86 第四層のラミア
長い階段を下りて、第四層へ。
そこは枯れて砕けた白い葉がはらはらと舞い落ち続ける洞窟だった。魔法の灯火の中で、雪のように降り続ける。
洞窟の天井は高く、表面はごつごつとしている。
この雪のようなものがどのような理屈でどこから降ってきているのかすらわからない。ここには木も空もないのに。
まるで世界が壊れていっているかのような落ち着かなさだ。
空気はひんやりと冷たいが風がないため寒くはない。それだけが救いだった。
「ケヴィンさんとユドミラさんはどうされているのでしょうね」
「上の階層で凍死しててもおかしくないぜ」
「…………」
ディーは素っ気なく、レオンハルトは無言だ。
二人は既にケヴィンとユドミラを敵と認識しているようだった。
「お前まさか、モンスター料理食ってくれたからって、ちょっとほだされてるんじゃねーだろーな」
「そ、そんなことは、ほんの少ししか」
「あるのかよ。本当にお人好しだな」
そうは言ってもリゼットたちはあの二人の目的を知らない。危害を加えてくるのは許せないが、誤解があるのなら解いておきたい。
このダンジョンを無事に脱出するためにも、可能ならば協力していきたい。ダンジョンの中にいる間だけでも。
「リゼットの好きにすればいい」
レオンハルトが前を向いたまま言う。
「レオン――」
「ただ、もし危害を加えようとしてきたり必要以上に近づいてくれば――」
足を止め、振り返る。
「俺は、二人を守るために行動する」
「……ありがとうございます」
「チッ、甘いやつ……」
レオンハルトはわずかに苦笑し、すぐにまた真剣な表情に戻った。
「いまはそれよりも、ここにまったくモンスターがいないことの方が気になる。上の階層もモンスターが少なかったが、ここはそれ以上に何もいない」
存在するのは原初的な洞窟と、降り続く灰のような白い葉の欠片ばかり。
「そんな……それでは……このままでは餓死……?」
パイア肉とヤマイモ、ウォールミミックはあるが。ここまでモンスターどころか命ひとつ存在しないとなると、新しい食料は手に入りそうにない。
リゼットはいままでで一番の危機感を覚える。
「いや、餓死はまだ早えだろ。三日ぐらいなら食わなくても全然平気――じゃ、なさそうだな……」
「さすがに階層ボスがいるはずだ。ボスがいれば、食べるか、次の階層に行くか、もしかしたら外に出られるだろう」
「外に、ですか?」
「ここが最下層の可能性は充分にある。諦めずに行こう」
「そ、そうですね。がんばりましょう!」
気を取り直して探索を再開する。
まるで蛇の巣穴のような場所を、深く深く潜っていく。
モンスターどころか虫一匹、草の一本にすら出会うことなく。
迷宮は複雑だったが、モンスターがいないことで探索は順調に進む。
最奥と思われる部屋に辿り着くのも、さほど時間はかからなかった。
その部屋に近づいた瞬間、異様な雰囲気と匂いに息を殺す。
お互いに目配せしながら、黙ったままゆっくりと進む。
広い――とても広い洞窟の中にぼんやりと、蛇の後姿が浮かぶ。
人間の胴体ほどの太さのある巨大な蛇の尾が。
長い身体の反対側には人影があり。
それは飲み込まれかけている人間ではなく、その蛇の上半身だった。
【鑑定】ラミア。半人半蛇の人食いモンスター。食欲は旺盛で同族も食べる。その身は呪いに蝕まれ眠ることができない。
薄紫の長い髪に、雪のように白い肌。そして金色の瞳。
ラミアは泣いていた。
瞳を涙に濡らしながら、泣き続けながら、肉を食べていた。
「おいおい……自分を食ってるぞあいつ……」
ディーのうめき声が小さく響く。
そこにいたのは恍惚とした表情で自分の尾を食べているラミアの姿だった。
自分の下半身に噛みつき、引きちぎり、咀嚼する。
食べても食べてもなくならない。食べればすぐに再生していく。
その周囲には骨だけが散乱している。
部屋の端には骨が山積みにされている。
「もしかして、こいつがこのエリアのモンスター全部食っちまった……とか?」
ディーが乾いた声で呟く。
その推測を否定する材料は何ひとつない。
金の双眸がこちらを見る。新たな獲物を、待ち望んでいたものを見つけた目だった。手にしていた骨を投げ捨て、両手を伸ばして迫りくる。
その時、ラミアの腹部に矢が突き刺さる。
細い矢はラミアの腹に深々と食い込み、矢を受けたラミアは苦しそうにその場に丸くなった。
「ふん、化け物め」
怜悧な声が上から降ってくる。顔を上げると、壁の高い場所に開いた穴に、弓を構えたユドミラが立っていた。
(ユドミラさん――)
ユドミラは矢にモンスターをも殺す毒を塗っていると言っていた。その毒がいまラミアを苦しめている。
ユドミラは眉一つ動かさず、次の矢を射ろうとする。
その時、苦しむラミアを庇うようにして幼いラミアが現れる。両手を広げて、ユドミラを見上げて。その身体はキリングベアーの毛皮に包まれていた。
(あの子は――)
勝手に動きかけた身体を、レオンハルトに制される。
ユドミラは淡々と仕事をこなすように矢を射た。
正確無比の矢は幼いラミアの剥き出しの胸部に刺さった。
幼いラミアの身体がぐらりと揺れ、傷口から弾けるように水が噴き出す。血ではなく、透明な水が。
幼いラミアの身体が小さくなり、だらりと倒れる。水が詰まっていた人形から水が抜かれたかのように、ぺしゃっと潰れた。
慟哭が響く。
ラミアの悲しい慟哭が。
ラミアは泣きながらユドミラに襲い掛かろうとする。
それを阻んだのは影に隠れていたケヴィンだった。
「シルフィード!!」
ケヴィンの風魔法によりラミアの身体が宙に浮く。
風に巻き取られ、浮かび上がり、頭が下を向く。
「化け物。それはお前には過ぎたものだ」
矢が三本。
額、首、胸。
それが運命で定められていたかのように、矢はラミアに吸い込まれる。
激しい地響きと共に、仰向けになって落ちた時には、ラミアは既に死んでいた。
左の眼球が外れ、ころころとケヴィンの足下にまで転がる。
そして奥に青い光――帰還ゲートが現れた。
「ラミアの眼……これが水の女神の眼球ってやつか? ……ユドミラ!」
ケヴィンはラミアの眼球を拾い上げると、ユドミラに向けて投げた。
ユドミラはそれを空中で受け止める。視線はリゼットに向けたままで。
「どうしてそんな顔をするの……? もしかしてモンスターに同情でもしてた?」
「…………」
あの幼いラミアのことを気にかけていたのは事実だが、モンスターを倒したユドミラも当然のことをしたまでだ。
モンスターは倒すべき存在だ。
リゼットもいままで多くのモンスターを倒してきた。生きるために。食べるために。相手に敵意があろうとなかろうと。
「それとも、食べてみたいとでも? 呆れた暴食ね……」
ユドミラは呆れたように言いながら、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「ああ、なるほど……そういうこと」
笑みを深め、フードを外す。そこに隠されていたのは、エルフのものよりわずかに短く、人より長い、尖った耳。
――ハーフエルフの証だ。
「お前にできて私にできないはずが……ない!」
ユドミラは決死の表情でそう言い切ると、手にしていたラミアの眼球をごくりと飲み込んだ。