ、自分一人生かす糧を稼ぐのに精一杯のマリのような人間には、関係のないこった。


モップを動かす手にさらに力を込め、気合いと腰を入れ直したそのとき、



ズデン!!!!



と豪快な音と地響きが鳴った。

後ろを振り返るとそりゃあもう派手に誰かがひっくり返っている。足下を見るとしとどに濡れた床。しまった、モップの水が多すぎた!!


マリは縮み上がった。

握ったモップに縋り付いて、倒れ込んだ人を恐る恐る盗み見る。


目に入ったのは革靴。足裏つるっつるの高そうな革靴だ。あれは滑ってもおかしくない。

乱れたトラウザーズ、少しぬれたお尻部分、ベスト、ジャケット、ああどれも高そう終わった!!


多分それなりの地位の人だ。終わった。

マリの脳裏に『解雇』『懲罰』『実刑』などなど不穏な単語が去来する。


逃げても無駄だ、床掃除やり直しはメイド長直々の命だもの、絶対バレる。

そうなればやることは一つだ。


「申し訳ございません!!!!!」


マリは渾身の土下座を決め込んだ。額が床にめり込まんばかりに擦り付けた。


「・・・った・・・って、あ」


その人物は身じろぎをしかと思うとさっと立ち上がり、マリのすぐ側までカツカツ足音を立てて近づいてくる。


『蹴っ飛ばされる』


反射的に首と腹に力を込め、衝撃に備えて息を詰めた。顔はやめてくれ、できれば横っ腹で頼む・・・!


「あった!良かった!」


カツカツ音は身を固くしたマリのすぐ横を通り過ぎ、カーテンの陰へ潜って止まった。


「良かった-、これ家の持ち物だから無くしたら不味かったんだよね。あ、君、頭上げてよ。けがの功名で捜し物見つけられたから怒ってないよ」

「は、誠に申し訳ございません・・・!」


最後により深く額を床に押しつけ、頭を上げる。顔まで上げる勇気はない。体勢も正座を崩さない。


「いいよいいよ、気にしないで。・・・あれ?君・・・」

「は、」

「まさかマリ・ドマ?」

「は、あ?」


思わず顔を上げる。

思ったより近くに、ベージュ色の前髪のうっとおしそうな碧色の瞳があって驚いた。


「ねえ、マリ・ドマなの?」

「は、仰るとおりマリ・ドマでございます」


青年はじーっとマリの顔を見て、穴が開きそうなほど見て、


「君、なんでこんなとこにいるの?」


とのたまった。

はて、知り合いであったろうかと記憶を辿るが、目の前の何とも綺麗な顔面にはまぁ覚えがない。というか、ここに来て昨日の情熱的なカップルの男性のほうであることに気がついてしまった。やばい。昨日見たことは胸の奥深くにしまっておいたから、追求しないでほしい。

「なんで、とは・・・」

「マリ・ドマともあろう者が、なんで下級メイドなんてしてるのかって聞いてる」

「幸運なことに雇用していただいておりまして」

「あの?『鉄壁のマリ』が?下級メイドに?信じられない」


なんでその名を・・・!


「ま、まさか、学園で、お会いしておりますでしょうか」

「へえ、君のほうは全く覚えがないって訳か。薄情だね」

「申し訳ございません・・・!」


マリは再度頭を下げた。


『鉄壁のマリ』。

マリの学生時代の不名誉なあだ名である。

かつてマリはこの国における最高学府において、決して譲らぬ主席を張っていた。学生たちがそれぞれの専攻分野に分かれる学年となってからは比較はできないが、少なくとも共通学習項目のみの学年においては、マリは一度もその頂きの座から降りることはなかった。

