99 地上へ
リヴァイアサンを食べられるだけ食べて、素材を持って帰られるだけアイテム鞄に詰め込んで。
帰還ゲートを通り、一階のホールに戻る。
祈るような気持ちで外に繋がる階段を上り、そこに結界がないことを確認して、外に出る。
「うおー!! 外だーー!! 空気がうめええええ!」
ディーが歓喜の声を上げる。
澄み切った青い空に、のんびりと浮かぶ白い雲。
ゴブリンの巣があった大穴に、広がる緑の森。
あたたかい金の日差しに、冷たく爽やかな風。
懐かしい感覚に胸がいっぱいになり、身体の奥から震えがくる。
リゼットが青い空を眺めていると、左の目から自然と涙が零れ落ちる。
それがリゼットの涙なのか、フレーノの涙なのかは判断ができなかった。
心地よさに酔いしれながら、深く深く息を吸い込む。土の香り、森の香り、太陽の香り。全身が生き返ったような感覚だった。
「――リゼット様、聖遺物を見せていただけませんか?」
「あ、はい」
ユドミラの頼みに応じて水女神の眼球を手の上に乗せて見せる。
ユドミラは淡い青の輝きと、リゼットの顔を交互に見つめた。
「やっぱり持っていきますか?」
「いいえ……いままで聖遺物を回収できても、地上に着いた途端に大地に戻ってしまいました。聖遺物の使い手である、あなただけが聖遺物を地上に留めることができている……それこそがあの方の望まれている力です」
ユドミラがリゼットの前に跪く。
「どうかその力を世界のためにお役立てください。どうか、本山へ」
真摯な嘆願に、リゼットは困ってしまった。
(聖女なら聖遺物を受け入れられると言うべきでしょうか……)
火の女神ルルドゥは聖女の魂のかたちが、聖遺物を受け入れる器にふさわしいと言っていた。だから聖遺物を地上に留めたいだけならば、聖女の協力を仰げばいい。
だがそれを女神教会に伝えればどうなるか。
考えるまでもない。聖女となった女性たちの負担が増すばかりだ。
聖女という役割を放棄したリゼットにとっては、聖女たちにさらなる重荷を背負わせるのは心苦しかった。
「聖遺物の特性からして地上に戻ったのならそれで何も問題ないはずだ。そちらの事情も、こちらには関係ない」
「…………」
レオンハルトにそう言われても、ユドミラは頭を上げない。ケヴィンの方を見ると、目を閉じて静かに首を横に振る。自分には説得できないと言っているようなものだった。
「ユドミラさん、立ってください。私は一介の冒険者ですし、本山なんて恐れ多いです」
「ご謙遜を。ではどうして聖遺物を回収なされているのですか?」
「ええと……流れで? とにかく、私は自由に冒険をしているだけです」
「――ならばそれが運命なのです」
「そんな大仰なものではありません」
運命だなんて大それたものではない。
リゼットはただ、いままで知らなかったものに触れ、見たことのなかった景色を見て、聞いたことのない物語を聞き、食べたことのないものを食べたい――世界を知りたい。それだけだ。
「それに私たち、これからランドールに行きますので!」
このダンジョンを出たら、黄金都市ランドールに遊びに行く――仲間とそう約束した。
「ランドール? 人工ダンジョンに行くつもりなのか?」
ケヴィンが驚いて声を上げる。
「人工ダンジョン? なんだそりゃ?」
ディーがリゼットの抱いた疑問を口にする。
「錬金術師のつくった客寄せのアトラクションだ。とはいえ中身はかなりの本格派らしいが」
「まあ。そんなものが……」
アトラクション扱いされているからには危険度は低いだろう。
慣れていない冒険者や一般人もダンジョンというものを経験できるのなら、それはとても有意義な施設に思えた。
「あそこには聖遺物がないからスルーでいいと思うがね」
言いながらユドミラの腕を引いて立たせる。
「ますますいいじゃねえか。あれがあるダンジョンとか、厄介ごとに巻き込まれる予感しかねえよ」
歩きながらディーが肩を竦める。
ゴブリンの巣があった大穴の縁をぐるっと回るルートで、道のある方へ戻っていく。
「人工ダンジョンですか……ふふ、少し楽しみです」
「潜るつもりかよ……」
「よく食べてよく休み、ダンジョンも探索する。すべてやってこそ冒険者というものです」
「お前の冒険者像って自由だよなぁ」
リゼットにとっての冒険者像は祖母だ。
(おばあ様は確かに自由な方でした……)
そしてその祖母をリゼットは尊敬している。
「ま、行くなら気をつけてくれ。――相棒、おれたちもそろそろ行こうぜ」
大穴を通過し、森に差し掛かったところで、ケヴィンがユドミラに言う。
リゼットたちはこのまま西に向かうが、ケヴィンたちが目指す方角は違うようだ。
ユドミラは無言でケヴィンから顔を逸らし、レオンハルトの方を見た。
「少しいいでしょうか」
