76 ヒュドラの毒矢
「とりあえず移動しよう。あの大物はまだ生きているはずだ。この状態で鉢合わせはしたくない」
レオンハルトがディーを背負う。
しかし移動といってもどこへ行けばいいのか。
「……この近く、あっちの方に、洞窟みたいなのがあった……」
ディーが血の気の引いた顔で、一つの方向を指差す。
「よし、行こう」
「……蘇生魔法も『種火』もあるんだから無茶すんじゃねえよぉ……」
「使わずに済むならその方がいい。俺の蘇生魔法には期待しないでくれ」
そちらの方へ向かうと、雪が大きく盛り上がった場所がある。
洞窟の入口だった。
穴が開いた部分の上に積もった雪がわずかに溶けたのか、つららがいくつもできていた。
「何かの巣だな……いまは、何もいないみたいだ」
つららは中に生物がいた証だ。吐き出す呼吸や体温で雪が溶けてつららになる。
洞窟の奥の気配を探り、何もいないことを確認して、レオンハルトはディーを背負ったまま低く身をかがめ、中に入る。
真っ暗な道を、リゼットは灯火の魔法で中を照らした。
「これはたぶん、キリングベアーの巣だな」
レオンハルトが呟く。
この入口のサイズだとキリングベアーは入ることができるが、ジャイアントキリングベアーは入ることができないだろう。
狭い通路を少し進むと、突き当たりには部屋のような空間があった。
三人で過ごすのにも充分な広さがある。
地面には枯葉がカーペットのように敷き詰められていて、底冷えの防止になっていた。
他には何もない。
「キリングベアーは巣の中を清潔に保つらしい。ちょうどよかった。ここなら風や雪が避けられるし、警戒も一方向で済む。しばらくここで休もう」
リゼットが寝袋を敷くと、レオンハルトがディーをその上に降ろす。
「足は動くか?」
「――ん。大丈夫。痛みもねぇ。なんかすっげえ疲れたけどな……」
「失った血が多い。しばらく休んでおいた方がいい」
リゼットは水を用意して、ディーに飲ませる。
「何か食べたいものはありますか?」
「いや、いまはいい……」
全身に力が入らないのか、だらりと寝そべる。まるで屍のようだ。
リゼットは洞窟内を温めるため、枯葉をどかして魔法の火をつけた。
「ヒュドラ毒は諸刃の剣だな……」
「危険すぎます。全部無毒化してしまいましょう」
まだヒュドラの胆汁がついた毒矢は残っている。
リゼットはユニコーンの角杖を手に握り、ヒュドラ毒を全部解毒しようと決める。
「や、やめろ。こいつは悪くない。やめてくれ」
ディーが起き上がり、座ったまま矢筒をひったくって壁際まで下がる。
背中に矢筒を庇うディーに、リゼットはにじり寄った。
「ディー、そこを退いてください。私も手荒なことはしたくありません」
「お、落ち着けよリゼット……こいつ自身は何も悪くねえだろ? 使い方さえ間違えなけりゃ――」
ディーはヒュドラ毒に未練たらたらだ。あんな目に遭ったというのに。
「ディー、もうそんなものには頼らないでください」
「……いや、毒は普通に使うだろ……」
「ディー」
「こ、こんなことで泣くなよ」
「こんなことではありませんし、泣いてませんっ」
目元をぐっと拭うと、濡れていた。
「これは、雪のせいです!」
どれだけ有用で強力な毒だろうと、仲間を傷つけたものは許せない。
リゼットも無理やり奪いたいわけではない。納得していない状態で取り上げたとしても、また危険な毒に手を出すだろう。
できれば静かに説得したいのに、胸がざわめいてうまく行かない。
「ディー、何を焦っているんだ」
レオンハルトが落ち着いた声で問いかける。
「……焦りもするだろ。ほとんど役に立ててねーのに足引っ張っちまって……お前らをこんなところに閉じ込めて……」
ぽつりと吐き出されたのは、悔しさと怒りだった。自分自身に対する怒り。
「――って最悪だなオレ。悪い、聞かなかったことに――」
冗談めかして、笑おうとする。
リゼットはその無理やりな笑顔を痛々しく思う。
ディーはこのダンジョンから出られないことを気にしている。
自分だけではなくリゼットやレオンハルトを巻き込んだことを、深く悔やんで、自分を許さないでいる。
リゼットはしゃがみこみ、ディーの顔に両手を伸ばす。その頬をむぎゅっと包み込んだ。
顔を上げさせ、まっすぐに瞳を見る。
「ディー、それは違います」
「んなっ?!」
「ディーはとても頼りになりますし、私はこのダンジョンに閉じ込められているわけではありません。だって私は、ダンジョンを楽しんでいますから!」
偽りのない本当の気持ちだ。
新しいダンジョン、新しいモンスター、新しい料理。すべてがリゼットの胸を湧き立たせてくれる。
もちろんリゼットが楽しんでいるからといって、ディーの後悔が消えるわけではない。
「離せって! それはお前の気分の問題だろ」
「気の持ちようは大事です。気持ちひとつで、楽しいダンジョンライフも、すごく楽しい異世界キャンプです」
「前向きが過ぎるだろ! お前って本当変わってるよな」
手首を持たれてぐいっと押し返される。
顔の赤みは戻ってきているが、まだ矢筒は背に庇ったままだ。
こうなれば実力行使かと考えていたリゼットの隣に、レオンハルトが立つ。
「ディー、君が俺たちを閉じ込めたと思っているなら心外だ。俺は自分の意思でここに入ったし、その選択を後悔していない」
片膝をついて座り、ディーを見つめる。
「それと、君はこのパーティに欠かせない存在だ」
落ち着いた、誠実な声でゆっくりと。
「周囲の状況によく気が付くし、マッピングも丁寧だし、義理堅くて、勇気がある」
「――ちょ、おま、恥ずかしいこと言うな!」
「はい、私もそう思います。ディーはとても強くて、優しい人です」
「いいから黙れ……」
耳まで真っ赤になって固まるディーに、レオンハルトは続ける。
「解錠やトラップ解除が必要なとき、君がいなければ俺たちはあっけなく全滅するだろう」
リゼットは何度も頷きながら聞く。
「俺たちは不完全だ。誰が欠けても成り立たない。だから、自分を大切にしてくれ」
「……わかった、わかったよ。背伸びはやめる。痛い目見たしな」
ディーは背中の矢筒をリゼットに突き出した。
「オレにはこいつは扱い切れねぇ。挽回は、また別のところでする」
「ありがとうございます」
受け取ったリゼットは念入りにヒュドラ毒を解毒した。浄化魔法もかける。
一件落着してほっとしていると、レオンハルトが立ち上がる。
「ふたりは休んでいてくれ。キリングベアーの解体をしてくる」
「レオン――」
ひとりは危ない。それにキリングベアーの解体は大変だ。
リゼットは手伝いに行こうとしたが、ディーを一人残すのは気になった。
「オレのことはいいから行ってやれよ」
「ディー……ありがとうございます。何かが入ってこないか、外からも気を付けておきますね」