あらゆる試験において数多の学生がマリを超えんと挑み、そして破れた。

その先でついたあだ名が『鉄壁のマリ』である。


「僕も君に挑んで敗れ去った一人だからね、君のことは覚えていてしかるべきだろう」

「はぁ」

「その様子だと、君自身は挑戦者たちに何の興味も無かったと見える」

「そ、それどころではありませんでしたので」

「うーん、まぁいいや。君、今空いてる?」

「まさか、仕事の最中でございます」

「じゃあ時間をもらいに行こう」


青年はマリの手からモップを奪うと、バケツに乱暴に突っ込んだ。

そのままマリの手首をつかみ、カツカツと革靴を鳴らして歩き出した。


青年は背が高く、リーチが長い。彼がスタスタ歩くのに、マリは小走りにならなくてはならなかった。幸い今が夜会開けの朝で、王城内に人がほとんどいないのが幸運だった。


「メイド長の部屋はどっち?」

「い、今は北棟の管理室にいるかと」

「逆じゃないか、早く言ってよ」


言わせる隙なかったじゃないか。

マリは心の中で抗議しながらも踵を返した彼に合わせてターンする。


廊下を抜け中庭を抜け、階段を上り下りしてたどり着いた北棟の入り口で、幸運にもメイド長に出くわすことができた。


「あ!メイド長です!」

「彼女がメイド長か」


顔も知らんかったんかい。

つっこみ所だらけである。無計画にもほどがある。


「メイド長、お忙しいところ恐縮です。ウェズリー・ザッカリンド・コルネリウス・ワトキンズが申し上げます。少々よろしいでしょうか」

「まぁまぁ、このような場所へようこそ、ウェズリー・ザッカリンド・コルネリウス・ワトキンズ殿。もちろんどうぞ、お茶をお出ししましょう」


マリはそのやりとりを聞いて気が遠くなった。

この国では、その身が高貴であるほど、その家の歴史が長く輝かしく栄えるほど名前が長くなる。ミドルネーム持ちは大体貴族。ミドルネーム二つ以上持ちはおおよそ高位貴族である。王族に至ってはもう本人も覚えてないんじゃ?というほどのなっがーい名前だ。まぁそういう御仁は、普段は常識的な範囲に省略された通り名を使うらしいが。

マリは?そう。マリは平民、平民の中でもヒエラルキーの低い「ファーストネームも家名も二文字名」、いわゆる貧民層である。


「それには及びません、このマリ・ドマを少々お借りできないかと」

「マリを?・・・何か粗相が?」


メイド長が薄目でマリを睨めつける。粗相、していないとは言えない。


「いいえメイド長、実は彼女とは旧知の仲でしてね。思いがけない場所で再会したものですから、少々話ができればと」


メイド長の顔が歪む。

ほほ、と高く笑うと、いやな笑顔でまたマリを睨めつける。


「まぁ、下級メイドに卿のお相手が務まるとは思えませんが」

「下世話な話ではありませんよ、メイド長。彼女の知力をご存じでしょう?」

「それでも所詮は『二文字名』の下級メイド。お戯れも程々になさってね」

「・・・肝に銘じましょう」


ウェズリーなんちゃら殿はまたマリの手首を掴むと、メイド長に一瞥をくれてスタスタと歩き出した。


「さぁて、どこがいいか・・・あそこか」


また無言のまま階段を上り下りし、中庭を通り廊下を通って戻った先ほどの棟の一室、「資料室」と書かれたドアをウェズリーなんちゃらは開けた。


「これ持ってれば下級メイドがいても怪しくないでしょ」


そう言って部屋から彼が持ってきたのはハタキと箒。

それを握らせ、また部屋に引っ張り込んだ。


バタン、と閉まったドアを背に部屋を眺める。

所狭しと規則的に並んだ紙の束。真ん中に鎮座する大きなデスク、申し訳程度の小さなスツール。この部屋はくつろぐためではなく、本当に資料を閲覧するための部屋のようだ。


そのスツールのひとつに腰掛け、ウェズリーなんちゃらはマリにも着席を促した。


「し、失礼します」


渡された箒とハタキを握りしめたまま、マリもスツールに腰掛ける。


「で、だ。君はどうして下級メイドになっているの」


すぐさま直球で飛んできた質問に、マリは口ごもる。

彼が言いたいことは大体わかる。それでも、その質問に対してマリが言えることは少ない。


「就職試験で運良く拾って頂けたのがこの職でしたので」

「それがあり得ないと言っている。君は法務専攻だったろう?場所が王城でなくとも、どこかで法務官になったと思っていた」

「・・・試験に、落ちましたので」

「馬鹿なことを。君が落ちる訳ないだろう」

「でも!」


思わずマリも声を少し荒らげる。


「・・・落ちたのです。王城、王都、地方、すべて」

「・・・あり得ない」


ウェズリーなんちゃらはなぜか天井を睨み始めた。

そしてそのまま話し出す。


「法務官でなくとも、一般事務職であれば君なら通ったろう」

「それもすべて落ちました」


事実だ。

マリは貧民層の出であるが、運良く近所の平民図書館の司書に見いだされ、最高学府まですべて特待生として授業料免除で進学した。生活費は隙間に請け負った司書や書類仕事のバイトで賄い、その身を立てるため、ひいてはこれまでマリを助けてくれた家族や恩人に報いるため、高収入で知られる法務官を志したのである。

