第二章 刑事、再び現場へ赴く 6
戦後間もなく、女将の父親がはじめたというこの食堂は、女将の代になってから一度内装を新しくしたそうだが、もうすでにかなり年季が入っていた。
二十席足らずの店内にまだ客はおらず、奥の吊り棚に置かれた古びたテレビが、ワイドショーの騒がしい音声を振りまいている。
いつ訪れても懐かしい場所だ。
故郷の駅に降り立ったときのように、深く息を吸い込んで、胸一杯に柔らかく優しい空気を満たす。
暖簾の向こうから、調理の支度をする賑やかな音が聞こえてきた。
その音に被せて、女将が威勢の良い声を張り上げる。
「お父ちゃん! 那坊が来たよぉ! お父ちゃんってば!」
那臣の顔がすいと曇る。
この度の顛末について知ってか知らずか、那臣に対する女将の態度は、以前と全く変わらない。
女将は、夫である古閑の仕事についての話は、昔から全く聞かされず、また聞こうとしたこともないらしい。
守秘義務があるため、どんな事件を扱っているのか話せないのはもちろんだ。
しかし、夫がいきなり首にされては、さすがの女将も無関心ではいられまい。
退職金や、年金の額にも大いに響いているだろう。
那臣が巻き添えにしたせいで、夫婦の老後に大変な損失を与えてしまった。
ひょいと暖簾を跳ね上げ、女将が三人を手招きする。
「全く、ヒマだからって寝てばっかりでさあ、そんなんじゃボケちまうよって言ってんのに。
ほらほらあんたたち上がって上がって、出来たら持ってってあげるから」
「はいはい、っと。ほら、みはやちゃんも来な」
店と繋がっている住まいの方へもよく招かれるのだろう。
まず恭士が湯飲みを手に、慣れた体で暖簾をくぐる。
ためらう那臣の前の湯飲みを、みはやが手早くさらって恭士の後に続いた。
那臣も、続くしかなかった。
奥は六畳の部屋だ。
掃き出し窓は、狭い裏通りに面し、向かいの民家がすぐそこに見える。
タンス三つとやや小ぶりの座敷机で、小さな部屋はほぼ一杯である。
机と窓の隙間に座布団を並べ、その上に老人は横たわっていた。
入り口に背を向け、被った毛布から、白髪五分刈りの小さな後頭部が覗いている。
立ち止まる三人を押しのけて、漬け物を入れた小鉢を手にした女将が入ってくる。
「お父ちゃん、お父ちゃんってば。那坊と恭が来てるよ。那坊のイトコの子も一緒だよ、ほら起きなって」
騒がしい女将の声にも、古閑はぴくりとも動こうとしない。
すると女将は、いきなり毛布をひっぺがし、尻のあたりに強烈な蹴りを入れた。
古閑は「ぐわっ」と枯れた悲鳴を上げ、跳ね起きる。
「何しやがる、この鬼瓦が!」
「起きなって言ってんだよ、この三和土頭が!
そのふたつの耳は飾りもんかい?」
額がぶつかる寸前に顔を付き合わせて怒鳴りあう二人に、みはやは一瞬目を丸くしたが、那臣と恭士は苦笑するのみだった。
この夫婦はいつもこんな感じなのだ。
あっさりと睨みを解いた古閑は、まるで何事もなかったように、大きく口を開けてあくびをしてみせた。
「……なんだ、来てたのか。んな所に突っ立ってねえで座んな。おい、飯でも出してやれ」
「やってるよぉ、あんたもカツ丼でいいだろ」
そして女将は、すでに厨房へと駆けていくところだった。
古閑が、自分の敷いていた座布団を、那臣たちに投げて寄越す。
受け取った恭士が、おどけて笑ってみせた。
「悪かったな古閑さん、せっかくの優雅な朝寝を邪魔しちまって」
「おうよ、全くだ。
だいたいお前らこんな時間から油売ってていいのか?
……そっちのお嬢ちゃんも、学校行ってる時間だろうが」
那臣の隣にちょこんと正座したみはやが、にっこり微笑んで答える。
「大丈夫です。転校したばかりで、登校は明日からなのです」
「みはやちゃん、どこから来たんだっけ? あ、ここのぬか漬けは旨いぜ、おばちゃん特製だ」
恭士はすでに、漬け物をぼりぼりかじってくつろいでいる。
みはやも、いただきますと手を合わせて、小鉢に箸をのばした。
「名古屋です。
二日前から那臣さんのアパートで同居してます。
おお、これはホントに美味しいです!
おばさん、ぬか漬けの天才ですね!」
遠くから、ありがとねぇ~、と女将の声が返ってきた。
カツを揚げる香ばしい匂いが漂ってくる。
和やかな空気の中、那臣はひとり気まずさを抱えたまま、ぬか漬けをかみ砕きながら茶を啜る古閑の様子を伺った。
意を決して頭を下げる。
「……古閑さん、迷惑かけて申し訳ありませんでした」
古閑が、ごくりと大きな音を立てて茶を飲み込む。
「……なんの話だ。お前に迷惑なんぞ掛けられた覚えはねえ」
「いえ、自分が突っ走ったせいで古閑さんまで……」
「何度も言わせるんじゃねえ。俺ぁ迷惑なんぞ被っちゃいねえよ」
「ほら、言ったろ那臣。
じいさん何とも思ってないってよ」
「恭、お前はちったあ迷惑を知れや。
しょっちゅう来ちゃ、タダ飯食らいやがって」
明るく割り込んできた恭士を、古閑がすげなくあしらう。
再び那臣が口を開こうとした時、みはやが那臣のジャケットの袖口を引き、耳元に顔を寄せてきた。
「那臣さん、ほら、誠意は形で示さないと。
この前読んだ『仁義なき抗争・平成唐獅子無頼伝』って本にもそう書いてありましたよ」
「……中学生が読んでいい本じゃねえな、それは」
「おかしいですねえ、R指定は表示してありませんでしたが」
「保護者権限で没収だ。
ついでにその本の情報から常識を形成するんじゃない」
「わかりました。
では、お父さん、例のブツもカタギの常識では不要な誠意でしょうか」
「お父さんと、それからブツとかカタギとか言うのもやめろ」
ここまで全て内緒話と言える声の大きさではない。
もちろん古閑にもまる聞こえである。




