『神のゲンコツ』の秘めた力
私は玄関のドアを開け、みんなが通れるように抑えておいた。必要がないのに、みんなはすぐに入らず誰かが監視しているかも感を出して、そっと中を覗く。私は黙って見ているだけだ。気が済んだようで、阿部君ママ、阿部君、明智君、トラゾウの順で入った後で、私が続く。ドアを開けっ放しにしておいた方が、スムーズに出入りできるが、急な突風なんかで田中太郎が怪しむかもしれないので、閉める。明智君もトラゾウも自力でドアくらい開けられるので、さほどの時間的ロスにはならないだろう。
阿部君ママは、私が今まで見た中で軍を抜いた大きさの、ブランド物のトートバッグを持っている。阿部君は、お決まりの唐草模様の風呂敷を抱えている。明智君とトラゾウは、走るのにさほど支障のない大きさのバックパックを背負っている。私は手ぶらだ。私には、ドアを抑えるか、空手チョップの大事な使命があるからな。
目的の部屋は把握しているので、迷いもせず寄り道もせず、私たちは直行した。そっと確かめると、田中太郎は大きな金庫の部屋ではなく、『神のゲンコツ』の部屋にいるのが分かる。これで、田中太郎の就寝を待たずに、即実行が決定だ。天は常に私たちの味方なのだ。
田中太郎は妻の奈々を陥れるために、やはり何らかの工作を働いているのだろうか。こっそり確認したいが、今は怪盗中だ。田中太郎が出てこれないように、ドアを抑えるのに集中しよ……。あれ、待てよ。最終的に私はどうやって逃げればいいのだろうか。
ドアを離したら、田中太郎はすぐに出てくるじゃないか。と同時に何か手近の武器で攻撃してくるに決まっている。田中太郎がどれだけ武装しようとも、赤子の手をひねるよりも楽勝だけど、なんとなく後味が悪い。今までのように、暴力団なり政治家のSPなりがかかってきたなら、正当防衛も盗っ人猛々しいとはいえ主張できる。しかし、こんな吹けば飛ぶような還暦間近のジジイをボッコボコのグッチャグチャにしてしまったら、私は完全なるただの強盗だ。
田中太郎が『神のゲンコツ』部屋で何をしているかは分からないが、用事を済ませてドアに手をかける前に、私の強欲な部下たちがミッションを終了……は期待しない方がいい。無駄だ。終了したならラッキーくらいに考えておこう。
あー、良いことを思いついた。この部屋のドアは廊下側に開くタイプだ。ということは、そこそこ丈夫な心張り棒一つで時間を稼げる。少し探せば、伸縮タイプの心張り棒が……と思って見上げると、取り付けてあった。都合が良すぎるだろなんていう批判を一切受け付ける気がない私は、少し手を伸ばし心張り棒を手に入れた。これを使う機会が来ないのが一番だ。金庫の中のお金を盗まれたのに田中太郎が気づくのが、遅ければ遅いほどいいからな。でもまあ、これで最悪に対しての準備ができたのだから、鬼に金棒ならぬリーダーに心張り棒だ。なかなか上手い例えだな。みんなに披露してやるかと思って、隣の大きな金庫の部屋の前で待機しているみんなを、私は見た。
みんながみんな、トラゾウさえも、私を今すぐ殺すというような目で見ている。私は、そんなにニヤニヤしていたのだろうか。していたのだろう。でも、いいじゃないか、私がニヤニヤしていても。なんていう態度を微塵も見せずに、私は、いいぞの意味で頷いた。
阿部君ママが我先にドアを開けた。阿部君と明智君は何も言えない。私は、必要以上に慎重に静かに開けてくれたことに感謝する。どうやら阿部君ママは、バカではないようだ。みんなは無駄口を叩かず、阿部君ママに続く。
すぐさま、阿部君のヒソヒソ声が聞こえてきた。声量は抑えていても、ごきげんに説明しているようだ。壁のボタンを押すと金庫が現れると。阿部君ママに押させてあげるためなのだろう。なかなか親孝行じゃないか。誰が押すかで揉めなくて本当に良かった。私としては、トラゾウに押させてあげたかったが。
おそらく、壁が開き金庫が出てきたようだ。阿部君ママはさすがに歓声を上げてしまった。が、さすが母娘だ。阿部君が前もって口を抑えていたようで、くぐもった声が辛うじて私の耳に届く、なので、田中太郎は一切聞こえていない。
一つ疑問が。確か、壁が開くと、勢いよく開けた人間めがけて攻撃するはずなのに、誰も痛がっていない。どうやら阿部君と明智君は学習していたようだ。阿部君は阿部君ママの口を抑えているので、明智君一人で、壁が勢いづく前に抑えたのだろうか。明智君なら、できなくもないか。いや、トラゾウと二人がかりで抑えている。阿部君ママが阿部君から説明を受けている時に、明智君は何が起こって何をするべきかをトラゾウに説明していたのだろう。見えないので推測だけど。
みんながトラップに引っかからなかったのは、正直に言うと、残念な気持ちがないこともない。地団駄を踏んですっきりしたレベルだけどな。それよりも、みんなの悲鳴で田中太郎に気づかれる方が、私には痛いし。
それに、肝心なのはここからだ。田中太郎の言っていた通りに、本当に金庫に鍵がかかっていないのかは半信半疑なので、私は息を呑んで待つ。鍵がかかっているなら、あいつらが今までの私に対しての非礼を気にしないで頼んでくるのだろう。だけど、私は何の対策もしてこなかった。率直に言うと、すっかり忘れていたのだ。開くように祈ろう。私の祈りがどこにも届かなかったなら、私は部下たちから壮絶な嫌がらせを受けてしまう。その前に、我々怪盗団全員で、田中太郎に対してできうる限りの嫌がらせをするけどな。
私は『神のゲンコツ』部屋のドアに耳をつけながら、心臓の鼓動が田中太郎に聞こえるかもしれないほどにドキドキしながら待った。悪態も歓声も聞こえないのは、部下たちが最低限のマナーを守ってくれているということだ。とはいえ、あの強欲たちが静かだと、不安が募るのも事実。少しくらいなら田中太郎の監視を中断して、大きな金庫の前でみんなが何をしているのか様子を見に行っても大丈夫だろうか。いや、そういう油断が……。
私が、阿部君や明智君が決してしたことのない葛藤をしていると、事態が動いた。歴史上一番に膨らませられたトートバッグを肩にかけ、小躍りしながら阿部君ママが隣の部屋から飛び出してきたのだ。トートバッグの中を見なくとも、私の不安が払拭されたのは分かる。なので、ここからは、田中太郎の監視に集中しよう。ドアに耳をつけているだけで、何も聞いていなかったからな。なになに?