この国では貧民を差別的に排することは禁じられている。奨学金が最高学府にまであるのもその一環だ。どの職も、どの身分の人間にも開かれている。


はずなのだが。


「あらゆる職で収入が良い順に試験を受けて、引っかかったのがこの職だけでした」


悔しかった。侮られているとは分かっていた。

ようやくこんな人生もありか、と受け入れてきたところだ。蒸し返さないでほしい。


「まぁ、所詮は『二文字名』ってことですかね」


マリは自嘲した。


「話は分かった。・・・すまない、配慮が足りなかった」


ウェズリーなんちゃらは今度はデスクを睨んできつく目を閉じた。


「配慮が足りないついでに聞くが。・・・結婚は、していないのか」

「していません」

「下級メイドの多くは王城職員と結ばれるという。事実か」

「まぁ、そういう人は多いと思いますね」


そしてそのまま寿退職することが多いため、王城メイドは常に人手不足である。


「君は、その、親しい人などは、いないのか」

「おりませんね」


事実である。下級メイドの中でも、マリは明確に浮いていた。

その原因は簡単で、下級メイドの中にマリを知る者がいたのである。

『二文字名』のくせに、学力を鼻にかけてお高くとまっている。そんな噂を流されてしまい、王城職員との会食や秘密の宴会にも呼ばれなくなってしまった。

自分一人を養い、独りで過ごす日々である。そんな生活だから、メイド長には格好の夜会番としてこき使われる毎日だ。


「・・・そうか」


ウェズリーなんちゃらはそれきり黙ってしまう。


「卿は、ご結婚は?」

「・・・僕かい?・・・そうだな、考えてもいないよ」


このとき、マリは少し意地悪心が芽生えてしまった。自分の懐にズカズカ入る奴は、同じ不快感を味わうがいい。


「昨日の女性はどうなさったのです」

「昨日?」

「ええ、あの、先ほどの場所での逢瀬に昨夜通りがかりまして」

「・・・君だったのか、あのメイドは。参ったね、あれには」

「お相手の女性は婚約されたのですね」

「そうらしいね、どうやら」

「よろしいのですか?恋人だったのでしょう?」


ウェズリーなんちゃらはキョトンとしたかと思うと、その白い顔をじわじわ赤くした。耳まで見事に赤く染まっている。


「ち、違う!知らない!」

「まぁ、誤魔化さずともよろしいでしょうに。たかが下級メイドに知られたところで構いやしないでしょう」

「違うんだ、本当に知らない令嬢で」

「あんなに色っぽい会話をしておいて?」

「相手が神妙な雰囲気だったから合わせただけだ!」

「『あなたのことは今宵で忘れることに致します』でしたっけ?」

「忘れるも何も、会話したのも初めてだ、多分」

「『今宵だけは』とかなんとか」

「それで抱きつかれそうになって逃げたんだが、手を振り払う時にカフリンクスを落としてしまった」

「それではあれは本当に」

「よく分からない小芝居に巻き込まれただけだ」


マリは一気に目の前の青年が気の毒になった。

目撃したのが孤独なマリで、こうして弁明の場があったからよかったものの、噂好きの侍女あたりに見られていたら今や彼は社交界の噂の餌食だろう。


「おいたわしいことでございました」

「誤解が解けたならいいんだが・・・」


ウェズリーなんちゃらは気恥ずかしそうに熱くなった耳を触っている。

と思ったらバッと顔を上げ、


「でも、こんなきっかけだったが君と話せて良かった」


と笑った。

マリもまた、


「ええ、私も久しぶりに業務以外で人と話しました」


と笑った。

この辺でこの面談はお開きだろう。

スカートのしわを軽く手ではたくと、


「どうぞ、私のことはお気になさらず。王城へお越しの際は、これまで以上に床を磨き上げておきますので、ああ下級メイドは今日も頑張っているなと思い起こしてくださいまし」


そういって席を立った。


「では、失礼致します。この箒とハタキは後日メンテナンスして返却致します」


有無を言わせず、堂々と礼をとって退室する。閉まりかけたドアの向こうから碧色の視線がマリを刺したが、気づかなかったことにした。




ーーーーーーーー


マリは少々困っていた。

あのウェズリーなんちゃらとの邂逅の後すぐ、メイド長から勤務変更が言い渡された。


「え、備品部、でございますか」

「そうです。机仕事の得意なあなたにはうってつけでしょう」


備品部とは、主に使用人が使う用具や材料の仕入れを担当する部署である。受注、発注、および予算と突き合わせての要・不要・後回しの分別などを担う、使用人の中では珍しいデスクワークである。確かに計算がそれなりに出来るという点ではいいかもしれないが。


