196 ミーミルベリー
そしてようやく、塔の底が見えてくる。先が見えれば、足も早まる。
ここまで塔を照らしてきた下からの光は、底全体から生まれていた。
足元の感触が、石の階段から柔らかな土のものに変わる。
長い年月をかけて降り積もった、誰もが踏みしめたことのない、新しい土が、明るい光を放っていた。
そしてそこには、リゼットの背丈ほどの木々が何本も生えていた。
葉は生き生きとして生命力に溢れ、枝からは白く可憐な花と、鮮やかな青や紫色の実がぶら下がっている。実はコインほどの大きさで、たわわに実って甘い匂いを発していた。
リゼットは手を伸ばし、熟していそうな実に触れる。
「この実、食べられそうですね」
「……ミーミルベリーだ。すごいな。実物を見たのは初めてだ」
【鑑定】ミーミルベリー。ネクタルを内包する果実。体力回復効果がある。
芳醇な香りを放つ果実を、小さく齧る。
「……おいしい!」
リゼットは喜びに頬を緩ませる。
果実は肉厚で、中には甘い果汁がたっぷりと詰まっていた。皮は薄く、口触りもいい。残りの分も口の中にいれ、しっかりと噛んで呑み込む。
「甘みと酸味のバランスが絶妙で……そして、どこかダンジョンの味がします」
それに何より甘い。ダンジョンで甘味は貴重だ。久しぶりの甘さにとろけていく。
「……うん、うまい。それに、力が湧いてくるかのようだ」
「久しぶりの新鮮な果実です。たくさん食べていきましょう」
しばしダンジョンの底で熟れた果実を味わい、疲れを癒す。
「こんなにおいしい果物は初めてです。ジャムやパイにしてもおいしいでしょうね」
想像するだけで幸せな気持ちになれる。
「ミーミルベリーにはいくつも伝承がある。あるダンジョンの深層にひとりで迷い込んだ若い戦士が、命尽きる寸前でミーミルベリーを食べて体力を回復し、無事生還できたとか。その美味しさと特別な力から、ヒューマンだけでなく、エルフやドワーフも魅了したとか」
「まあ。縁起のいい果物ですね」
まさにいまの自分たちにぴったりの果物だ。
「地上でも栽培出来たらいいんですが」
「残念だけど、ミーミルベリーはダンジョンの土壌でしか育たないらしい」
「ダンジョンって不思議ですね。ああ……この世界にはどれだけ神秘と美味が溢れているんでしょう」
リゼットは感嘆の息を零し、ミーミルベリーを食べ続けた。食べれば食べるほど力が湧いてくるかのようだった。
その時、ずっと聞こえ続けていた鼓動が、大きく、強くなった。
リゼットは果実をたくさん摘み取ってアイテム鞄に入れてから、音に導かれるようにして、ミーミルベリーの林の中を進む。
期待と緊張に鼓動を速めながら。
柔らかな枝をかいくぐって進んでいくと、やがて白い筋のようなものが進路を阻んだ。
繭のような、蜘蛛の糸のような白い筋が、無数に張り巡らされて壁のように立ちはだかっていた。
まるで檻のようなものの奥に、巨大な肉塊の一部が見えた。それは一定のリズムで、どくん、どくんと動いていた。
ゆっくりとした力強い振動が伝わってくる。まるで大地そのものが脈動しているかのように。
「あれが……巨人の心臓か……?」
緊張と警戒を深めながら、レオンハルトが呟く。
――世界の中心で眠る大地の巨人。
その心臓。
存在感そのものが圧倒的だった。
リゼットは喉をごくりと鳴らした。
「……リゼット、まさか……」
「なんだか、おいしそうじゃないですか? ……いえ、冗談です」
「……冗談だと思えない……」
レオンハルトは深く困惑していた。
「見えているのはごくわずかなのでしょうが……この大地の心臓が、これくらいの大きさなのは、なんだか不思議ですね」
リゼットはこの世界の広さをほんの少しだけ知っている。
一生の内にはとても踏破できないほどの広さだ。
その世界の中心が、いまここにある。脈打っている。
――この大地は生きている。
――そしていまから殺すのだ。
(本当に、大丈夫なのかしら……)
今更ながら躊躇いが出てくる。
――大地の巨人が完全に死ねば、女神たちが巨人を抑え込む必要もなくなる。
そうなれば聖女が新しい女神となることもなく。
聖女が世界の杭となり続けることもない。
とはいえそれで世界が滅んでしまったら、取り返しがつかない。
リゼットの目の前で、炎が燃え上がる。
火の女神ルルドゥが憮然とした顔でリゼットを見下ろした。
『怖気づいたか。らしくもない』
「ルルドゥ……」
『何が起こるかは誰にもわからぬ。何も変わらないかもしれないし、大きな変化が押し寄せるかもしれない。それこそ、世界が丸ごと滅びるような』
どこか面白がっているルルドゥの隣で、水が弾ける。
水の女神フレーノが眉を顰める。
『ルルドゥお姉様は脅しすぎですの。母神が巨人を殺して、この世界は生まれ、そしていまも続いているのです。母神が作られたこの世界は、そう簡単には滅びませんの』
フレーノの声とともに、周囲の水がゆらりと揺れる。
リゼットは微笑んだ。
「――おふたりとも、ありがとうございます。進まなければ始まりませんものね」
進むために白い網を払おうとした刹那、巨人の心臓が激しく動き始める。
活性化したかのように、鼓動が強く、早くなる。
「リゼット、早く終わらせてしまおう」
「はい――」
リゼットはアイテム鞄に手を伸ばし、中から『母神の右手』を取り出そうとした。
これを心臓に突き立ててれば、巨人は再び死ぬ。
問題はやり方だ。リゼット自身がこのダンジョンに囚われないように、注意して――……
その時、心臓の一部が大きく膨らむ。盛り上がった部分が裂けたかと思うと、中から何かが生まれた。
人の形をしたものは、生まれてすぐに立ち上がってこちらを見た。
それは、十六歳くらいの少女だった。
長い髪は赤く燃え、青い瞳は淡い水色の光を帯びていた。彼女の周囲には、炎と水が翼のように広がっている。
その表情は氷のように冷たく、右腕は白く輝き、細剣を携えていた。
「馬鹿な……」
レオンハルトが信じられなさそうな様子で呟く。
(――どこかで、見た顔だと思ったら……)
いうなればそれは、聖女としてのリゼットの姿だ。
聖遺物を賜り、世界のために、女神のために、心身を捧げた姿――……
【鑑定】ヨトゥンヘイム・エコー。巨人の防衛本能により生み出された反体。