「あいつら、この俺様をコケにしやがって。盗んだのは、絶対にあいつらの中の誰かだ。容疑者は3人しかいないのに、あのバカ面探偵も全く役に立たないし。ひまわり探偵社とか言ってたか。明日も結果が出なかったら、乗っ取って俺様の家来にしてやるからな。案外喜ぶかもしれないぞ。しかし、まいったなー。あれがないと、同窓会に行けないじゃないか。俺様をいじめた奴らを、この足元にひれ伏せさせるためには、あれが絶対に必要なのに。あいつらが社長をしているほとんどの会社が、火の車の倒産寸前だというのは調べがついてるんだ。そこに、俺様が融資してやると言ったところで、借金が増えるだけだと言って断るだろう。だけど、『神のゲンコツ』を見せると態度は変わる。なにせ、触ると願いが一つだけ叶うともっぱらの評判だからな。迷信で片付けられないほどに、実績があるくらいは、あいつらでも知っているだろう。無様に俺様に頼む姿が目に見えるぞ。まあ、頼まれたからって、触らせるかどうかは……。とりあえず、この俺様がもう少しこの部屋を調べるか。灯台下暗しで、マッサージチェアーの上にあったりしてな。ふふっ、くだらない冗談を言ってないで、真面目に探そう」
こいつ……どうしようもない奴だな。いじめられた悔しさを糧に、世界のホテル王にまで登り詰められたというのもあるだろうに。それを、『神のゲンコツ』を利用して復讐するだなんて。しかし、『神のゲンコツ』にそんな超自然的な力があるとは初耳だぞ。本当にそんな力だあるなら、『神のゲンコツ』自身が自ら金庫を出て、マッサージチェアーに隠れた……なんてないない。触ると願いが叶うまでなら、信じられなくもない。だけど、自らの意思で自由自在に移動できるということにして、既に発見済みの『神のゲンコツ』を私が出しても、こいつは信じないだろうな。私を気の狂った犯人だと決めつけて、お金の力で趣の違う病院に強制隔離させるだろう。阿部君は大爆笑するかもしれないが、明智君が悲しむ。世界で唯一のドッグフードハンターがいなくなるからな。
私が再び隣の大きな金庫部屋に目を向けると、私のかわいい明智君がちょうど出てきた。明智君の倍以上に膨らんだバックパックを背負っている。それでも、その重さを一切感じないかのような軽やかさがある。いや、軽やかすぎて、足が動くのがとてつもなく速い。なのに、さほど前に進まない。足の回転が速すぎて、床を的確にとらえていないのだ。簡単に言うと、足が空回りしている。明智君、気持ちは分かるが、ちょっと騒々しいぞ。田中太郎に気づかれ……うん、大丈夫だ。どうやら『神のゲンコツ』を探すのに集中してくれている。
次は、トラゾウが出てきた。背負っているバックパックは、明智君のと同じくらいにパンパンに膨らんでいる。トラゾウの意思だけでは、こんなバカ丸出しの詰め方はしないので、阿部君が手伝ったのは見るまでもない。トラゾウは明智君とは違って、一歩一歩確実に床を蹴っている。なので、颯爽と風のように走り去った。
残されたのは、阿部君だけだな。と思ってすぐに、阿部君が出てくる。予想通りに、明智君とトラゾウが入るくらいの大きさに膨らんだ唐草模様の風呂敷を背負っている。見ての通りに、ゆっくりと歩くしかできない。そんなにいっぱい詰め込むからだぞと、たしなめたところで、阿部君は同じように詰め込むだろう。でもまあ、以前よりは早く歩けているようだ。荷物の全てが札束というのが、阿部君にさらなる力を与えているのかもしれない。いや、阿部君は『神のゲンコツ』を触った。その時に、本物かどうか確かめるために床に叩きつけていた。結局割れなかったが、もう少し力があればいいなと、思ったのだろうか。『神のゲンコツ』の力は本物かもしれない。阿部君、もう少しだなんて控え目な願望ではなく、プロレスラー並の力を欲していたなら良かったのに。阿部君らしくないぞ。
そう言えば、私も『神のゲンコツ』を触ったな。それから、何かを希望しただろうか。うーん、なんとなくだけど、このくだらない宝石盗難事件が解決するように願ったかもしれない。どうやら私は『神のゲンコツ』の力を無駄遣いしたようだ。事件が解決するのは嬉しいが、もっと身のあるお願いすれば良かった。部下たちに尊敬されるリーダーになるとか。済んだことを悔しがっている場合ではないな。田中太郎の動きに集中しよう。金庫にはまだまだ札束があるはずだから、そろそろ阿部君ママが戻ってくるし。