「しかし、こんな若輩者が行ってよいものなのでしょうか」

「そうね、備品部は体を痛めて現場仕事が難しくなった者が務める部署というのは否定しないわ。でもあなたがいいのよ。行ってみれば分かるわ」


メイド長に追い出されるように備品部執務室に向かう。

北棟の奥にあるその部署は、専用にひとつの小部屋が与えられていた。

ノックをし、「はい」と返答があることを確認して中に入る。


「失礼致します、今日付で異動となりましたマリ・ドマです」

「ああ、あなたね、よく来てくれたわ」


その部屋には二人の女性がいた。老人と言っていい年齢だ。

「急にごめんなさいね」

「あなたに申し訳ないわ」

二人は口々に言う。


「あの、申し訳ないのですがメイド長からは何も聞いていなくて。私は何をすればよろしいのでしょうか」


老女ふたりは顔を見合わせ、申し訳なさそうに言った。


「そう・・・そうなのね。この備品部は先日まで五人で仕事をしていたの。でも、先日急に辞令があって・・・この部署にいた者は全員異動か、解雇になったわ」

「え?」

「私たちは異動になった二人。あとの三人は解雇よ。今日は引き継ぎのためにここに来たのだけれど、本当は引き継ぎも不要だと言われたわ」

「どういうことでしょうか」

「あなたはこれから、一人きりでこの部署を担うのよ」


マリは思わずぽかんとしてしまった。


「は・・・?」

「あなたが何をしたのか、何があったのか、私たちのような老人には分からないわ。でも多分・・・誰かがそうしたのよ」


嫌がらせ。追い出し部屋。その類いであろうと。

マリは肩から力が抜けていくのが分かった。マリが何をしたかって?自分でも分かりはしない。ただ理不尽にはもう慣れてしまった。


「分かりました。とりあえず仕事はします。幸いデスクワークは嫌いではありません」


というわけで引き継ぎを受けて仕事を始めたのであるが。


マリは困っていた。

というのもこの仕事、本当にこの部屋から出られないのである。


王城の使用人が働く正規の時間帯、備品発注書はいつ持ち込まれるか分からない。その際に部屋を不在にしていると、発注書が出せずクレームが出る。するとメイド長がすっ飛んできて叱責を受けるのだ。それに執務室は業者出入り口と隣接しており、発注した備品が数通りであるかを確認する仕事も、業者が来る時間にマリがいなければ行えず業者が怒る。


そんなわけでマリはろくに休憩も取れず、昼食も外では食べられず、なんならお手洗いすら行くのを躊躇うほどだった。


マリはそこまで愚かではなかったため、昼食は毎日持ち込むようになったし、お手洗い中はドアに「5分で戻ります」的な掛札をすることで解決を図ったが、それにしてもあまりにもな扱いである。


メイド長に何度か増員を願ったが、「ご自慢の学力もその程度?」と鼻で笑われてしまった。


そして再三ではあるがマリは困っていた。

朝起きたマリは気づいたのである。熱が出ていると。


なかなかの高熱で体に思うように力が入らず、身だしなみもそこそこにメイド長の管理室へ出向き、休暇を願い出た。しかし、


「あなた、責任感というものはないの?ここまで来る元気があるなら大丈夫なのではなくて?」


と、なんとそのまま執務室にぶち込まれてしまったのである。

もうろうとしながら椅子に座り、とりあえず書類仕事は明日以降に置いておいて、発注書と備品の受け取りのためだけに居座ることにした。


なんとか昼をやり過ごしたが、その症状は全く軽快しない。

これは本格的にまずいと思いながら机に突っ伏したところで、マリの意識は途絶えた。




気がついたら夜だった。

とっくに正規の職務時間は終わっている。午後にひとりも来客がなかったなんて嘘のようだ。マリは痛む体を引きずりながら管理棟を出た。


メインホールでは今日も夜会をしているらしい。きらびやかな装飾が光り、優雅な音楽と談笑の声が漏れている。

マリはなるべく暗い道を選び、寮へ戻ろうとした。管理棟から伸びる裏道へ回ったそのとき、

「マリ・ドマが体調を崩したそうじゃないか」


と、自分のことを話している誰かの声がして足を止めた。


「ええ、でも問題なく職務に当たっておりましたよ」


メイド長の声である。


「いい加減根をあげればいいのに。あの女は強情だな」


声に聞き覚えはないが、若い男性のようだった。

夜会の出席者であったようで、礼服に身を包んでいる。

飾り紐か何かをくるくる手で回しながら、壁にもたれた拍子にランタンにその顔が照らされる。見覚えのない、知らない男だ。


「メイド長、あの後ウェズリー卿と会わせてはいないだろうな」

「ええ、一度訪ねていらっしゃいましたが会わせてはおりません」

「そのまま隔離しろ。こういう夜会で惨めに床掃除をするあいつを見るのも良い酒のつまみになったもんだが、仕方がない。一度でもミスをしたら解雇しろ。そしたら分かってるな?」

