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三十三、推しのことが好きな人

 本当にいいのだろうか。

 いつも遠目から見ていた、いや公園にいるときはなるべく見ないようにしていた彼女の家が、今目の前まで迫っている。


 近づけば近づくほど戸惑ってしまう。

 このまま彼女について行っていいのだろうか。


 しかしそんなことは関係ないとでも言いたげに、彼女はどんどん進める歩を早くしていく。

 なぜか手はひかれたままだった。

 別に逃げるつもりもないのだが。


「彼女から離れろ!!」


 穏やかな空気が突然響いた声にかき消される。

 空気が一瞬で変わる。


 俺は声がしたほうに目を向ける。

 彼女も足を止め、俺と同じ方向を見つめていた。


 そしてすぐさま俺と距離を詰め、腕をつかんできた。

 俺の腕をつかむ彼女の手は先ほどとは違い、ずいぶんと弱弱しく感じた。


「いつまで彼女に付きまとうつもりだ!!」


 視線の先に立っていた男……五十嵐琢也が叫ぶ。

 いったいいつからそこにいたのか。


 彼の体も随分と濡れているように見えた。

 やはり雨だからと言って帰らなくて正解だったようだ。

 しかし彼は傘を持っているのにどうして差していないのだろうか。


「付きまとっているのはあなたでしょう!」


 震えた声で推桐葵が叫ぶ。

 そんな叫びに対して彼は一瞬たじろいだように見えたが、すぐにこちらに一歩近づいてきた。


「僕は君をこいつから守ろうと思って!」


「悠くんがあなたから私を守ってくれていたのよ!」


「ゆうくん……」


 混乱しているのか彼の目が泳ぐ。

 そしてまた一歩こちらへと近づいてくる。


 俺の足が自然に動き、推桐葵の前に立った。

 背中越しに彼女が震えているのがわかる。


 それが雨に濡れた冷たさからじゃないことは十分に理解できた。

 そして少し離れたところに立つ五十嵐琢也は、足を止めて何かをぶつぶつとつぶやいていた。


 逃げようにも逃げ場所がない。

 逃げるタイミングもなかった。


 ここから動くことができない。

 どうにかできないかと考えていると、彼が顔を上げてこっちを見つめてくる。

 なぜか彼の口元はゆがみ笑っているように見えた。


「そうか、君は脅されてるんだ。そいつに。何か弱みでも握られてるんだろ?」 


 まさかのとんでもない発想をしてきた。

 ちらっと見える彼女の顔も呆けてしまっているのがわかる。

 しかし彼は真剣なようで、またぶつぶつとつぶやきながらこちらに近づいてくる。


「僕がこいつから君を逃がしてあげるよ。そして僕と一緒に幸せになろう。君も本当は僕のことのほうが好きなんだ。そうに違いない」


 一歩ずつ確実にこちらに近づいてくる五十嵐琢也。 

 彼の様子は明らかに普通ではない。

 いったいいつから彼は変わってしまったのだろうか。


 入部した当初は今みたいな様子はなくむしろクールな印象すらあった。

 しかし今の彼にはその姿の面影はかけらも残っていない。


 もしかすると最初から彼女に近づくことが目的で、同好会に入ったのだろうか。

 俺はそれを見抜けなかったのだろうか。


「いい加減彼女から離れろ!」


 頭が妙に冷えていく感覚がある。

 目の前で熱くなっている人がいるから、逆に冷静になっているのだろうか。


 そんな冷静になっていく頭の中に一つの可能性を思いつく。

 これはチャンスではないだろうか。


 彼の勘違いを利用して、結果的に彼女をあきらめてもらうことはできないだろうか。

 気づくと俺は口を開いていた。


「俺のことは好きにしていい。だから彼女に付きまとうのはやめてくれないか」


「ちょっと、何言ってるの!?」


 彼の足が止まる。

 瞳孔が開いている眼でこちらをまっすぐに視線を向けてくる。


 俺はその目から目を背けなかった。

 彼をまっすぐと見つめる。


「なんだよ、その目は……」


 彼の視線が先に俺からそれる。

 その視線は推桐葵のほうに向いていた。


「なんでそんな目で僕を見るんだ! お前が何で正義ぶっているんだ! お前が悪で僕が正義のはずだろうが!! おかしいだろ!!」


 彼が走り出す。

 俺は一歩前に出る。

 これ以上こいつを彼女に近づけさせないためだ。


「そんな目で、僕を見るなあ!!」


 鬼気迫る表情でこぶしを振り上げた五十嵐琢也の姿が眼前に迫る。

 それでも俺は彼から目を背けなかった。

 抵抗しようとも思わなかった。


 肌色で視界がいっぱいになった直後に来る鈍い痛み。

 頭の中が揺さぶられる感覚。

 思わずよろめいてしまうが、その場から動かないように何とか踏みとどまる。


「悠くん!!」


