63 第二層の森は深海のごとく
階段を下りると、まるで岩山の森のような世界が姿を見せる。
「なんだかとってもダンジョンって感じですわね」
リゼットの声が木々を越えて上の方にまで響いていく。
天井はかなり高くなったが、空はない。植物と水の匂いが濃い。深い深い夜の森の中にいるかのようだ。
「葉が赤い……」
光に照らされる木の葉の色が、緑ではなく赤いことに気づく。木の幹の色も薄いグレーだ。
世界ががらりと変わっている感触に、リゼットの背筋がぞくぞくとした。
「うっわ、なんだこれ」
ディーが驚きの声を上げる。
魔法の灯火がその足元を照らす。
「……ゴブリン、だな……」
レオンハルトがじっくりと見て断定する。
ほとんど原型は残っていない。頭は噛み潰され、身体は太く鋭い爪で切り裂かれ、内臓が取り除かれている。人間の仕業ではない。先に降りたケヴィンとユドミラの仕業でもないだろう。
そんなゴブリンが三体分もいた。
「食べられたようですね。ダンジョン内でも生態系はあるんでしょうか」
ゴブリンは明らかに食べられている。つまりこの階層にはモンスターを食べるモンスターが存在するということだ。
「……これは、キリングベアーの仕業かもしれない」
ゴブリンの側にある大きな足跡と、落ちている赤毛を見つめながら、レオンハルトがぽつりと呟く。
「キリングベアーって、あのキリングベアーですか?」
リゼットは驚く。地上で度々被害を出している強靭で凶悪なモンスター――それがキリングベアーだ。
雑食で肉を好み、人も襲うモンスターだが、あまりにも力が強いため神聖視すらされているモンスターである。特に大型のものはジャイアントキリングベアーと呼ばれ畏怖されている。
ジャイアントキリングベアーが村に現れれば、その村は滅びるとまで言われている。
「もしかしたらダンジョンの外から入り込んだのかもしれないな……足跡から見るに、大きさは三メートルほどか」
リゼットの倍近い。
想像しながら見上げてみて、ゾッとした。
それよりも大きなモンスターとは何度も戦ってきているとはいえ、あまりにも大きさが違うモンスターとはまた別の威圧感がある。
「会いたくねぇなぁ……」
「いや、ゴブリンを主食としているなら、俺たちを食べようとはしないかもしれない。キリングベアーは雑食だけれど偏食だから、気に入ったもの以外は基本的には食べない」
「だといいけどな。腹が減ってたら、何食うかわかんねーぞ」
ディーとレオンハルトがちらりとリゼットを見る。
「食うか食われるか……うーん、なんだかとってもダンジョンって感じですね」
「……そうだな。警戒するに越したことはない」
レオンハルトは険しい顔をし、立ち上がった。
「まーいざとなったらヒュドラ毒もあるしな」
ディーは矢筒のヒュドラ毒を塗った弓矢を見て安心したように笑い、探索を再開した。
「この先、水の匂いがするな……魚が食えるかも」
第二層の地図を描きながらディーが呟く。
進むごとに、塩っぽい水の匂いはどんどん増していく。
そして進みきった先には、水辺があった。
広い洞窟の暗闇の中に、森と水辺が広がっていた。
水面はわずかに波が立っている。風もないのに。波が立つ音が遠くから響いてくる。それはまるで川のせせらぎや、森のざわめきのような音だった。
「まるで海だ……」
レオンハルトがぽつりと呟いた。
「いや、本当の海はもっとどこまでも広がっているけれど、このさざ波も、海みたいだ……」
【鑑定】汽水。真水と海の水が混ざり合っている。塩分と微量の金属とエーテルを含む。
水面の先は暗闇に閉ざされていて、向こう側は見えない。どこまで続いているのだろうか。
横に視線を向ければ、水際に沿って通路が伸びているのが見える。
――刹那。
水面が激しい飛沫を上げ、水の中から何かがリゼットたちに向けて飛び出してくる。
【水魔法(上級)】
「アイスウォール!」
リゼットは前に氷の壁をつくる。
飛び掛かってきた何かごと凍らせた壁がそびえ立った。
透明な氷の中では魚と落ち葉と藻のかけらが混ざって凍っていた。
「魚です……」
リゼットは魚がいる部分だけ氷を溶かして、手を入れて魚をつかみ、取り出す。
初めて見る魚だった。
「ディー、魚ですよ!」
「そうだなモンスターだな」
【鑑定】レモラ。障害の怪魚。頭の吸盤であらゆるものに取り付き、遅延させる能力を持つ。船の進みが遅くなればこの怪魚が船底に張り付いているかもしれない。
手に取ったレモラはたっぷり太っていて、非常においしそうに見えた。
額には立派な吸盤がある。これで船や他の魚に取り付くのだろうか。
「とってもおいしそう。早速食べましょう」
リゼットはまな板を取り出すと、包丁を握ってまずレモラの腹を裂いた。
ぱんぱんに膨らんだ腹部には、半透明の卵の塊がたっぷりと詰まっていた。丸々と太った健康そうな魚卵だ。浄化魔法で消毒してから、アイテム鞄の中から取り出した酒を入れて卵をほぐす。
「――酒!」
「ディー、これは料理用のお酒です」
「酒は酒だろ!」
「レオン、ディーを押さえておいてください」
「あ、くそ、離せ」
食中毒を警戒して、卵に軽く火を通すとともに酒のアルコールを飛ばす。スプーンですくって食べると、ぷちぷちとした感触が口内で弾けた。とろりとした塩味の液体が溢れ、酒の苦味と合わさって深い風味をもたらす。
「ああ……これは美味です。はい、レオンもどうぞ」
スプーンで一口分をすくって、ディーを抱えたままのレオンハルトの口元へ運ぶ。
レオンハルトはやや硬直したが、小さく口を開いてそれを食べた。
「どうですか?」
「あ、うん……うん……」
何故か遠い目をしているが、不快感はなさそうだった。
「ディーもどうぞ」
ディーの顔が引きつる。
逃げ腰だがリゼットはどうしてもこの味を共有したい。
「魚ですし、気持ち悪くないですよ?」
「いやごめん。お前らとは感性合わねえかも」
逃げようとするディーの肩をレオンハルトが上から押さえつける。
「大丈夫だ」
「何がだよ」
「ダンジョン領域内だから、死んでも蘇生できる」
「お前らが先に死んだら無理だろそれ!」
ディーが暴れるがレオンハルトはびくともしない。
「それにレオンお前、蘇生魔法はあんまり自信がないって言ってなかったか?」
「復活アイテムの『命の種火』があるだろう?」
――『命の種火』はダンジョン内で死亡したときにその場で復活できるアイテムだ。とても貴重で高価、そして一人ひとつしか持てないという謎の制約がある。
「一人ひとつじゃねーか! 無駄遣いさせるな!」
「大丈夫ですよ。はい、どうぞ」
リゼットはディーの口元にレモラの卵が乗ったスプーンを持っていく。
ディーは無言のままじっとそれを見つめ、強く目を閉じ、意を決したかのように口を開けた。
卵を口の中に流し入れると、眉根を寄せながらそれを噛んで、飲み込む。
「あ……クソ……普通に食える……」
弱々しい声で言い、ぱたり、と力なく倒れた。