「卿のもとへと紹介状を持たせて送り出しますよ」


メイド長はふふ、安心なさって、と笑い男性を送り出した。


「いいか、あの女は俺のだぞ。他に渡すなよ」


そう言い捨てて、男性は去って行った。


何を言っているのか。あの男性は誰なのか。体が冷たい、頭がぼーっとする。

視界が何かで滲んでぼやけたその時、ハァッと大きなため息が聞こえ、


「マリ・ドマ、そこにいますね」


メイド長がまっすぐにこちらを見据えていた。





「そこへ横になりなさい」


メイド長はふらつくマリに手を貸し、北棟の休憩室のカウチソファにマリを凭れさせた。

ミルクをあたため、蜂蜜を入れたものを手渡してくれる。


「ありがとうございます」

「少しずつでいいわよ。・・・あなた、聞いていたわよね」

「はい」

「まずは謝るわ。つらい目に遭わせたわね」

「それは・・・どういう」

「法務官試験、事務官試験の落第。下級メイドとしての勤務。備品係としての幽閉。どれもよ。それらはすべて、彼が関わっているわ」

「先ほどの?」

「そうよ。彼がすべて指示した。あなたはショックよね。・・・でも、そうなの。彼は相当あなたに・・・そうね、執着している」

「執着・・・」


メイド長はひとつひとつ、言葉を奥歯で噛むようにゆっくりと話す。


「法務官から引きずり落として、下級メイドとして自分の足下で働くのを見たい。孤立しているのを見たい。理不尽な仕事をさせて、ミスがひとつでもあれば解雇して、そうして手を差し伸べる優しい男の顔をしてあなたを迎え入れたい。そういう歪んだ願望があるのよ、彼には」


何のために。

マリは口から出そうになる言葉をミルクと一緒に飲み込んだ。


「あれだけの大物だとね、分かっていても誰もあなたに手を貸してあげられなかった。でも、ウェズリー卿があなたに気付いた。だから彼も焦ったのね。今度は誰にも目につかない場所で仕事をさせろ、ですって」

「あ、だから備品部・・・」

「そうよ。使用人の中には彼と通じている者が何人も潜り込んでいるの。今日もあなたに休みをあげたかったけれど、そんなことをしたらすぐに彼に報告が行くわ。王城の業務を滞らせた罪で解雇しろって言い出すに決まってる」

「わ、私はどうなることを望まれているんでしょうか」

「彼のところへ行ったら?・・・さあ、どうなるんでしょうね。彼があなたを奥方にするとは考えにくいし。愛人にされるか、その頭脳を自分のもののように使われるか、ただ単に慰み者にされるか・・・どちらにせよロクなもんじゃないわ」


メイド長は緩く首を振る。


「だから、あなたには厳しく当たらざるを得なかったの。誰にでも分かるミスをしないように。彼の元に引き渡す口実を作らせないために」

「そうだったんですか・・・」


確かに、メイド長はマリに厳しかった。理不尽と言っても良かったが、あいにくマリはそれでへこたれるほど柔ではなかった。貧民出を舐めないでもらいたい。


ひとくちミルクを飲む。甘くて、温かい。


「あなたのことはできる限り守るわ。でも分かるわね?あなたはミスをしてはいけない。これまで以上に決死の覚悟で職務にあたりなさい」

「メイド長、質問があります」


マリからの「YES」を待っていただろうメイド長は訝しげな顔をしたあと、


「・・・どうぞ」


と小さく許可をした。マリは聞かねばならない。決して聞かない方が良かったとしても。


「あの、『彼』ってどなたなんでしょうか」

「は?」


やはりそうだ。メイド長は先ほどの『彼』のことを、マリが既に認識していると思っている。

「あ、ああ、もしかして暗くて顔は見えなかったかしら。それなら・・・」

「いえ、顔はバッチリ見ました。初対面でした」

「しょ、初対面?」

「初対面」


メイド長は目を白黒させている。「そんな」とか「なんで」とか、「訳がわからない」とか小声で時々呟いている。・・・しばし逡巡したあと、


「・・・知らない方がいいわ」


そう呟くと、マリを目を合わせないままふらりと立ち上がり、よろりと扉へ近づいた。


「・・・それを飲んだら、宿舎に戻りなさい。明日も遅れぬように」


視線が合わないまま、メイド長は部屋を去ってしまった。



「誰よ、『彼』って・・・」



ーーーー


ミルクを飲んで北棟を出る頃には、仕事中少し眠ったからか、幾分か体が軽くなっていた。


なるべく明るいところを避け、夜会会場を迂回するように宿舎への道を歩く。


「キャァ、って、マリ?!」


曲がり角を曲がったところで、同僚の下級メイドにぶつかってしまった。


「こんな時間に何してるの?なんでまだ仕事着?いいや、お願い手伝って!!」

「ど、どうしたの?」

「お貴族様がやらかしたのよ、聞いてよ!」


話によれば、彼女は本日の夜会番であったそうだが、どうやら夜会中に派手な喧嘩があったらしい。グラスが舞い皿が飛び、負傷者はわずかなものの衣服が汚れてしまった人多数。床は汚れカーテンは破れ、お色直しや応急処置のために客室はいっぱいになり、何なら順番待ちが生じているらしい。


「痴話げんかも加減ってものがあるわよ!という訳でお願い手伝って!」

「それ聞いたら断れないわねェ・・・」


という訳で久しぶりの夜会番である。

喧嘩の主役は既に退場しており、会場であるメインホールは被害者もしくは巻き込まれた傍観者であろう貴族たちが壁側に張り付き、中央で下級メイドが走り回るという異様な逆転現象が起きていた。上級メイドや侍従たちは皆、予定より早めの散会との各家との連携および馬車止めの整理などに奔走しているらしい。


ほんと、一体何が起きたんだ。


割れたグラスを処理し、濡れそぼったカーペットを剥がし、滑る危険がないようにフロアモップで油分・水分をしっかり除去し・・・とやっていると、


「ヒィッ、なぜ貴女がここに!」


という引きつった悲鳴がホールに響いた。

皆が振り替える。声の主は初老の口ひげがひょろりとした、どこかの貴族の侍従のようだった。


その侍従はカツカツとホールの真ん中まで来ると、作業中のマリの腕をひねりあげる。


「貴女がなぜここにいるのですか、マリ・ドマ!」

「はあ?」


マリは憤慨した。こちとら善意で手伝っているというのに、なんて言い草だ!


