第一章 刑事、獣の主人(あるじ)となる 1
東京メトロ千代田線での通勤は一種の修行である、と、那臣は思う。
押し潰され足を踏まれようとも、じっと耐え抜く忍耐力を、否応なしに涵養させられる。
荒行をものともせず、従順に整然と、車両に吸い込まれていく社畜たち……いや、この路線なら官畜が何割かを占めているのであろう。
彼らとこの密集空間を共有するのも今日で最後かと思えば、大声で叫びたいほどの解放感とともに、僅かばかりの感傷を覚える。
それにしても。
(なんだったんだ……ありゃ……)
朝の冷え込みが厳しくなるにつれ、分厚くなるコートでさらに膨れあがった乗客に揉まれながら、昨日の出来事を反芻する。
森戸みはやと名乗った少女は、謎の言葉を那臣に投げかけてすぐに、同じ制服を着た少女たちに呼ばれ、改札へと消えていった。
別れ際、笑顔で手を振り、唇が「また明日」と動いていたような気もするが、見間違いかもしれない。
マモリノケモノ、という言葉に、どんな字を当てはめればよいのだろう。
どこか異世界めいた、非日常の響きだった。
「……あれか、中二病ってやつ」
隣の乗客に聞こえないよう、こっそり呟いて納得がいった。
ファンタジー好きの読書中毒患者の症状なら、さもありなん、だ。
加えて、修学旅行を一人内緒で抜け出すなどという状況なら、テンションもマックス値を超えているだろう。
通りすがりのおっさんに、ついうっかり妄想設定を熱く語ってしまったとしても、誰も彼女を責めることはできまい。
(ま、彼女は正真正銘、中学生だしな)
憧れた自己像を空想の世界に住まわせ、思うがままの活躍をさせてみせる。
そんな遊びがまだまだ許される年頃だろう。
どうしようもなく世知辛い現実ばかりを突きつけられるのは、もっと大人になってからでいい。
那臣は今まさに、そのどうしようもない現実と向き合うため、満員電車に揺られていたのだった。
車両から溢れ出た乗客の流れに飲まれたまま、日比谷駅の連絡通路を抜け、地上へと出る。
本日までの職場である警視庁の庁舎に近づくにつれ、本日までの同僚たちの容赦のない視線が、寒風とともに吹き付けてきた。
あからさまにこちらを睨み付け、わざと聞こえるように罵るものさえいる。
入り口では、顔見知りのいかつい立ち番に進路を塞がれた。また暴れて問題を起こすのかと思われたのだろうか。
「悪いな、九時に辞令交付なんだ。遅刻しちまう」
辞令の内容も判っているだろう後輩は、無言で進路を譲った。
警視庁刑事局刑事部捜査第一課。
ドラマや小説、漫画でもお馴染み、主に殺人事件などを取り扱う花形部署、ということになっている。
かくいう那臣も、恥ずかしながらうっかり騙されたくちだ。
推理小説やアクション小説の中で、颯爽と凶悪事件を解決する『本庁の刑事さん』に憧れ、東京の大学を卒業後、地元へは帰らず東京で採用試験を受け、警察官となった。
しかしそこそこ手柄を立て、せっせと昇任試験を受け、念願かなって一課の捜査員になったのも束の間、解決してはならない事件とやらに手を出したあげく、組織に害をなす異分子として、有能すぎる上司たちに適切に処分されるはめになった。
一課での在職期間は、たったの七ヶ月というていたらくだ。
いっそのこと、離島か山奥の駐在所勤務を希望しておけばよかった、と今では思う。
少なくとも、権力絡みの泥仕合に関わる確率は低かっただろう。
某警察小説にも描かれていたではないか。
どんな組織でも、中枢部に近づけば近づくほど闇は深くなる。
桜田門は魔物の巣窟だ、と。
階段を駆け上がり捜査一課の方へと歩き出したとたん、まるで部屋へは近づかせないぞとばかりに、同僚たちに捕捉された。
ほんの一、二ヶ月前まであれだけ愛想の良かった女性の同僚に、汚物にでも接するような態度で行き先を告げられる。
予想されていた彼らの態度に、もっと傷つくかと思っていたのだが、そんなものかと他人事のようにやり過ごせた。
(俺がやらかしたことを思えば仕方ない……か)
『度重なる命令違反に加え、単独で違法な捜査を繰り返し、皆からの信頼厚い他班の班長を心労で自殺に追い込み、長年現場一筋で勤め上げ、定年間際の老捜査員をそそのかして巻き添えにし、挙げ句の果てに逆切れして暴れ、止めに入った警察官三人を半殺しにした』
那臣の行動は、同僚たちにはそう説明されているはずだ。
最後の暴行など、三人とも入院が必要なほどの重傷を負わせたというのに、よく刑事事件として送検されなかったものだと、逆に感心する。
それだけ裏に隠された一連の事件を表沙汰にしたくなかったのだろう。
普段あまり近寄ることもなかった部屋の前で立ち止まる。刑事局長室とはまた、たいそうな部屋に通されるものだ。
当たり前だが、懲戒免職の辞令書を貰うのは、人生初の体験である。
不謹慎と思いつつ、那臣は、物見遊山の気分で局長室のドアをノックした。
そして、那臣に告げられた処分は、意外を通り越して、冗談としか思えないものだった。