77 キリングベアーの毛皮
洞窟を出たリゼットは、レオンハルトを追いかけてキリングベアーを倒した現場へ向かう。
雪の勢いはますます強くなっていた。飛ばされそうになった毛皮のマントをぎゅっと押さえる。
「天然のフリーズストームです……」
ギュ、ギュと音を立てながら雪の上を歩く。
雪の勢いと暗さで方向感覚を失いそうだ。
――ふと。
奇妙な感覚がして、リゼットは立ち止まる。
まるで誰かに見られているかのような、そんな感覚。
だが、どこにも、誰もいない。
リゼットは白い息を吐いて空を仰いだ。吸い込まれそうな雪の渦。
(気のせい、よね)
視線を戻して前に進もうとした時に、リゼットは気づいた。
方向感覚を失ってしまっていることに。
どちらの方向に行こうとしていたのか、完全に見失う。頼りにしていたレオンハルトの足跡も雪に覆われてしまっている。
灯火の魔法を強めて辺りを照らすが、雪の勢いが強くて何も見えない。
諦めて戻ろうかと思ったが、自分が歩いていた足跡も消えていた。
(遭難……?)
心臓がきゅっと締めつけられる。
(お、落ち、落ち着いて。いざとなれば辺りを燃やして溶かしてしまえば)
混乱しながら何か手掛かりはないかと探す。
おぼつかない足元が、不意に滑る。
「――――っ!」
何も見えない場所で暗闇に落ちそうになったリゼットを、背後からの強い力が引きずり上げる。
「リゼット!」
「……レオン?」
いつの間に近くに来ていたのか、レオンハルトが後ろからリゼットを抱き支えていた。
「びっくりした……」
「ご、ごめんなさい。ありがとうございます」
「何かあったのか」
「いえ、私も解体を手伝おうと思って」
リゼットの身体を片手で抱えたまま、長い、深いため息をつく。
「あ……ごめん。気が抜けて。急ごう。俺から離れないでくれ」
レオンハルトはリゼットを離すと、今度はしっかりと手を握って雪の中を歩き出す。
その足取りは迷いがない。雪は少し弱まってきたものの、この雪の中でどうやって道と方角がわかるのだろう。不思議で仕方がない。方向感覚と視力に優れているのだろうか。
ほどなく現場にたどり着く。雪は既にゴブリンの死体を隠しきっていた。キリングベアーの巨体も雪に覆われかけていた。もう少し時間が経っていれば何もかもが雪で消えていただろう。
「キリングベアーはやっぱり熊肉と同じ味なんでしょうか」
熊肉はとてもまろやかで、煮ても焼いてもおいしい肉だ。
「これは食べない。毛皮をもらうだけだ」
「毛皮を……」
「皮をはぐ前に解毒魔法はかけるけど、どこまで毒が回っているかわからない。食べるのは危険すぎる」
「そうですね……あの毒の強さは怖いですね」
レオンハルトはよく研がれた短剣で、手早く毛皮を脱がせていく。
「この毛皮なら一人一枚取れるし、吹雪も耐えられるはずだ。どこまでこの雪が続くかはわからないが、きっと役に立つ」
リゼットはその手伝いをしながら、キリングベアーの肉に触れる。
(まだあたたかい)
命の温度がまだ残っていた。毛皮のおかげでだろうか。
「リゼット」
「は、はいっ」
「しばらくあの洞窟で休憩を取ろう。最低でも丸一日――できれば二日ぐらい」
「そうですね。ディーが全快するまでは動かないでおきましょう」
「うん。それに、君も疲れている」
「私がですか?」
自覚はなかった。
だがレオンハルトからそう見えるということは、そうなのだろう。
「疲労はダンジョン攻略の大敵だ。食事と睡眠の大切さは、君が俺に教えてくれたことだ」
「……わかりました。そうします」
言われてみれば、自分でも精彩を欠いている気がした。色々と失態続きだ。キリングベアーの解体が終わったら、しばらくはおとなしくしようと心に決める。
(もっと体力が欲しい……)
体力だけではない。
何事にも動じない精神力。冷静な判断力と、それを貫く実行力。
そう――レオンハルトみたいに。
「レオンはどうしてそんなに強いのですか?」
「俺?」
「はい。とてもタフで、精神も安定して見えます。秘訣があるのなら教えていただきたいです」
やはり筋力なのだろうか。
レオンハルトの身体をじっと見る。疲労は影も見えず、動きは軽やかで、重心も安定している。
それは生来のものでもあるだろうが、トレーニングの積み重ねの産物でもあるはずだ。
どれほどの努力を積めば少しでも近づけるのだろう。
しかし返ってきた答えは意外なものだった。
「――君がいてくれるから」
「私ですか? 少しでもお役に立てているのならよかったです」
「いや……役に立つとかじゃなくて、いやもちろん助かっているんだけど……」
歯切れが悪い。
しかしその間にもするすると手際よく作業を進めていく。あっという間に一枚終わる。
行動を共にするようになって多くのモンスターをさばいてきた。最初こそ戸惑っていたレオンハルトだが、すぐに要領をつかんで様々なモンスターを解体できるようになっていた。
もともとモンスターに対する造詣が深いことも関係するだろうが、知識欲と向上心、そして食欲の賜物だろう。
身体能力も技能も精神力も高いレベルにあるレオンハルトと共に冒険ができていることは、リゼットにとって最大級の幸運だった。
いつかパーティを解散する日も来るだろうが、その日までは最大限パーティに貢献したいと思った。
「――俺は、君がいてくれるだけで、どんなことだってできる」
「私もです」
「……うん……だから、無理はしないでくれ」
「はい。レオンも、何でも言ってくださいね。私にできることならなんでもしますので」
「……あ、ああ」
(レオンはあんなに強いのに、とても謙虚なのね。強さの秘訣が協力し合うことだなんて)
素敵な答えだと思った。
そして、足りないものを欲するよりも、いま自分の持つもので仲間のために最大限尽くそうと思った。
二枚目と三枚目の毛皮も取り終わり、リゼットは脱がしたばかりの毛皮に浄化魔法をかけて、残っている肉片や汚れを取る。
あとは燻煙なめしをしたら完成だ。
洞窟の近くに移動し、木の枝を折って集める。生木に火をつけて、毛皮の内側を燻していく。
洞窟の中に戻ると、のんびりと寝そべっているディーの姿があった。
「おー、お疲れさん」
「戻りました。何か変わりはなかったですか?」
「こっちはのんびりしたもんだよ。……ところで、あのキリングベアーも食べる気か?」
真剣な表情で問われる。
よほど食べたかったのだろうか。
「はい。熊肉はおいしいですよ」
「――あいつら、ゴブリンを食べてるんだぜ?」
「何を今更」
レオンハルトがやや呆れ気味に言う。
「問題はそっちじゃなくて、ヒュドラ毒に侵されていることだ」
「こっちも大事だよ……」
「解毒魔法はかけたが、完全に解毒できているのか正直自信はない。だから今回は食べない」
「さっすが! 話がわかるな!」
ディーは安心したように寝袋に入ると、そのまますやすや寝てしまう。
レオンハルトは肩を落とすリゼットを見て。
「――まあ、まだチャンスはある。あの大物はまだ生きているはずだから」
その後、吹雪はますます激しくなり、風と雪が外のすべての音と気配をかき消した。