「マリ・ドマ?ではあれが・・・」

「どういう了見で顔を出してるのかしら」


壁際の貴族たちがいっせいにヒソヒソしだす。


え?


侍従は周りを見渡すと、まずいとばかりに小声になり、

「いいから!あなたはここから離れなさい!早く!」

とマリの手からモップを奪い、エントランスのほうへ背を押し出した。


とそこに、


「マリ・ドマ!」


と大声が響き渡った。呼ばれて振り返ると、そこには息を切らしたウェズリーなんちゃらがいた。

彼は小走りでマリに駆け寄ると、


「君はなぜここに?今日は夜会番ではないのではないか?」


と聞いた。


「偶然同僚に出くわしたので。大変だから手伝ってと。あの、何かまずかったですか?」

「逃げよう、今すぐだ」


ウェズリーなんちゃらはマリの腕を掴んでエントランスのほうへ向かおうとした。


「マリ!」


また呼び声である。マリはちょっとうんざりしてきた。次は誰だ。


見ると知らない令息・・・いや、つい先刻見た、メイド長と話していた青年だ。よく分からないがマリの就職を邪魔した奴!


「ウェズリー卿、その手を離してもらおう。それは俺の女だ」


はあ?

マリが呆けた顔をしていると、


「キィーーー!!!!」


と甲高い悲鳴がひびいた。今度はなんだ。

見ると豊かな黒髪をサイドに垂らした、これまた豊かな胸元の令嬢・・・あれ、これウェズリー卿の逢瀬のお相手では?


「マリ・ドマ!人の婚約者を誑かす女狐!」


令嬢は目尻を釣り上げてマリのほうへ突進してくる。


「マリ・ドマ、僕の背に隠れて!」


マリをエスコートするウェズリー卿の姿を認めた令嬢はさらに足を踏みならす。


「ウェズリー卿まで!あんた、どこまで人の男にちょっかいかければ気がすむのよ!」


そう言って、見知らぬ令息と令嬢は、並んでウェズリー卿の後ろで小さくなるマリに対峙した。


「マリ・ドマ、このままよく聞いて」


ウェズリー卿は小声でマリに語りかける。


「この喧嘩の主があの二人なんだけど、原因は君だ。あの二人は最近婚約したばかり。それなのにあの馬鹿男、夜会中に誰かに言ってたようなんだ。『婚約者のことは愛していない、俺の眼中にいるのはマリ・ドマただ一人だ』ってね。それを彼女が聞いて、激高して大喧嘩さ」


「そ、そんな・・・私とばっちりじゃないですか・・・」

「念のため聞くけど、君は彼の恋人?」

「違います、知りません!」

「だよね。ついでに言うと、僕も彼女の男になった覚えはない」


ウェズリー卿は二人に向き合うと、声を張り上げた。


「ちょうどいい、はっきりさせようじゃないか」

「はっきり、だと?!」

「そうだ、誰が誰を愛し、お互いどう思っているか!幸いここには多くの紳士淑女がおられる。この騒動の幕はキッチリ引いたほうがよかろう」


ウェズリー卿は壁際の貴族たちに目配せすると、どこかから「ヒュー!」という指笛の音や黄色いざわめきが起こった。エンタメ化してしまったぞ、おい。


「それでは誰から行こうか?・・・それではご令嬢、貴女からだ。貴女は他の女に目移りすることが許せないくらい、婚約者である彼を愛している・・・そういうことでいいか?」


令嬢は考え込む。ウェズリー卿は、周りの貴族たちはじっと彼女を見る。

やがてままあって、令嬢は涙声で訴えた。


「いいえ!いいえ・・・わたくし、マドリエンヌ・キャシャーン・ユルエ・コーン・ド・ピグレットの愛するお方は・・・あなた様、ウェズリー・ザッカリンド・コルネリウス・ワトキンズ様です!」