「……俺に?」
ユドミラはこくりと頷く。
レオンハルトは少し考えてから。
「わかった。ふたりとも、少し待っていてくれ」
そう言って森の奥に入っていく。
リゼットは二人の背中をモヤモヤとした気持ちをかかえて見送った。
「気になるなら行けよ」
ディーがリゼットの心を読んだように言う。
「いえ、そんなわけには……」
誰にも聞かれたくない話なのだろう。そうでなければわざわざ場所を移す必要はない。
「おいリゼット。冒険者は行動あるのみだぜ」
「よし、ここはまだダンジョン領域みたいだし、お兄さんが気配を絶つ術をかけてあげよう。これでユドミラにだって見つからないぜ」
「さっすが審問官」
「――いいえ。お気持ちだけで」
リゼットは毅然と断った。
「行くなら堂々と行きます」
気配を断つ魔法をかけてもらったとしても、あの二人に見つからずに接近するのは無理だろう。
ユドミラは狩人だ。いまは怪我を負っているが、獲物を発見する嗅覚は研ぎ澄まされている。
レオンハルトは勘が鋭い。戦闘中は特に。
そしてリゼットは二人より少しばかり――かなり――鈍い。
気配を隠して近づいて見つかれば、普通に見つかるよりも恥ずかしい。それならば堂々と行くべきだろう。
リゼットは心を決めて、森の中を進む。できるだけ不自然にならないように気を付けながら。
「リゼット。どうしたんだ、何かあったのか?」
姿が見える前に声をかけられて、心臓が口から飛び出しそうになる。
「い――いえ、何も」
声のした方向に向けて答える。ならどうしてこんなところにいるのかと自分で自分に言いたくなる。
すでに恥ずかしさで死にそうだ。ここで引き返すべきなのかもしれない。
「――レオンハルト様。あなたが私を蘇生してくださったと聞きました。お礼をさせてください」
ユドミラはまったく気にしている様子もなく、普通に話している。
聞かれて困る話ではないのだろう。とても堂々としていた。リゼットはますます自分が情けなくなって、やはり戻ろうとした。
「気にしなくていい。ダンジョンの中ではお互い様だ。話はそれだけか? なら――」
「あなたの【竜の血】――」
何故、レオンハルトのスキルを知っているのか――
雰囲気が不穏になったのを感じ、リゼットは無意識に森の奥に進んでいた。
そこにいたユドミラは左目を押さえながらレオンハルトに真正面から身体を晒し、レオンハルトは顔はユドミラに、身体はリゼットの方に向いていた。
ユドミラは、リゼットの方を一瞬も見ることなく続ける。
「魔眼で見えました。私の魔眼は、過去を見て、未来を予知する一種のスキルです」
言いながら、顔を赤らめる。
「おっしゃりたいことはわかります。これはまったく万能ではなく、自分の未来は予知できませんし、先のことになるほど精度も高くありません。それに……女神に関することは、ほとんど見えないのです。そのせいで、リゼット様には大変な失礼を――……」
「……それで?」
「失礼を承知で言います。もうドラゴンを倒すのはやめておいた方がいいでしょう」
ユドミラは真剣な声で、眼差しで、言う。
「ヴィルフリート……邪竜を倒し、その上に国を建てた竜殺しの英雄。ヴィルフリートは邪竜を倒すために聖竜の血を受け、その血は子孫に受け継がれている……」
「…………」
「竜の血は強大な力をもたらしますが、人の身には毒でもあります。解毒の方法は、他の竜の血を浴びることのみ」
「随分と詳しいんだな」
魔眼で見たのか。女神教会が得ている情報なのか。それともエルフの知識なのか。
レオンハルトは否定しない。
ドラゴンを討伐することが一族の成人の儀とだと、レオンハルトは言っていた。
「あなたの竜の血は強くなりすぎている。これ以上力を高めれば、余計な争いを生むでしょう」
「国に帰るつもりはない。俺は王には向いていないし、兄と戦うつもりもない」
「リゼット様と共にいればあなたの名も広まります。その実力も、英雄譚も。あなたの国の民は、より強い王を求めるのでは?」
平穏を望むならリゼットから離れた方がいいと、ユドミラは訴えている。
そうでなければいずれ争いに巻き込まれると。
――もし、レオンハルトがパーティを抜けると言ったら、リゼットには引き止められない。
リゼットは仲間と契約を交わしているわけでもなく、同じ目的を掲げているわけでもない。
――一緒にいたい。
ただそれだけの理由で、共にいる。
ただそれだけの理由で、去っていく人を引き止めることはできない。
リゼットは、ここで微笑むべきだった。
どんな決断も受け入れる、応援すると。
だが、うまく笑えない。
そのとき、ダンジョンがあった方角から激しい爆発音が響く。
空を引き裂かんばかりの爆音は、身体を、大地を揺らし、森にいた鳥たちが一斉に飛び立った。