 背後から彼女の悲痛な叫びが聞こえてくる。

 これ以上震えている彼女を見ていることができなかった。


「この野郎!!」


 また殴られる。

 いくら殴られてもいい。でも倒れるわけにはいかなかった。

 後ろには彼女がいるから。


「なんで!」


 腹を蹴られる。

 自分の口からえづくような音が漏れ出ているのを、なぜか客観的に聞いていた。


「お前なんかが!!」


 痛みに鈍感になってきているのか、単純に殴られすぎて感覚がなくなっているのか、痛みはあまり感じなくなっていた。


「もうやめて!」


「彼女は僕のものだ!」


 彼女は誰のものでもない。

 根底からお前は勘違いしているんだ。


 こんなことをしても彼女は喜ばない。

 目がかすんでいたからか、無意識に視線が地面に向かっていたからか、気づくのに遅れた。


 五十嵐琢也はその手に持っていた傘を大きく振り上げていた。


「いや!!」


「くるな!!」


 推桐葵の足が動くのが目に入った。

 とっさに大声を上げると、全身を震わせながらも彼女はその場から動こうとはしなかった。


 直後、側頭部に激痛が走る。

 一瞬目の前が真っ暗になる。


 しかし全身に打ち付けてくるような痛みと、体全体に染み込んできた冷たさにより意識が覚醒する。


 気づくと俺は地面に倒れていた。


 目がかすむ。


 これで彼は満足するのだろうか。

 あきらめてくれるのだろうか。


「私が好きなのはただ一人よ! それはあなたじゃない!」


 彼女の叫びが聞こえる。

 俺の前に彼の姿がない。


 いまさらになって全身の痛みに敏感になる。

 少し体を動かすだけで激痛が走る。


「どうしてだよ! 僕はこんなにも君のことを想っているというのに!」


「迷惑だって言ってるのよ!」


 声だけが聞こえる。彼女の叫び声が耳に聞こえる。

 体が思うように動かない。


「いや……こないで」


 足音が聞こえる。

 立ち上がらなければ。彼女のもとに向かわなければ。

 顔はまだ地面についたままだった。

 地を這いながら体を動かす。


「そうか。君がもっと僕のことを知れば、あんなやつのことよりも僕のほうを好きになる。僕が教えてあげればいいんだね」


 やっと体が音をするほうに向き終わる。

 そして視線を上げると、奴が推桐葵の腕をつかんでいるのが目に入った。


 その瞬間、全身がかっと熱くなる。

 痛みなど忘れて飛び上がると、奴のもとへ走る。


「おい」 


 突然声をかけられたからか彼女の腕をつかんだまま、奴が振り返る。

 その顔面に向かって掌底を繰り出す。


 衝撃で奴は彼女から手を放し、こちらに完全に体を向ける。

 そしてのけぞっている彼のみぞおちに向かって、空いているもう片方の腕を思い切り突き出した。

 のけぞっていた奴の体がくの字に曲がり、その場に膝をつく。


「俺の推しに……想い人に近づくな」


 それはほとんど無意識に口から出た言葉だった。


「どうして……僕は……」


 痛みからなのか、俺が突然攻撃をしたからか五十嵐琢也はその場でうめきながら、茫然としていた。


 俺はそれを無言で見下ろす。

 少しの沈黙の後、奴はゆっくりと立ち上がると腹を抑えながら傘を支えにしてゆっくりと歩きだす。


 その方向は定まらない。

 どこに向かっているのかもわからない。


 ただ着実に彼女と俺から離れていく。

 しばらくそんな彼の背中を見つめていると、熱くなっていた全身が再び冷えていくのを感じる。


 思考も冷静になる。

 彼の姿が完全に見えなくなるまで俺は目をそらさなかった。


 そしてようやく彼の姿が見えなくなり、戻ってくる様子もないと判断してから推桐葵がいる方に体の向きを変える。


 彼女は呆けた表情で泣きながら俺の顔を見つめていた。

 もしかしてずっとそんな顔で見ていたのだろうか。


「何が……役立つか、わからないな」


 あまりうまく動かない口でおどけるように言う。

 少しでも彼女に安心してほしかった。


 事実、いつぞやに見たカンフー映画がこんな形で役に立つなんて思っていなかったわけだが。


「……ばかあ」


「あ……」


 彼女が抱き着いてくる。

 その瞬間全身に激痛が走る。頭が真っ白になる。


 胸に泣きついてくる彼女の体を支えることもできず自分の体が後ろに倒れていくのを感じる。


 気が緩んでしまったからだろうか。彼女の意図しない突然の行動にキャパシティが限界を超えたからか。


 意識がだんだんと遠のいていく。


「ちょっと悠くん!?」


 推桐葵の戸惑うような声が最後に聞こえ、俺は完全に気を失った。

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