おおっ、と雑踏が沸く。

な、なかなか名前が長い。どうやらかなりの高い身分の令嬢だったようだ。知らんけど。


「てめぇ、婚約者がいながら他の男に粉かけやがって!」


とわめく令息に、


「何よ!あんただって同じでしょうよ、この不誠実野郎!婚姻前から愛人より蔑ろにされるなんて冗談じゃないわよ!」

「うるさい、おとなしくしとけば程々には構ってやったのによ!」

「マリ・ドマ共々、わたくしを馬鹿にするのも大概にしなさいよ!」


またマリに流れ弾が飛んできて、マリはさらに小さくウェズリー卿の背に隠れる。


「では、次は君だよ、ジェントルマン。君の愛する人は誰だい?」


ウェズリー卿の穏やかな声に、令息は胸を張る。


「愛する、だって?ちょっと違うな!このシャルル・ゴイテン・ビーンナップ・ストマンズ・ホーリンゲン・カリス・ロンゴン・シャブリエル・ロイストバリテンは皆に宣言する。そこにいるマリ・ドマは俺がもらい受ける女だ。大事にしてやる。マリ、こちらへ来い」

「待ちたまえ、シャルル卿。まだ話は終わっていない」


マリはうんざりしてきた。名前が長い。覚えきれない。これはきっと、王族に近しい高貴な身分の令息なんだろう。これはメイド長が逆らえないはずだ。

あぁ、私どうなるんだろう…もらい受けるって、あの令嬢付きの男に召し上げられるってこと?最初からゲームオーバーすぎない?暗殺されない?



マリが白目を剥いていると、ウェズリー卿が動いた。



「では、僕の番だ」


ウェズリー卿は令嬢に向き直ると、優しい声で告げた。


「マドリエンヌ・キャシャーン・ユルエ・コーン・ド・ピグレット嬢。すまない、あなたの愛に答えることはできない」


聴取は「Oh…」と悲しげな声を漏らす。


「というか、先日初対面にも関わらず不躾に物陰に連れ込まれたり、体を触られたりと迫られて迷惑していた」


今度は聴衆は「Boo!」とブーイングを鳴らす。


「しょ、初対面?!違いますわよ!」

「いいや、君と言葉を交わしたのは初めてだったはずだ」

「そんなことはありません!学園で、何度も話しかけたはず!」

「はて?君は同窓生だったのか?」

「酷い…!あんなにあなたの目に留まれるように努力したのに…!」


また「Oh…」の嵐だ。ウェズリー卿に対する「Boo」も少し聞こえる。



見知らぬ令息は鼻を鳴らし、

「だからお前、この年まで婚約者が決まらなかったのか。ウェズリー卿を諦められなかったから」

「そうよ!!あんただってそうでしょ、あの女を娶るって言い張ってご両親を困らせたって聞いてるわよ!婚約してあげたんだから感謝しなさいよ!」

「うるせぇ、必要ねぇ!俺はマリ・ドマだけいればいいんだよ!」


いやだよ、私は。

マリはとても口に出せないが、心の中で猛抗議を行った。

そうこうしているうちにウェズリー卿がマリに向き直る。


「今度は僕の番だ」


マリの前にそっと跪くウェズリー卿を見て、マリの頬は引きつるのが止まらない。


「マリ・ドマ、学園時代、君はまさしく『鉄壁』だった。成績という意味でも、人付き合いという意味でも。君の瞳はいつも板書や参考書や教員に向けられていて、その視線をどうにかこちらに向かせたくて苦心したものだ。・・・どうやら失敗したようだったが。僕のことは先日まで知らなかったんだろう?」


優しく問いかけられ、うん、とマリは頷く。

少しうっとおしい前髪の奥から優しい眼差しがマリを捉える。薄く微笑まれ、マリの胸が小さく跳ねる。

マリに問いかけてくれることが嬉しい。意思を持っていいと思わせてくれる。


「困らせてしまうかもしれないが、まずは正式に名乗らせてくれ。僕はウェズリー・ザッカリンド・コルネリウス・ウォーデン・プルメリア・ノザランド・ショーメ・ヴォルデクト・ホーナーズ・オブ・ワトキンズ。かつて君に挑み、そして破れた落陽の戦士だ」


は?

なんて?

落陽のなに?っていうか名前?こないだより伸びてない?


「『通り名』か~・・・」


マリはシャンデリアを仰いだ。

そうかー、全く覚えられる気がしないわー・・・偉い人ってすごいねー・・・



「ずっと君を見ていた。学園を卒業してもなお、君の面影を胸に閉じ込め、他の誰にも心のドアの鍵を渡さずに来た。でも今、君は僕の目の前にいて、その瞳に僕を写すことに成功している。今が千載一遇のチャンスだと思う。言わせてくれ。君を心から想っている。どうか、僕の手を取ってくれないだろうか」


そう言い、ウェズリー卿はそっとマリに向かって手を差し伸べた。


聴衆は「Wow・・・」やら「Oh・・・」やら「ウェズリー卿が真名を・・・」やら騒がしい。


「ま、待て!いい雰囲気を作るんじゃねえ!マリ、取るなら俺の手だ!断るならお前の人生、ずっと邪魔し続けてやる。就職も結婚もできねぇと思え」


慌てたシャルル卿も、マリの前で同様に勢いよく跪いた。膝痛そう。

言ってることとやってることのギャップよ。


ため息をついたマリが恐る恐る見渡すと、同僚の下級メイド、上級メイド、侍女・侍従、楽隊、なぜかシェフ、マドリエンヌ嬢、貴族たち、一等高い場所の玉座に・・・国王陛下?!王妃様?!あれ、あのお子様たち・・・王子様と王女様?!


皆が固唾をのんでマリの言葉を待っていた。


「わ・・・わたしは・・・」


カラッカラの口で、マリはなんとか言葉を紡ぐ。


「私は、マリ・ドマ。・・・貧民層の出で、奨学金を頂いて学園を出ました。法務官を志しましたが、色々あって、今は下級メイドです・・・」

「そこのシャルル卿が手を回したのよ」


マドリエンヌ嬢の暴露に、聴衆は「Boooo!!」とブーイングの嵐である。


「うるせぇ!黙りやがれ!」

とわめくシャルル卿、じっとマリの目を見つめるウェズリー卿。


「わ、わたし、わたしは・・・」


一瞬で静寂を取り戻すホール。



「まず、シャルル卿、卿とは初対面ですので、あなたのものになりたいという気は起きません」

「は?!」


シャルルは驚きのあまり立ち上がる。


「何の冗談だ、マリ・ドマ!」

「ほ、本当に、あなたと面識がないんです・・・!」

「嘘でしょ?!あんなに学園時代あなたに絡んでたじゃない、この男!」

「ええ?」


マドリエンヌ嬢も加勢するが、マリには本当に覚えがない。


「いつのお話ですか?そもそも、学園時代人に絡まれた記憶もないんですが」

「ほら、試験の前の廊下とか、放課後図書館に向かう時とか、事あるごとにあなたの前でアピールしてたでしょ?」


マドリエンヌ嬢がシャルル卿の物真似をし始める。

『ふふん、今回は俺が主席を頂くぜ、鉄壁の天下も今日までだ』

『毎日毎日勉強ばっかりしてたら鉄になっちまうぜ、どこかの誰かさんみたいにな』


「ぜんぜん覚えがありません」

「シャルル卿、そもそもマリ・ドマに直接話しかけたことがあるのか?」

「なんで俺が平民ごときに話しかけないといけねぇんだ!」

「ほら」


聴衆たちは「そらあかんわ・・・」と首を横に振り、「Oh・・・」と嘆いている。


「と、とにかく、わたしはシャルル卿と面識がないんです」

「じゃあ今面識できたよな。つべこべ言わずに俺に従え」


Boooo!!と一斉にブーイングを浴び、マドリエンヌ嬢にも「あんた私のこと忘れてるでしょ、さいってい」と罵られ、「うるせえぇ!」とまた吠えている。


「あ、あの、ウェズリー卿のことなんですけれども」


また聴衆は口を閉じ、マリの言葉を待つ。



「わたし・・・名前が覚えられそうにない方は、ちょっと・・・」



ごめんなさい。


マリは勢いよく頭を下げ、両手で固くスカートを握りしめた。

頭を下げたままどれくらいの時間がたっただろうか。


高い高いところから、


「マリ・ドマ。・・・もう逃げてよいぞ。あとは私が引き取る」


と声が響いた。


聴衆の誰かが「国王陛下・・・」と呟く。

これ幸いと、マリは勢いよく頭を上げ、


「ありがたき幸せ!これにて失礼つかまつります!」


と告げ、一目散にホールを逃げ出した。



残った渦中の皆々と聴衆たち。

頂きの玉座から一部始終を見ていた国王はため息をつく。

まったく、しょうもない。もとい、しょうがない。


「若者たち、恋するはいいが相手のことも思いやらんか。皆の者、あのメイドの職務に今後支障が出ぬよう、配慮を頼むぞ。あの者はいわば被害者だからな。とはいえ我が国には貴賤結婚という言葉はない。結ばれる相手は自由だ。まぁ頑張んなさい」


聴衆たちは貴族も使用人も大きく頷く。


「名前に関しては・・・まぁ、なんだ、その。国がごめん」


がっくりと肩を落としたウェズリー卿に、同情の視線が降り注いだ。




逃げ出したマリは走る。


あんな注目を集めて、派手に求愛?されて。

明日からどんな顔して生きろって言うんだ、迷惑この上ない!


それでもマリはちょっとだけ嬉しかった。

食い扶持を確保するために必死になって勉強していたあの学園時代を、誰かは見ていたのだ。少なくとも二人は、ちょっと、いやうち一人は甚だ迷惑ではあったけど。


もし、明日以降無事に生き延びることができたならば、

もうちょっと周りの人たちに目を向けてみよう。


恋とか愛とかは、まだ分からないけれど。



悪ふざけだよねぇ、この名前の文化…

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